
| 名前 | ハトシェプスト |
| 生年 | 不明 |
| 時代 | エジプト文明 |
| 王朝 | エジプト第18王朝 |
| 一族 | 父:トトメス1世 母:イアフメス |
| 配偶者:トトメス2世 娘:ネフェルウラー |
ハトシェプストはエジプト新王国時代の人物です。
エジプト第18王朝の人物でもあり、トトメス3世の時代には摂政となりました。
トトメス3世は即位した時に僅か6歳の子供であり、ハトシェプストが実権を握ったと言えるでしょう。
ハトシェプストは広報の女王の異名も持っており、貴族たちにも富が行くように割り当て、宣伝なども駆使し支持を集めました。
時代が進むとハトシェプストはトトメス3世の摂政ではなく、共同統治王としてファラオの位に就いています。
ハトシェプストの時代は交易で国を富ませたなどの評価もありますが、西アジアへの遠征を疎かにした事で、ミタンニ王国の進出を許したというものがあります。
ハトシェプストが亡くなると、トトメス3世の時代になり、エジプト第18王朝は、大軍事遠征の時代に突入する事になります。
新王国の台頭とハトシェプストの出自
ハトシェプストが生まれた当時の情勢を最初に解説します。
ナイルデルタを占拠していたヒクソスを駆逐したエジプト第18王朝は、順調に国力を増強していきました。
パレスチナや南のヌビアに遠征を行い、莫大な黄金を得ることに成功しています。
エジプト新王国はエジプト古王国やエジプト中王国よりも、強大であったと考えられています。
ハトシェプストの父親であるトトメス1世は高い軍事能力を持っており、各地に遠征し大成功を収めました。
トトメス1世は古代エジプトのナポレオンと呼ばれたトトメス3世に、匹敵するだけの軍事力を持っていたともされています。
トトメス1世とイアフメスの間に生まれた第一王妃が、後に女性ファラオとして知られるハトシェプストでした。
エジプト新王朝の王妃は強い権限を持っていたとされており、最初の女性ファラオがハトシェプストだと言われています。
エジプト第12王朝(中王朝時代)の最後のファラオ・セベクネフェルウも女性のファラオでした。
しかし、実際にはエジプト史には彼女以前にも女性ファラオが存在しています。
エジプト第6王朝の最後のファラオであるニトクリスが最初の女性ファラオであり、セベクネフェルウは史上2人目の女性ファラオであるとされています。
では、ハトシェプストがなぜ最初の女性ファラオだと言われる様になったのでしょうか。
ニトクリスに関しては、古代エジプト史家マネトの記録にしか登場せず、実在性が疑問視されています。
同じくマネトが記した「第7王朝は70人のファラオが70日で交代した」という伝承もあり、ニトクリスについても信憑性が低いと見なされがちです。
一方、セベクネフェルウは確実に実在した女性ファラオですが、治世がわずか数年と短く、政治的影響力も限定的でした。
第12王朝は約200年を8人のファラオで回していますが、末期の王たちは非常に短命であったようです。
女神官としての教育と神官勢力の台頭
ハトシェプストという名前には「貴婦人のうちの第一の者」という意味があります。
エジプトの女性ファラオと言えばクレオパトラが非常に有名ですが、ファラオとしての権威や権力でいえばハトシェプストが圧倒していたと言えます。
ハトシェプストは年若くして、エジプトの女神官として育てられました。
エジプト新王朝は各地への遠征で大きな成功を収め、王権は強大になっていきました。
しかし、王の力が増すのと同時に、神官たちの権力も急速に拡大していったことが知られています。
遠征で得た莫大な戦利品は、しばしば「アメン神のおかげで勝利した」として神殿に奉納されました。
その結果、アメン神殿は富と土地を蓄え、神官たちは国家の中で巨大な勢力を持つようになったと考えられています。
ハトシェプストの父であるトトメス1世は非常に精力的な君主で、遠征に出かけることも多く、首都テーベを留守にすることがよくありました。
テーベに王が不在の時は、神殿勢力の長がファラオの代行として統治を行ったとされています。
ハトシェプストは女神官であり、こうした状況を目の当たりにしながら育ったのではないかとされています。
そのため、ハトシェプストの元々の性格だけではなく、女神官時代の経験が後に影響を及ぼしたと言えます。
トトメス2世との結婚と摂政への道
ハトシェプストは父トトメス1世が若くして亡くなった後、自分の王の娘という称号が形だけのものとなることを恐れていました。
