春秋戦国時代

趙の烈侯は諸侯として認められた

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前趙の烈侯
姓・諱趙籍
生没年生年不明ー紀元前400年
在位紀元前408年ー紀元前400年
時代春秋戦国時代
一族父:献侯 弟:武侯 子:敬侯
コメント音楽を好んだ。

趙の烈侯は春秋戦国時代の趙の当主です。

この時代は魏の文侯の全盛期でもあり、魏の文侯の要請により趙の烈侯や韓の景侯も協力し、斉を討伐するなどしました。

三晋連合による斉の討伐が終わると、功績により周の威烈王からは諸侯として認められる事になります。

趙の烈侯の時代から趙は諸侯として正式に認められました。

史記では公仲連との逸話も掲載されており、人の良さが伺える人物でもあります。

趙の烈侯の時代の出来事

趙の烈侯は献侯が亡くなると、の君主として即位しました。

史記の趙世家によると、即位元年に魏の文侯が中山国を討ち、太子撃(魏の武侯)に守備させたとあります。

趙の烈侯の時代の主役は魏の文侯であり、呉起を任用しから河西の地を奪い終わっており、勢いがあったと言えるでしょう。

史記の趙世家には記録されていませんが、紀元前404年には斉を討ち大勝しました。

この戦いで魏の文侯は正卿の立場で晋の烈公を奉じ、周の威烈王の命令で、斉を攻めたわけです。

趙の烈侯としてみれば、魏の文侯の動きは目障りではありましたが、趙と斉は隣接国であり、共に衛を攻略しようと狙っていた間柄でもあり、出兵に関してはしやすかった可能性もあります。

三晋連合軍は斉に大勝し、紀元前403年に魏、韓、趙は褒美として、周の威烈王から諸侯として認められました。

趙の烈侯は諸侯として認められると、父親の趙の献侯に「侯」の身分の追諡を行っています。

趙の烈侯の末年である紀元前400年に、魏、韓、趙の三晋連合は楚を攻撃しました。

三晋連合は楚との戦いでも兵を出していますが、北方にある趙にとっては、楚は隣接国でも無く、楚への出兵はメリットが少なかったはずです。

しかし、晋の烈公や周の安王を奉じる、魏の文侯の命令に断る事が出来なかったのでしょう。

紀元前400年に趙の烈侯が亡くなっていますが、後継者は太子の趙章ではなく、弟の武侯が後継者となりました。

趙の烈侯と公仲連

史記に趙の烈侯と相国の公仲連の逸話が掲載されています。

趙の烈侯は音楽を好み、相国の公仲連に鄭の歌人である槍と石の二人に「田1万畝を与える様に」と命じました。

公仲連は「分かりました。」とは言いましたが、理由を付けて槍と石の二人に、田を与える事はなかったわけです。

公仲連は歌人らに領地を与えるつもりはなく、最終的に病気と称して参内しなくなりました。

この時に番吾の君が「牛畜、荀欣、徐越の三名を推挙する様に」と公仲連に進言しました。

再び公仲連が参内すると、趙の烈侯は槍と石の土地の事を訪ねますが、公仲連は牛畜、荀欣、徐越の三名を推挙する事になります。

趙の烈侯は牛畜、荀欣、徐越の話に感化され、重用しました。

それと同時に、公仲連には「歌人たちの土地の話は保留にする様に」と命じました。

趙の烈侯の愚鈍さと同時に、人柄の良さも分かる逸話になっていると感じた次第です。

「朱に交われば赤くなる」に通じる逸話でもあります。

先代:献侯烈侯次代:武侯

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細