春秋戦国時代

魏の昭王は西方の領地を失うも東方に勢力を拡大した

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宮下悠史

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名前魏の昭王
姓・諱魏遫
生没年生年不明ー紀元前277年
在位紀元前296年ー紀元前277年
時代戦国時代
一族父:襄王 子:安釐王、信陵君
年表紀元前293年 伊闕の戦い
コメント秦に西の領地を取られるも旧宋の地を手に入れた。

魏の昭王は春秋戦国時代の君主です。

この時代にには白起がおり、魏の昭王は伊闕の戦いで敗れたり、61の城を奪われるなど秦に対抗できず苦しい立場となります。

魏の昭王の時代に旧都安邑などの西方の地を全て、秦に奪われました。

それでも、楽毅率いる合従軍に参加し、旧宋の地を得るなど東方に勢力を拡大しています。

尚、戦国四君の最強としても呼び声が高い信陵君は、魏の昭王の末子でもあります。

秦の攻勢

史記の魏世家によると、魏の昭王の元年(紀元前295年)に、秦がの襄城を抜いたとあります。

翌年も秦と魏が戦いますが、魏が不利だったと史記は記録しました。

魏世家の魏の昭王の3年(紀元前293年)には、を援け秦を攻撃するも、秦将の白起が魏軍を伊闕で破り、24万を斬首されたとあります。

この時の魏の将軍は公孫喜だったと伝わっていますが、魏と韓の連携が悪く、東周王朝の軍は頼りにならなかったのか、伊闕の戦いで大敗北を喫しました。

魏の昭王も秦の恐ろしさを身をもって知ったのではないでしょうか。

魏の凋落

紀元前290年に魏の昭王は河東の地・400里をに割譲したとあります。

当時のの領地はを間に挟み東西にありましたが、西部の領地の旧都の安邑を除き全て秦に割譲した事になります。

辛うじて安邑だけは残っていましたが、魏の西部の経営は壊滅したと言ってもよいでしょう。

父親の魏の襄王は何とか西部の地を守り抜きましたが、河東400里を割譲したのは、魏の凋落を感じる出来事でもあります。

史記の魏世家では同年に芒卯が詐術を用いて、魏の昭王に重用された話があります。

大小61の城を落される

魏の昭王の7年(紀元前289年)に、の城邑の大小合わせて61城を抜いたとする記述があります。

白起王翦列伝では、この時の将軍が白起だったと記載されています。

魏は伊闕の戦いで大敗北を喫し、数年後に秦の61もの城を落されれば、普通に考えれば国として壊滅状態ではないでしょうか。

後年に楽毅が斉を壊滅状態にしますが、この時に70余の城を陥落させた記述があり、は即墨と莒を残すだけとなりました。

この時の楽毅の攻勢と同じほどの城を魏は落とされた事になりますが、国は存続し東部方面に領地を拡げる結果となっています。

これらを考えると、魏の昭王の時代におきた一大事件であるはずの白起の61城陥落には疑問点の残ると言ってよいのではないでしょうか。

魏が支配する中原の地は人口の密集地帯であり、多くの城もあったはずですが、謎の記述でもあると感じました。

東西からの脅威

魏世家によると、魏の昭王の8年(紀元前288年)に秦の昭王が西帝となり、斉の湣王が東帝となるも、一カ月ほどで帝号を取りやめたとあります。

秦の昭王と斉の湣王の東西両帝は短期間で取りやめる事になりましたが、この頃には戦国時代初期の最強国であったの面影は無かったと言えるでしょう。

魏の昭王の9年(紀元前287年)には、秦に新垣と曲陽の城を落されました。

魏の昭王の10年(紀元前286年)に、が宋を滅ぼし、宋王が魏の温で亡くなったとあります。

紀元前286年に斉の攻撃を受けた宋の康王は、魏に逃亡するも亡くなったという事なのでしょう。

魏の昭王も宋の地は狙っていたはずであり、斉の脅威も感じる事となります。

尚、この頃に魏の昭王はに旧都の安邑を秦に割譲しており、西方の拠点を全て失いました。

それと同時に秦に安邑を割譲したのは、斉への対抗策の一つでもあったのでしょう。

旧宋の地を得る

紀元前284年に魏の昭王は、秦の昭王と西周で会見を行ったとあります。

当時の秦は斉を攻撃する狙いがあり、魏の昭王に合従軍への参加を要請したのでしょう。

魏世家には魏の昭王の12年(紀元前284年)に、と共に斉を討ち、済西の戦いで破ったと記録されています。

斉の湣王は逃亡しますが、燕軍だけがの国都である臨淄に入りました。

紀元前284年の戦いでは、合従軍を率いた楽毅の活躍ばかりが目に入りますが、は旧宋の領地を取ったと考えられています。

秦は東方に領地を得ましたが、飛び地でもあり、燕も結局は田単により奪った地を全て取り返されており、最大の恩恵を受けたのは魏の昭王だったと考える事が出来るはずです。

魏の昭王の時代に、東の旧宋の地を得て勢力を拡大しました。

魏が勢力拡大したのが気に入らなかったのか、魏世家によると紀元前283年に秦が魏の安城を抜き、首都の大梁にまで来て去った話がありまん。

魏世家には書かれていませんが、紀元前282年に魏の昭王や韓の釐王は、秦の昭王と会見を行っており、ここで講和が成立したのでしょう。

ただし、これ以降の魏の昭王の時代に秦と魏が交戦を行った記録は無く、秦の魏への侵攻は一旦は収まったと言えそうです。

魏の昭王の時代の晋との戦いは、紀元前282年を持ち終焉しました。

魏の昭王の最後

史記の魏世家によると、魏の昭王はその19年に亡くなったとあります。

魏の昭王は紀元前277年に、世を去った事になるのでしょう。

後継者として魏の安釐王が立ちました。

魏の安釐王は弟の信陵君を封じています。

先代:襄王昭王次代:安釐王

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