そこで、兄弟に嫁ぎ王妃となり、権力を得ようと考えます。
ハトシェプストは異母兄弟のトトメス2世に嫁いでいます。
ファラオとなったトトメス2世ですが、病弱であった事が分かっています。
トトメス2世のミイラを調査したところ、心臓の肥大化などが見つかり、健康上の問題を抱えていた事が判明しました。
古代エジプトのファラオは戦場に行く事もあったため、心臓に病を抱えたトトメス2世にとって王の役割は過酷なものであったと思われます。
トトメス2世は、ファラオになってから僅か3年ほどで亡くなったと考えられています。
ハトシェプストとトトメス2世との間にはネフェルウラーという子が誕生していました。
トトメス2世の後継者には、イシスという女性との間に生まれた子のトトメス3世が選ばれています。
トトメス3世は後に「古代のナポレオン」と称され、その治世にエジプト新王国は最大領域に拡大しますが、
トトメス2世が亡くなった時はまだ子どもであり、即位した時にはわずか2歳であったそうです。
トトメス3世の母であるイシスに権力が移ってしまうことを、ハトシェプストは強く危惧していました。
そこで彼女は、自分こそがトトメス1世の娘であり、トトメス2世の正妻であり、さらに「アメンの正妻」という宗教的権威も持つ存在であるとし、摂政として国を統治する正当性を主張しました。
本来、摂政はファラオの母が務めるのが一般的であったにもかかわらず、ハトシェプストは母ではない立場から摂政の座に就いてしまいました。
これは異例の事態でしたが、彼女が王族や貴族の世話をよくし、周囲からの信頼と支持を集めていたことが背景にあると考えられています。
さらに、ハトシェプストは神官としての経験もあり、政治的手腕にも優れていたため、彼女が摂政として国をまとめることは十分に可能だったと見られています。
摂政ハトシェプストの政治:富の分配と貴族の支持
摂政となったハトシェプストは、得た富を自分だけで独占するのではなく、貴族たちに積極的に分配しました。
トトメス2世の時代までは、エジプトの貴族が豪勢な墓や彫刻、贅沢品を所有する例は多くなかったとされています。
しかし、トトメス3世の時代に入ると、貴族たちの墓から豪華な副葬品や高価な装飾品が大量に出土するようになり、この時期に貴族階級が急速に裕福になったことが確認されています。
廷臣イネニは、自らの墓に刻んだヒエログリフの中で、ハトシェプストを次のように称えています。
イネニ「アメンの正妻であるハトシェプストは、行うべきことを行い、二国(上下エジプト)を守った。
二国は彼女の言葉をよく守り、彼女は国をよく治めた。
エジプトは彼女に従順であった。」
この記述から、ハトシェプストが摂政としてだけでなく、実質的な統治者として高く評価されていたことが分かります。
ハトシェプストの時代が安定していた背景には、ナイル川が順調に氾濫してくれたことも大きかったと考えられます。
エジプトはナイル川の氾濫によって肥沃な土壌を得ていたため、氾濫が起こらなくなると食料不足に陥り、国家はたちまち混乱に巻き込まれてしまいます。
そのため、ナイル川が安定して恵みをもたらした時代は、政治も自然と安定しやすかったのです。
また、廷臣イネニがハトシェプストを絶賛した理由の一つとして、彼女がイネニに多くの褒美を与えたことも挙げられます。
多くの貴族たちは、「ハトシェプストが摂政になれば、自分たちがより裕福になれる」と考え、彼女を支持したとされています。
つまり、ハトシェプスト自身が強引に権力を奪ったというより、貴族たちが自分たちの利益を拡大するために、彼女を担ぎ上げた側面が強いと考えられます。
この構図を踏まえると、ハトシェプストは貴族たちの上に立つ存在でありながら、同時に貴族たちの利益の上に“乗っている”存在でもあったと言えるのではないでしょうか。
一説によると、ハトシェプストが摂政になったのは20歳にも満たない頃であり、貴族たちの意思が政治に大きな影響を及ぼしたと考えられています。
20歳未満の若い女性では、上手く政治が行えるのかは不透明で、貴族たちの発言に従わなければならない部分も多かったと思われます。
それでも、ハトシェプストは貴族との協調を重視し、貴族と対立することはありませんでした。
その一方で、貴族を優遇しつつも、権限が特定の人物に集中しないようにバランスを取り、巧みに権力の均衡を保っていたとされています。
二頭体制の財務官
ハトシェプストが権力者として存在し続けるために採った方法の一つが、野心家の貴族を高官に登用し、側近として配置し、自分の利益のために働かせることでした。
