
晋陽の戦いは、趙襄子が智伯を破った戦いです。
智伯の勢力は六卿の中でも最大でしたが、晋陽の戦いで智氏は滅び趙・魏・韓が生き残りました。
智伯の水攻めにより晋陽の城は落城寸前になりますが、趙襄子が張孟談を魏桓子と韓康子の元に派遣し、寝返りを約束させた事で勝負は決しています。
晋陽の戦いは勝者の趙の方でも餓死者が多く出ており、過酷な戦いだったと言えるでしょう。
晋陽の戦いで智伯は討ち取られ、後に晋は趙・魏・韓の三カ国に分裂する事になります。
尚、春秋時代と戦国時代の分かれ目の説は幾つかありますが、晋陽の戦いが終わった紀元前453年を春秋時代と戦国時代の分かれ目とする説も支持する人が多い状態です。
晋陽の戦いを解説した動画も作成しており、記事の最下部から視聴できる様になっています。
智伯が韓・魏に土地を割譲させる
春秋時代の終わりが見えて来る頃には、超大国の晋では晋の公室が威勢をなくし、六卿が力を持つ事になります。
六卿の中でも争いとなり、范氏と中行氏が脱落し、智氏、趙氏、魏氏、韓氏が残りました。
史記によれば、晋で実権を握った智伯は、ますます傲慢となり、韓や魏に土地を要求し始めます。
韓康子は恐れますが、段規の進言もあり、知伯に土地を割譲しました。
その後、味を占めた智伯は魏に使者を出し、魏にも土地を割譲させる事にします。
この時に魏桓子も謀臣の趙葭の言葉もあり、納得して土地を割譲しました。
魏は智伯に1万戸の邑を割譲することになります。
智伯は趙にも土地を割譲させようとしますが、趙襄子はこれを拒否しました。
怒った智伯は魏と韓に趙の攻撃命令を出します。
韓や魏は智伯の命令に従いはしましたが、土地を割譲するなどされており、どちらかと言えば嫌っていました。
趙襄子は張孟談の言葉もあり、晋陽への籠城を決め、これが晋陽の戦いとなります。
趙軍が籠城する晋陽は趙鞅の才臣であった董閼安于がよく治めた地でもあります。
董閼安于と晋陽の城
趙襄子は晋陽に籠城しますが、董閼安于はよく治め城郭や府庫も満たされていました。
ここで矢が不足する問題が出ましたが、董閼安于が晋陽を治めていた時に、公宮の壁は全て矢の原料で作っていたわけです。
趙襄子や張孟談は、公宮の壁を壊し矢を作りました。
矢は十分に揃いましたが、銅が足りずまたもや壁にぶつかる事になります。
しかし、董閼安于は公室の柱は全て銅を使っており、ここから大量の胴を取り出す事に成功しました。
これにより趙軍は、晋陽を守る為の防備が完成したと言えるでしょう。
こうした中で、智伯の方も晋陽に攻め寄せ、紀元前455年に晋陽の戦いが幕を開ける事になります。
晋陽に水攻め
智伯は中央に自分の軍を置き、左右を韓と魏で固め晋陽に攻め寄せました。
韓と魏を両脇に配置したのは、両者が団結するのを阻止する狙いがあったと考えられています。
しかし、左右に魏と韓を配置した事が、智氏の敗因となるわけです。
智伯は晋陽の城を攻撃しますが、趙襄子は晋陽を固く守り敵を寄せ付けない戦いぶりを見せる事になります。
晋陽の城を力攻めで落とす事が出来ないと悟った智伯は、水攻めを考案しました。
晋水を決壊させ、晋陽の城に流し込む策を考えたわけです。
晋陽の城は三版を残して水没する事になります。
智伯が水攻めを行うと、民衆は竈を高い所に掛けて食事を作り、1年もすると食料も尽きて、飢餓に襲われる事になります。
ここからが晋陽の戦いの地獄の始まりでした。
趙の人々は飢えに苦しみ、子供を取り換えて食べる有様となります。
君臣の礼も失われますが、史記によれば高赫だけは礼の心を失わなかったとあります。
韓・魏が恐れを抱く
水攻めが上手くいった事で、智伯は得意気になっていました。
この時に、智伯の本陣には魏桓子と韓康子もやってきており、智伯は「儂は水で国を滅ぼせる事が出来ると知った」と述べています。
この言葉を聞いた魏桓子は魏の本拠地である安邑は、汾水があり、汾水の水を安邑に注げると言っていると悟り、韓康子は韓の首都の平陽の近くには絳水があり、水攻めに出来ると言っていると考え恐れました。
魏桓子が韓康子を肘で突き、韓康子が魏韓子の足を踏む事になります。
魏と韓は趙が滅びれば、智伯の標的にされる事は目に見えており、恐れを抱いたと言えるでしょう。
それと同時に、晋陽の戦いで勝利したとしても「地獄」だと考えたはずです。
絺疵の予感
智伯配下の絺疵は、韓康子と魏桓子の様子がおかしいことに気づきます。
智伯は絺疵の言葉を聞くと、韓康子と魏桓子を呼び出し、問いただしました。
