レコンキスタ

カスティーリャ王国はレコンキスタの中核国

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前カスティーリャ王国
地域イベリア半島
コメント内部で争いながらもレコンキスタを推進した。

カスティーリャ王国は中世のイベリア半島にあった国です。

ナバラ王国サンチョ大王が分割相続を行いフェルナンド1世にカスティーリャを与えた事で誕生しました。

カスティーリャ王国の東にはポルトガル王国があり、西にはアラゴン王国がありました。

こうした事情からカスティーリャ王国は海に面した部分が少なく、陸でレコンキスタを遂行していく事になります。

レコンキスタと言えば、キリスト教国の悲願だと思われがちですが、実際にはカスティーリャ王国が中心となって進めたと言えるでしょう。

後にカスティーリャ王国はイザベル1世がアラゴン王国のフェルナンド2世と結婚し統合され、スペイン王国へと姿を変える事になります。

尚、カスティーリャ王国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

カスティーリャ王国の始まり

(画像ソフト:GeaCron

ナバラ王国はサンチョ大王の時代にイベリア半島の北の大部分を制圧しますが、西暦1035年に亡くなると息子たちに分割相続をしました。

サンチョ大王は次男のフェルナンド1世にカスティーリャを与えた事で、カスティーリャ王国が誕生しています。

尚、ナバラ王国の本土はガルシア3世が後継者となり、アラゴン王国はラミロ1世が君主となりました。

カスティーリャ王国はレオン王国のベルムード3世を破り、兄のガルシア3世が継いだナバラ王国とも優位に戦いを進めています。

フェルナンド1世はカスティーリャ王国を強大なものにしますが、1065年に亡くなると、ここでも分割相続を行いました。

長兄のサンチョ2世がカスティーリャ王国の後継者となり、次兄のアルフォンソ6世がレオン王国、末弟のガルシアはガリシア王国を運営する事になります。

トレド奪還

カスティーリャ王国はサンチョ2世が後継者となりますが、配下にはエルシッドがおり軍隊は強力でした。

ナバラ王国に遠征し、弟のガルシアのガリシア王国を奪い、レオン王国のアルフォンソ6世も捕虜としています。

アルフォンソ6世はトレドに逃亡しますが、後にウラカと協力しサンチョ2世を破り、レオン王とカスティーリャ王を兼ねる事になります。

これによりレオン・カスティーリャ王国が誕生しました。

この当時はイスラムはタイファと呼ばれる小諸侯の集まりでしたが、アルフォンソ6世はトレドを取る事に成功しています。

トレドはイベリア半島の中央部にあり、西ゴート王国の首都だった地で、レオン・カスティーリャ王国のアルフォンソ6世は勇敢王として讃えられています。

ただし、タイファの諸侯がムラービト朝を頼り侵攻して来た事で、レオン・カスティーリャ王国は大苦戦する事になります。

レオン・カスティーリャ王国はサグラハスの戦いやアレードの戦いでもムラービト朝に大敗北を喫しました。

しかし、アルフォンソ6世はトレドを守り切る事には成功しています。

尚、カスティーリャ王国はトレドを奪還すると、西ゴート王国の後継国だと宣言しました。

西ゴート王国はキリスト教国であり、後継国とする事で正統性をアピールしたかったのでしょう。

初期のカスティーリャ王国

西暦10世紀から11世紀ごろになると、キリスト教国では戦争を専門とする貴族層が台頭しました。

軍人の貴族は王を脅かすまでの存在になったと言います。

カスティーリャ王国が誕生した時代もこうした不安定な時期でしたが、イベリア半島の南部ではタイファと呼ばれる小諸侯の時代でした。

こうした中でカスティーリャ王国は、タイファの諸侯からパーリヤと呼ばれる貢納金を取ったり、略奪や征服を行い国を潤わせています。

カスティーリャ王はタイファの諸王からの貢納金や物資を取り、貴族層に恩賞を与える事が出来たと言えるでしょう。

しかし、タイファの諸侯が北アフリカのムラービト朝やムワッヒド朝を頼り吸収されると、軍事力は拮抗しました。

軍事力が拮抗すればカスティーリャ王国は容易にイスラム教国に戦争を仕掛けたり、パーリヤを取る事が出来なくなります。

こうなるとカスティーリャ王国は貴族たちに恩賞を与える事が出来なくなり、国は内紛に向かってしまうわけです。

こうした事情もありアルフォンソ6世、ウラカの時代は国内が纏まらず、レコンキスタには繋がらなかったと言えるでしょう。