彼女は財務官の一人にセンエンムウトを任命しました。
センエンムウトは特定の有力人脈を持っていませんでしたが、ハトシェプストの側近であり、彼女の娘の家庭教師でもあるという理由から、ハトシェプストは彼を信頼できる人物と判断しました。
さらにもう一人の財務官として、名門貴族であるイアフメス・ペンネクベトを指名しました。
イアフメス・ペンネクベトは貴族社会で名が通っていたため、貴族たちも受け入れやすかったとされています。
周囲の人々は、「センエンムウトとイアフメス・ペンネクベトを並べて財務長官にすれば、誰も文句を言うまい」と考えました。
ハトシェプスト自身も、これは貴族たちが自分を食い物にし、自分たちの利益ばかりを追求するのを防ぐための方法だと理解していました。
つまり、二人の財務官を競わせ、勢力を拮抗させ、その上に自分が立つという構図を作り出したのです。
センエンムウトについては、ハトシェプストの愛人だったのではないかという説が古くから存在しています。
センエンムウトを描いた作品には、妻と共に描かれたものはほとんどなく、代わりにハトシェプストの娘ネフェルウラーあるいは自身の両親が描かれている例が多いです。
ただし、現代の研究では、ハトシェプストとセンエンムウトが本当に愛人関係だったのかどうかは、はっきりとは分かっていません。
神の権威の利用と正統性
さらに、ハトシェプストは自らの影響力を強めるために、神々の権威を巧みに利用しました。
彼女は権力強化の際に「これは私の意思ではなく、神アメンの意思である」と主張し、政治的決定に宗教的な正統性を付与しました。
さらに、ハトシェプストは自らが神と交信したという話まで残しています。
通常、摂政が神と直接交信するというのは異例の行為ですが、もともと女神官としての経験を持っていたため、これを自然な形で行うことができたと考えられます。
ハトシェプストは亡夫であるトトメス2世の像を複数に渡り建設しています。
先代を祀るのは、現行のファラオの仕事であることが多いですが、この場合は代わりにハトシェプストが行い摂政としての地位をアピールしました。
ハトシェプストはトトメス2世の妻であった時は「アメン神の正妻」という地位でしたが、夫の死後もこの地位を保ち続けました。
トトメス3世の時代になれば、トトメス3世の妻がアメン神の正妻になるはずでは、と思われるかもしれません。
実際、ハトシェプストは娘のネフェルウラーをトトメス3世に嫁がせて、ネフェルウラーを「アメン神の正妻」にしたいと考えていたようです。
しかし、ネフェルウラーもトトメス3世同様に幼かったため、ハトシェプストがアメン神の正妻という称号を保持し続けることになりました。
ハトシェプストがアメン神の正妻の称号を保持し続けても、貴族たちは文句を言わなかったとされています。
ハトシェプストが権力を握り続ければ、自分達にとって有益であると考えたのかもしれません。
ハトシェプストの広報戦略
ハトシェプストは自らの影響力を強めるため、センエンムウトをアスワンに派遣し、「トトメス3世のため」という名目でありながら、実際には自分自身のレリーフを描かせる工事を行わせました。
さらに、王の装束をまとった自身の絵画を制作し、公の場に公開しました。
ハトシェプストは各地に王の姿をした自分を描かせ、民衆や貴族の反応を慎重に観察しながら、自らの王位への道を整えていったとされています。
センエンムウトが制作した壁画の碑文には「女王陛下」という表現が使われており、すでにハトシェプストがファラオのように扱われていたことが分かります。
こうしてハトシェプストは周囲の反応を見つつ計画を進め、ついには摂政から共同統治者となり、正式に女王(ファラオ)として即位しました。
彫刻や壁画には、「男装し、王の儀礼服を着た姿」「ネメス頭巾をかぶった姿」「しかし女性として描かれた姿」の両方が存在しています。
また、ハトシェプストは「アメン神が私を選んだ」という神託を広め、正統性を強調しました。
この広報戦略は非常に巧妙で、彼女の王位を確固たるものにしました。
トトメス3世との共同統治
ハトシェプストが女王となり、トトメス3世と共同統治を行うようになったのには、明確な理由があったと考えられています。
もともとハトシェプストは摂政であり、あくまでも幼いトトメス3世が成長するまでの“代役”にすぎませんでした。
しかし、トトメス3世が成長すれば、彼の周囲に人々が集まり、派閥が形成され、ハトシェプストにとって不利な状況が生まれる可能性がありました。
