
| 名前 | 屯田制(とんでんせい) |
| コメント | 民屯と軍屯がある |
屯田制は三国志の曹操が行った政策です。
曹操は流民に農機具などを貸し与え、屯田制を積極的に行った事で、食糧事情が改善し多くの戦いで勝利出来たとも考えられています。
ただし、屯田民はかなり過酷な生活をしていた様であり、逃亡する者もいたようです。
三国志の英雄たちが華々しい戦いを行った裏では、屯田民がいたと言えるでしょう。
今回は屯田制を解説します。
尚、屯田には民屯と軍屯が存在しています。
屯田制と部曲
豪族と部曲
後漢王朝の末期の世界では、豪族の力が強く多くの土地を支配し、豪族同士でネットワークを作り、政治を動かし自前で軍隊も持っていました。
尚、豪族に従属する人々を武曲と呼びます。
部曲の人々は豪族から食料と生命を保証され、代わりに懸命になって働く事になります。
この部曲の献身的な働きが、豪族たちを支えていたと言えるでしょう。
ただし、部曲は農奴でありかなり酷使されていた話も残っています。
三国志の群雄たちも豪族らに依存した存在であり、多くの豪族を味方にして勢力拡大を狙っていました。
袁紹も河北では外様であり、豪族に対しては、かなり気をつかう存在だったと言えます。
豪族は保有している部曲の人々を兵士にしたりして戦っていました。
豪族の持つ部曲に対抗するかの様に存在するのが、屯田制となります。
屯田制の始まり
後漢末期の世界は食糧不足や重税もあり、多くの人々が逃げ出し流民と化していたわけです。
この流民に目をつけたのが、曹操であり、食料と農業に必要な農具や牛耕を賃貸しました。
曹操は196年に、許県において大規模な屯田を行っています。
屯田制を曹操に進めたのは、棗祗と韓浩の二人だったと記録されています。
曹操の軍隊は曹氏一族の直轄軍の他に、多くの豪族たちが持っている兵士で構成されていました。
豪族たちの部曲の兵士が中核を担っていたと言えるでしょう。
曹操は許で屯田を行うだけではなく、魏の時代に、首都の洛陽近辺でも大規模な屯田地域があった事が分かっています。
魏では多くの地で大規模な屯田を行いますが、戦乱により無人化した多くの土地を没収し、それを国有地にした事が原因です。
魏では、国有地にした地域に流民を住まわせる様にしました。
曹操としてみれば屯田制を活発に行い、豪族になるべく頼らない形態を目指したのでしょう。
屯田制の闇
これだけを見ると、曹操は救世主に思えるかも知れませんが、屯田制は収穫の半分以上を国家に納める事になっており、魏の国有化された部曲でもありました。
屯田制は、豪族に流民が渡らない様にする為の仕組みでもあったったとみる事が出来ます。
尚、屯田民は過酷な生活を行っており、高い税もあった事から生活するだけでやっとだった話があります。
屯田民になった者の中では耐えきる事が出来ず、逃亡した者もいた事が分かっています。
それでも、餓死するよりはマシであり、人々は屯田制を受け入れたととも言えます。
三国志の英雄の華々しい活躍の裏には、酷使されていた武曲や屯田民がいた事になります。
民屯と軍屯
一般民衆を国家の小作人として使い、これを民屯と呼び、軍人が行う屯田を軍屯と呼びます。
この屯田制が国家財政を潤わせ、軍事費を支える基礎となりました。
淮水の流域では、軍屯が行われており、平時には軍人が自ら家族と共に耕作を行い出来るだけ自給する場合も多かったわけです。
西暦249年に司馬懿が正始の変を起こしますが、当時の状況をみると、洛陽の近辺では広大な屯田が行われていただけではなく、首都を守るための軍屯もまじっていた形跡があったと報告されています。
非常時には、屯田地域から軍隊を捻出したと考えられています。
軍人たちと、その家族は一般民衆とは別の戸籍が用意され、その子孫は代々に渡り兵役義務がありました。
これが兵戸であり、魏や西晋の時代だけではなく、南朝では五世紀の中頃くらいまで、兵戸が正規の軍隊の中核になっていたと言えるでしょう。
屯田制が天下統一の原動力だった
魏の初期の頃は屯田による財源により、養われる軍隊の力が中枢になっていましたが、政権が安定するにつれて、屯田のような直轄地以外にも、郡県からの租税も増加する事になりました。
魏は後に司馬氏に政権を牛耳られ乗っ取られてしまいますが、司馬氏の一族は強大な中央の軍事力を背景に、反乱を鎮圧したり、蜀や呉を滅ぼしました。
専門家によっては、三国志を終わらせた原動力は屯田にあったとする見解もあります。
魏は中原の豊かな地に屯田を行わせる事で、国家を潤わし三国志の中でも魏や呉よりも高い国力を持っており、最強の勢力になったとする見方があるという事です。