レコンキスタの再開

ムラービト朝は最盛期はイベリア半島の南部まで勢力を拡大しましましたが、北アフリカでムワッヒド朝との対立があり勢力は縮小に向かい西暦1147年には滅亡しました。

ムラービト朝がイベリア半島に手を出せなくなると、イスラム諸侯は第二次タイファの時代へと突入します。

イベリア半島の南部がタイファの時代に逆戻りした事で、カスティーリャ王国は南部に勢力を拡大する事が可能となりました。

カスティーリャ王国のアルフォンソ7世はイベリア半島南部に侵攻し、勢力を拡大させる事に成功しています。

イスラムのフード家のサファドラもカスティーリャ王国に協力しています。

1147年にカスティーリャ王国のアルフォンソ7世はアルメリアも陥落させました。

アルフォンソ7世はローボ王と共にグラナダに侵攻しますが、戦いに敗れ逃亡中に亡くなったと伝わっています。

ここで分割相続が行われサンチョ3世がカスティーリャ王国を継承し、フェルナンド2世がレオン王国を継承しました。

国が分裂した事で、カスティーリャ王国は再び弱体化する事になります。

ラス・ナバス・デ・トロサの戦い

アルフォンソ7世の死でカスティーリャ王国は分裂し、大貴族のララ家とカストロ家の党派抗争を軸に再び大混乱の時代へとなります。

ムワッヒド朝の介入もあり、軍事力は再び拮抗しイスラム諸侯を攻める事も出来なくなります。

当然ながら、レコンキスタの進展はありませんでした。

カスティーリャ王国とレオン王国の対立が増しキリスト教国同士で戦っていましたが、ローマ教皇のケレスティヌス3世がキリスト教国同士の争いをやめさせています。

こうした中でカスティーリャ王国のアルフォンソ8世は、ムラービト朝とアラルコスの戦いを行っていますが、大敗北を喫しました。

ただし、アルフォンソ8世はキリスト教諸国のアラゴン王国、ナバラ王国、各地の騎士団と共にラス・ナバス・デ・トロサの戦いに挑み勝利しました。

カスティーリャ王国による大レコンキスタの時代

1230年にレオン王のアルフォンソ9世が亡くなると、フェルナンド3世がレオン王国とカスティーリャ王国の両方を継ぐ事になります。

これ以降にレオン王国とカスティーリャ王国が分裂する事は無くなりました。

フェルナンド3世の時代になると南方ではムワッヒド朝の脅威がなくなっており、第三次タイファの時代となります。

カスティーリャ王国は大レコンキスタを遂行する事になります。

フェルナンド3世はイスラムの重要拠点であるセビージャ、コルドバなどを陥落させました。

カスティーリャ王国はグラナダ、マラガ、アルメリアを除けば、アンダルシアの征服はほぼ完了したと言えるでしょう。

最南端のナスル朝グラナダもカスティーリャ王国に臣従しました。

フェルナンド3世の時代は大レコンキスタとも呼ばれています。

尚、カスティーリャ王国が南方に大きく勢力を拡げた事で、西のポルトガル王国はイスラム諸侯との領地の隣接が無くなり、一早くレコンキスタを完了させました。

大レコンキスタが成し遂げられた背景

今まで見て来た様に、イベリア半島の南部のアンダルシアがタイファの時代になると、カスティーリャ王国はパーリヤを取ったり戦争で戦利品を獲たりして、軍事貴族らに分配しレコンキスタが進みました。

しかし、北アフリカのムラービト朝やムワッヒド朝の様な協力が勢力が介入すると国内は内乱に陥っていたわけです。

つまり、カスティーリャ王国では南方のイスラム諸国への征服が上手く行けば、国は治まる事になります。

さらに言えば、イスラム諸侯への侵攻を「聖戦」とした方が求心力も得やすかったと言えます。

レコンキスタの理念はカスティーリャ王国内で発展したイデオロギーでもあったのでしょう。

近年の研究ではレコンキスタはキリスト教国であるナバラ王国、アラゴン王国も含めた共通の悲願ではなく、カスティーリャ王国独自のものだったと考えられる様になっています。

カスティーリャ王国のお国柄

11世紀から12世紀に掛けて、カスティーリャ王国のレコンキスタの最前線の地域はドゥエロ川の南となります。

ドゥエロ川の南では家畜の放牧と戦いによる戦利品の獲得を、目的とする好戦的な都市が誕生していました。

中部や北部では牧畜が盛んになり、北アフリカからはメリノ種の羊が導入され羊毛の輸出が増えています。

カスティーリャ王国でも自分の利益を増やそうと考え、1273年には牧羊団体を纏めて「全国メスタ」という一つの団体にまとめ特権を与える見返りとして、財政面での援助を期待しました。

