
陳の宣公は陳の桓公の末子であり、兄の陳の荘公が亡くなると即位しました。
陳の宣公は太子を御寇としていましたが、款(陳の穆公)を寵愛し、御寇を殺害してしまいました。
このやり方は余りにも非道であり、人間性を問題視される部分もあります。
尚、御寇の事件で連座を畏れた陳韓が斉に亡命し、田氏の祖となっています。
ただし、陳の宣公の時代に斉の桓公の同盟に加わるなどしました。
陳の宣公が亡くなると、陳の穆公が即位する事になります。
陳の宣公が立つ
陳の宣公は兄の陳の荘公が亡くなると即位しました。
史記の陳杞世家によると、陳の宣公の3年に楚の武王が亡くなり、楚が初めて強大になったとあります。
楚の文王はカリスマ的な人物でもあり、周辺勢力を討伐し楚はさらに強大になります。
陳の宣公の17年には、周の恵王が陳の妃を娶り、后にしたとあります。
この女性が陳嬀であり恵后とも呼ばれる様になりますが、陳の宣公との関係は不明です。
陳嬀は陳の宣公の娘と言った所でしょうか。
陳完の出奔
史記によると、紀元前672年に陳の宣公は年齢がいってから寵妾の間に、款という子が生まれました。
陳の宣公は款を後継者にしたいと考える様になり、太子の御寇を殺害しています。
この点から、陳の宣公の非道さが分かる様な気もしました。
御寇は日ごろから陳完と仲が良く、身の危険を感じた陳完は顓孫と共に斉に亡命する事になります。
斉の桓公は陳完を受け入れ、陳完は田氏の祖となり、斉で暮らす様になりました。
諸侯との友好
春秋左氏伝によると、魯の荘公の25年(紀元前669年)に陳の女叔が使節として魯に来たと言います。
春秋左氏伝には陳と友好を結んだのは、これが最初だとあります。
陳の宣公は魯と友好を結んだ事になります。
魯の方でも陳との友好はめでたいと考えており、春秋には女叔と書き名前を書かなかったのは、喜ばしい事だったからだと春秋左氏伝は解説しました。
尚、紀元前667年には斉の桓公が主催する幽の会盟に魯の荘公・宋の桓公・鄭の文公と共に陳の宣公も参加した記述があります。
幽の会により陳も斉の覇者体制に組み込まれたと言えるでしょう。
轅濤塗の事件
陳の宣公の37年(紀元前656年)に斉の桓公は諸侯の軍を率いて蔡を攻撃し、さらには楚にまで兵を進めました。
召陵の会が終わると斉の桓公は帰還しますが、陳の大夫である轅濤塗が陳を通れば陳の負担が大きくなると考え、東の道を通る様に進言しています。
しかし、東の道は悪路であり斉の桓公は轅濤塗を捕らえました。
轅濤塗の事件に陳の宣公が何処まで関わっていたのかは不明です。
尚、史記の陳杞世家では同年の出来事として、晋の献公が太子の申生を殺害した事件を掲載しています。
陳の宣公の最後
史記によると陳の宣公はその45年に亡くなったとあります。
陳の宣公が亡くなると、太子の款が後継者となり、これが陳の穆公です。
陳の宣公は陳の穆公を後継者にする為に、御寇を殺害までしましたが、事は上手く行ったと言えるでしょう。
尚、春秋左氏伝には魯の僖公の11年(紀元前648年)の出来事として陳杵臼が卒っしたとあり、最後の描写などの記述はありません。
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