さらに、トトメス3世が自ら政治を行うようになれば、ハトシェプストは摂政としての役割を終え、引退せざるを得なくなります。
そのため、ハトシェプストはトトメス3世の成長を恐れ、自らの権力を維持するために共同統治者という立場を選んだと考えられています。
一方、貴族たちもトトメス3世が単独でファラオになった場合、自分たちが今までのように優遇される保証がないと感じていました。
そのため、貴族たちの思惑はハトシェプストと一致し、彼女の権力強化を支持する方向へ動いたとされています。
こうして、ハトシェプストは女王に即位することになりました。
正統性の強調とネフェルウラーへの期待
ハトシェプストはエジプトの女王になってからは、トトメス2世の正妻であったことをアピールするのではなく、父親でファラオであったトトメス1世の直系の娘だという事をアピールしています。
ハトシェプストはファラオの子であると主張することで、自らのファラオとしての正統性に対する批判を避けようとしたと考えられます。
ハトシェプストは神官勢力や貴族など、多くの有力者から支持を受けていたため、正統性さえ確立できれば、人々は自然と彼女に従う状況が整っていました。
ハトシェプストはトトメス3世との共同王という立場でしたが、「彼女を賛美すれば彼の命は続き、彼女の威厳を無視すれば命は尽きる」
という文章が残されていることなどから、非常に大きな権力を持っていたと考えられています。
ハトシェプストは娘であるネフェルウラーに自分の後継者になってもらいたかったのではないかと考えられています。
一部の研究者は、ハトシェプストはネフェルウラーに自分の「アメンの正妻」の称号を譲ったのではないかと指摘しています。
もしネフェルウラーがトトメス3世と結婚すれば、トトメス3世の暴走を抑える“抑え役”になるといった効果が期待できた可能性があります。
しかし、現代に残る記録には、ネフェルウラーとトトメス3世が結婚した、または二人が男女関係にあったといった確実な証拠は一切存在しておらず、
ハトシェプストがどこまで本気でネフェルウラーを後継者にしようとしていたのかは、今となってははっきりとしていません。
ハトシェプストは即位当初は女性のような服装をしていたとされていますが、途中から完全に男装をするようになっています。
男性がファラオになるのが通例であったため、ハトシェプストも王として振る舞うには男性の姿を取る方が政治的に都合が良いと考えたようです。
ハトシェプストはエジプト第12王朝の女性ファラオであるセベクネフェルを手本にしたとされています。
セベクネフェルは一族の者がいなくなり、仕方なくファラオとなった人物であるとされています。
ヒクソス時代への反発と平和的統治
ハトシェプストはエジプトがヒクソスに支配されていた時代は「神が無視された時」であり、憎むべき時代だと思っていました。
そのため、ヒクソスに破壊された神殿などを積極的に修復したとされています。
実際にはエジプトの貴族や国民の敵視する目をヒクソスに、向けたかったのではないかと考えられています。
ハトシェプストは一般に「女性らしい平和的な統治を行い、戦争を好まなかった」と言われることが多いです。
しかし、実際には治世の初期に戦争へ出陣した記録が残っており、完全な非戦主義者ではなかったようです。
ただし、彼女は戦争の過酷さが性に合わなかったのか、比較的早い段階で軍事行動から距離を置くようになりました。
ハトシェプストは「広報の女王」であると述べた研究者がいるように、その後は宣伝活動などに力を注いでいくことになります。
ハトシェプストは、どちらかと言えば内政に力を入れたとする見方が強く、プント(現在のソマリアあたり)との交易を再開した事が分かっています。
さらに、プントだけではなくクレタ島や南方など、様々な地域とも交易を行っています。
特に地中海交易が盛んとなり、クレタ文明などの影響をエジプトも受けていたとされています。
晩年の不運と死
ハトシェプストは、さまざまな神殿の修復や大規模な建築事業を積極的に進め、内政面で大きな功績を残しました。
しかし、その治世の終盤は突然の不運に見舞われます。
治世11年目には、彼女が深く期待を寄せていた娘ネフェルラーが死去しました。
ハトシェプストにとって、この喪失は大きな精神的打撃となったと考えられます。
また、長年にわたり腹心として仕えたセンエンムウトも、ある時期から史料に名前が見えなくなり、失脚したと推測されています。