韓康子と魏桓子は「絺疵は我らを讒訴し、晋陽城の攻撃を緩めさせたいと思っている」と主張します。
結局、智伯は2人の言葉を信じることになります。
絺疵は智伯が自分の意見を聞き入れない事を悟ると、難を逃れるために、斉への使者を願い出ました。
絺疵の言っている事は真実であり、智伯は余計な事をしたと言えるでしょう。
張孟談の外交工作と韓・魏の寝返り
智伯の方にも不安はあったものの、晋陽の城は落城寸前であり、趙襄子が弱気になっていました。
趙襄子は智伯に降ろうとしますが、それに反対した張孟談が使者となり、韓康子と魏桓子に会う事になります。
その結果、智伯の軍に攻め入られることを恐れていた韓と魏は、趙に寝返ることを約束しました。
この後に、張孟談は趙の軍使の資格で智伯にも会い、帰りに智伯配下の智過に姿を見られています。
智過は、張孟談の姿を見ると急いで智伯に会ったと言われています。
智過は怪しみ、韓と魏の陣に行き、韓康子と魏桓子の様子を見ることになり、2人が裏切ろうとしていると確信しました。
そのため、智過は智伯に魏桓子の謀臣と趙葭と韓康子の謀臣段規にそれぞれ、「趙を破ったら一万戸の邑を与える」と約束することを進言します。
しかし、智伯は考えすぎであるとしてこれを却下しました。
智過は、智伯が自分の進言を聴き入れない事が分かると、姓を改め智伯の元を去る事になります。
晋陽の戦いで智伯の軍では絺疵に続き、智過までもが敗戦を見越して離脱しました。
晋陽の戦いの決着
韓と魏の寝返りの約束が出来た事で、趙氏側も動く事になります。
韓と魏は水攻めの堤防を決壊され、趙の軍が智伯の本陣に襲い掛かりました。
智伯の軍は堤防が決壊し混乱が拡がっており、統制が取れない状態になっていましたが、そこに趙・魏・韓が襲い掛かったと言えるでしょう。
韓と魏による水攻めの後、趙襄子の軍が智伯の本陣を攻撃しました。
さらに、韓と魏も智伯の軍を攻撃し、智伯は呆気なく討ち取られています。
こうして、遂に晋陽の戦いが終わりました。
趙襄子は智伯を憎んでいた事もあり、智伯の髑髏を便器にしてしまったという話も伝わっています。
尚、智伯が可愛がっていた豫譲は刺客となり、趙襄子の命を狙う事になります。
晋陽の戦いのその後
晋陽の戦いが終わると論功行賞が行われますが、高赫だけは君臣の礼を失う事が最後までなかったため、恩賞の首座になりました。
それに対して、趙襄子が張孟談に、どれ位の恩賞を与えたのかは不明ですが、晋陽の戦いが終わると、張孟談が引退を申し出たと言われています。
張孟談は「君主と臣下の力が等しくて、国を維持できた話を聞いた事がない」と主張しました。
そして、張孟談は趙襄子の元を去った話があります
尚、晋陽の戦いの後に、趙襄子は晋の正卿になったと考えられています。
しかし、趙襄子は将軍としては一流だったのかも知れませんが、政治家としての要素は少なく正卿の位を利用し政治力を発揮する事はありませんでした。
三晋と呼ばれる趙・魏・韓は分裂の方向に向かい、ここから先は趙・魏・韓の君主は晋の朝廷に出席せず、自らの本拠地で暮らす様になったと考えられています。
春秋から戦国への転換点
春秋時代と戦国時代の分け目についてはいくつか説がありますが一つの説が「紀元前453年の晋陽の戦いの終焉をもって、春秋時代と戦国時代の境目にする」というものです。
晋陽の戦いで、韓氏、魏氏、趙氏の晋からの独立が決定的になったためです。
春秋時代と戦国時代のもう一つの分け目としては、紀元前403年に周王室から、正式に韓、魏、趙が諸侯として認められた時となります。
紀元前403年までは、韓、魏、趙は名目上は晋の大臣でした。
ちなみに、戦国時代の初期に勢力を伸ばしたのは、趙ではなく魏です。
先にも述べた様に趙襄子は正卿の位を使って政治力を発揮しませんでしたが、魏の文侯は晋の正卿としての立場を利用し政治力を発揮しました。
魏の文侯の元に西門豹、李克、呉起などの優秀な人材が集まり、国力を増して行くことになります。
また、『史記』の「趙世家」によると、後の始皇帝となる嬴政が秦王に即位した紀元前246年に、秦の蒙驁により晋陽が奪われてしまいました。
晋陽の陥落は、かつて趙襄子が智伯を討ち、三晋分立を成し遂げた時代からすれば、趙の国力が大きく衰えていたことを象徴していると言えます。
紀元前246年の晋陽の陥落は、趙の滅亡が見えた様な気がしてなりません。
晋陽の戦いの動画
晋陽の戦いを題材にしたYouTube動画となっています。