
| 名前 | アメンホテプ1世 |
| 生年 | 不明 |
| 時代 | エジプト文明 |
| 王朝 | エジプト第18王朝 |
| 一族 | 父親:イアフメス1世 娘:ムウトネフェルト |
| コメント | ミイラが話題になった。 |
アメンホテプ1世はエジプト第18王朝のファラオです。
イアフメス1世の子であり、エジプト第18王朝の2代目ファラオとなります。
アメンホテプ1世の父親のイアフメス1世はヒクソスを駆逐しており、後継者のトトメス1世は遠征が征服し一部の間では「エジプト新王国の最強のファラオ」として呼び声が高いと言えます。
アメンホテプとトトメスの間に挟まれたアメンホテプ1世は地味な様にも感じるかも知れませんが、ヌビア遠征を行ったり、宗教改革を行うなどの精力的に活動を行いました。
尚、アメンホテプ1世のミイラはエジプトの大エジプト博物館にあります。
アメンホテプ1世の政策
イアフメス1世が亡くなると、アメンホテプ1世が後継者になります。
アメンホテプ1世の治世9年には、シリウス(ソティス)の観測記録が残されています。
この記録をもとに星の運行を逆算すると、観測地がメンフィスであった場合は紀元前1546年、テーベであった場合は紀元前1526年に即位したことになります。
この頃にはヒッタイトやミタンニが力を持ち始め、ハンムラビ法典で有名なバビロン第一王朝が滅んでいました。
アメンホテプ1世は幼かったため、母親であるイアフメス=ネフェルトイリが摂政になりました。
アメンホテプ1世はファラオになってから8年目に、ヌビア遠征を行っています。
ヌビアのクシュ王国が力をつければ、エジプト本土が脅かされる可能性が高まるため、エジプトとしては早い段階で打撃を与えておきたいと考えたのでしょう。
アメンホテプ1世はサイ島に要塞を築くなど南方の防衛体制を強化し、ヌビア遠征も大きな成功を収めました。
父イアフメス1世もヌビア征服を望んでいたと考えられるため、アメンホテプ1世は父の悲願を果たしたと言えます。
ここで注目したいのが、アメンホテプ1世がヌビア遠征で成功した事で、エジプトに多くの黄金や物資がもたらされたという事です。
エジプトは黄金が枯渇し衰退したと考えられているため、ヌビア遠征の恩恵は非常に大きかったと言えます。
アメンホテプ1世は莫大な富を使ってカルナクにアメン大神殿など様々な神殿を建造し、増築を積極的に行っています。
テーベの西岸にはピラミッドを持つ日干しレンガの葬祭殿も建造しています。
ただし、アメンホテプ1世の建設物には、後の時代に別の建造物に造り替える為に取り壊されたものもあります。
しかしながら、エジプト人が最も栄えていたのはエジプト新王国の時代だったのではないかと感じます。
アメンホテプ1世は南のヌビアに領土拡大した記録はありますが、西アジアの方には手を出さなかった様で、エジプトの本国は比較的平和だったとされています。
攻守のバランスが取れた政策をしたのが、アメンホテプ1世と言えるのではないでしょうか。
アメンホテプ1世の宗教改革と王墓の謎
アメンホテプ1世と母親のイアフメス=ネフェルトイリは、死後に神格化されています。
また、アメンホテプ1世の時代には宗教においても大きな変化があった事が分かっています。
それが、ファラオが太陽神と同一視される様になったということです。
太陽は毎日昇る様に、ファラオも毎日復活するとみなされたのです。
アメンホテプ1世の王墓地に関しては、はっきりと分かっていません。
アメンホテプ1世の時代から400年ほど経過したエジプト第20王朝の時代に、ラムセス9世が王墓の調査を行っています。
この時に、ラムセス9世はアメンホヘプ1世の墓は無事であり、盗掘などはされていなかったと報告したそうです。
ラムセス9世によるアメンホテプ1世の墓の報告は『アボット・パピルス』と呼ばれています。
アボット・パピルスによれば、その場所はパ・アカのアハイから約63キロの地点で、アメンホテプ神殿の北、アメンホテプの庭でした。
しかし、そのパ・アカの場所でさえも分からなくなってしまっています。
パ・アカは地名ではないかと言われています。
アハイに関しては、「高い所」や「そびえたつもの」という意味がありますが、詳しいことは明らかになっていません。
アメンホテプ1世の墓の候補地と王家の谷との関係
アメンホテプ1世の墓として有力なのが、ドゥラ・アブー・アル=ナガー地区であり、この地域ではアメンホテプ1世の王族が古くから墓所として使っていた事が分かっています。
そして、その場所からはアメンホテプ1世の陵墓と思われる多くの破片が出土し、アメンホテプ1世の名前や、父母など縁のある人物の名前が書かれていました。
ドゥラ・アブー・アル=ナガーの墓の下にある耕地の端には、アメンホテプ1世と母親であるイアフメス・ネフェルタリを祀った葬祭殿もあります。
先ほども述べましたが、『アボット・パピルス』にはアメンホテプ1世の墓がパ・アカのアハイから約63キロの地点にあり、アメンホテプ神殿の北、アメンホテプの庭に位置すると記されています。
そして、「アハイ」という言葉には高い場所という意味があります。
そのため、アメンホテプ1世の墓は、神殿の北側にあり、かつ高所に位置するという二つの条件を満たす地点にあったと考えられるのです。
もう一つ、アメンホテプ1世の墓として有力視されている場所が「王家の谷」です。
王家の谷で一番古い墓はトトメス1世のものとなっています。
この点については、後で詳しく述べます。
王家の谷とアメンホテプ1世が関連付けられているのは、アメンホテプ1世とその母イアフメス・ネフェルタリが、その墓職人の街で神として祀られているためです。
そのため、王家の谷の最初の被葬者はトトメス1世ではなく、アメンホテプ1世だったのではないかと考えられるようになりました。
この「アハイ」という語の「高い場所」は、墓の近くにあった作業員たちの小屋を指すという解釈も存在し、アメンホテプ1世の墓の候補地を考える上で重要な要素となっています。
カーターらが発見した墓からはヒクソスのアポピ1世の娘であるヘレトの名前が入った破片が出土しています。
そのため、アメンホテプ1世の母親であるイアフメス・ネフェルタリがヒクソスだったとする説が生まれました。
しかし一般的には、イアフメス・ネフェルタリはエジプト人であったと考えられています。
尚、アメンホテプ1世の王墓は不明ですが、ミイラに関しては複雑な経緯を得て発見されており、現在も未開封ではありますが、科学の力を使ったデジタル開封(スキャン)が行われました。
アメンホテプ1世のミイラはエジプト・カイロの大エジプト博物館にあります。
トトメス1世の即位
アメンホテプ1世ですが、彼には世継ぎがいなかったとされています。
アメンホテプ1世はヌビア遠征や建築事業など多くの業績を残し、比較的長い治世を送ったものの、子どもには恵まれませんでした。
そのため、先にも名前が登場したトトメス1世が後継者として即位することになります。
しかし、トトメス1世の父親が誰であったのかは明確になっていません。
トトメス1世がアメンホテプ1世の子でなかった事だけは、確かなのでしょう。