これについては、ハトシェプストとの関係が断たれたためではないかという説もあります。
さらに、ハトシェプストは軍事行動を好まなかったとされ、その影響でパレスチナなど一部の属地がエジプトに背を向ける動きも見られました。
地中海東岸の諸地域は、強力なエジプト軍が遠征のために通過する際には食料を提供するなど協力的でしたが、軍の影響力が及ばなくなると離反する傾向があったのです。
エジプトは国外に対して比較的寛容な統治を行っており、これらの地域を直轄地として支配していませんでした。
ただし、先ほども述べたように、ハトシェプストは戦争を全くしなかったわけではないという主張もあります。
ハトシェプストもやがてこの世を去りますが、彼女のミイラはすでに同定されています。
ミイラの状態を確認すると外傷は見られず、暗殺や暴行による死ではなかったことが分かっています。
一方で、ハトシェプストは糖尿病を患っていた可能性が指摘されており、これが死因に関わったと考えられています。
自分は神に選ばれたと主張したハトシェプストであっても、病には抗えなかったということなのでしょう。
トトメス3世の単独統治
ハトシェプストが亡くなると、「エジプトのナポレオン」と称されたトトメス3世が単独王となっています。
戦いの天才とされるトトメス3世は、20年ほどの間に17回もの遠征を行っており、エジプト新王国の領土は急速に拡大していきました。
トトメス3世はパレスチナなどの小国を屈服させると、王子たちをエジプトに連れ帰っています。
各国の王子たちを人質としてエジプトへ連れ帰った際、トトメス3世は
「彼らを人質として扱うのではなく、エジプトの素晴らしさを学ばせたうえで帰国させたい」と語ったと伝えられています。
封鎖的な地形を持つエジプト・クレタ島・日本・インドなどでは、しばしば“お人好し”が成就しやすいと言われますが、トトメス3世の姿勢もその典型のように見えます。
戦場では勇猛果敢な将軍であった一方、人格的にはよくできた人物であったと考えられています。
ただし、トトメス3世の遠征が成功したのには、ハトシェプストの時代にエジプト新王国では富を蓄える事が出来たとする見解もある状態です。
しかしその一方で、トトメス3世は「エジプトのファラオは男性がなるべきである」という価値観を強く持っていたとされ、ハトシェプストの名を歴史から抹消しようとしたとも言われています。
実際、王名表からハトシェプストの名前が削除され、彼女の肖像も多くが削り取られるなど、彼女の痕跡は意図的に消し去られていきました。
トトメス3世がハトシェプストを憎んでいたと解釈されることもありますが、彼が彼女の名を抹消しようとしたのは、ハトシェプストの死から約20年後のことであり、個人的な恨みに基づく行為ではなかったと考えられています。
もしトトメス3世が本当に彼女を憎んでいたのであれば、もっと早い段階で破壊行為に及んでいたはずです。
ハトシェプストの評価
エジプトにはハトシェプストの他にも、女性ファラオがいたとされていますが、違いを解説します。
今までの古代エジプト王朝を見ても、エジプト第12王朝の最後の女性ファラオであるセベクネフェルは、王家の血統が途絶えたため、やむを得ず王位を継いだとされます。
その一方で、ハトシェプストは積極的にファラオとして即位しようとしていました。
ハトシェプストは「ファラオは男性がなるものである」という伝統を破りました。
ハトシェプストの名が後に抹消されたのは、彼女の判断が“良くない前例”として扱われたためではないかという印象を受けます。
今回はトトメス3世がハトシェプストの名を抹殺したという前提で話を進めましたが、ハトシェプストの名を抹殺したのは、トトメス3世ではなかったとする説も存在します。
しかし、3000年以上も前のことであるため、正確な部分は分からないままとなっています。
ハトシェプストは生前、政治的なバランス感覚に優れた統治者でしたが、そのバランスを死後まで維持することはできなかったように感じられます。
エジプトの女王といえばクレオパトラを思い浮かべる人が多いかもしれませんが、権勢という点では、ハトシェプストの方がはるかに上だったのではないでしょうか。
クレオパトラが美貌と外交術を武器にした人物だとすれば、ハトシェプストは徹底した広報戦略を武器にした人物だったと言えるかもしれません。
ハトシェプストの弱腰がミタンニ王国の勢力が拡大したとする見解もありますが、ハト派として国を良くまとめたとみる事も出来ます。