11世紀の終わり頃から13世紀に掛けてカスティーリャ王国ではビルバオ、トレド、クエンカ、ブルゴス、コルドバなどで羊毛産業や毛織物工業が大発展し、北欧との貿易も盛んになっています。

バスクやカンタブリアでは鉱山開発や造船業も伸びました。

イスラムとの国境の地域では平民騎士も多く育ち、カスティーリャ的自由を体現したとする評価もあります。

カスティーリャ王国の中央では王と貴族が対立するなどしていましたが、国境地帯の人々はムラービト朝やムワッヒド朝の攻撃を撃退するだけではなく、自らも軍を編成し南方への遠征を行ったりもしました。

カスティーリャ王国の平民騎士に、12世紀後半になると騎士修道会も加わる事になります。

十字軍の影響を強く受け複数の騎士修道会も設立されました。

特に有名なのがカラトラーバ騎士団やサンティアゴ騎士団であり、カスティーリャ王国の前線拠点を守っています。

これらの人々がカスティーリャ王国の大レコンキスタの時代にも活躍しています。

カスティーリャ王国において貴族の家門意識が根付くのには時間が掛かり、カスティーリャの王も貴族の世襲の領地や役職を与えるのに消極的でした。

カスティーリャ王国とマリーン朝

カスティーリャ王国はアルフォンソ10世の時代になると、北アフリカではマーリン朝が強大になっていました。

北アフリカではサレがマーリン朝により危機的な状況になっており、カスティーリャ王国に救援を求める事になります。

カスティーリャ王国は北アフリカに進出し、サレを手に入れますが、ムワッヒド朝の攻撃もあり、結局は手放しています。

アフリカへの進出の拠点をカスティーリャ王国は作る事が出来ませんでした。

サレは最終的にマリーン朝が支配する事になります。

アルフォンソ10世は二エブラ王国を征服し、この地のイスラム教徒を追放しキリスト教徒を入国させました。

1275年にマリーン朝はイベリア半島に侵入し、ナスル朝グラナダは港をマリーン朝に割譲するなどし味方しています。

カスティーリャ王国でアルフォンソ10世が不在でしたが、子のサンチョ4世が対応しマリーン朝は北アフリカに撤退しました。

この後に、カスティーリャ王国ではアルフォンソ10世とサンチョ4世の対立もあり、アルフォンソ10世がマリーン朝に助けを求めるなどのシーンのあります。

しかし、アルフォンソ10世が亡くなり、サンチョ4世が後継者になる事で収まりました。

1340年にマリーン朝ではスルタンのアブー・アル・ハサンがイベリア半島に自ら軍を率いて上陸する事になります。

ナスル朝グラナダのユースフ1世は、マリーン朝に味方しました。

カスティーリャ王国ではアルフォンソ11世の時代になっていましたが、ポルトガル王国のアフォンソ4世らと共に迎え撃つ事になります。

これがサラード川の戦いです。

サラード川の戦いではカスティーリャ王国とポルトガル王国の連合軍が勝利しました。

レコンキスタでは何度も北アフリカがイベリア半島に介入してきましたが、サラード川の戦いを最後にカリフやスルタンなどが自ら兵を率いて押し寄せてくる事は無くなります。

カスティーリャ王国からスペイン王国へ

イスラム教国の脅威は無くなりましたが、カスティーリャ王国ではペドロ1世とエンリケ2世によるカスティーリャ継承戦争を行うなどがありました。

この時期はナスル朝グラナダの脅威も殆どなく、レコンキスタが重要視されなかった時期でもあります。

ペドロ1世とエンリケ2世の対立は、エンリケ2世が勝利しました。

エンリケ2世の時代からカスティーリャ王国はトラスタマラ家の時代に入る事になります。

カスティーリャ王国では内部での争いはありながらも、トラスタマラ家の時代が続き1474年にイサベル1世が即位しました。

イサベル1世は女性であり、夫になったのがアラゴン王国の後継者であるフェルナンド2世でした。

アラゴン王国ではフアン2世が亡くなると、フェルナンド2世が後継者として即位しています。

これによりカスティーリャ王国とアラゴン王国が夫婦で治める事になり、統合されたと言えるでしょう。

カスティーリャ・アラゴン王国と呼ばれる場合もありますが、スペイン王国の誕生でもありました。

ナスル朝グラナダを滅ぼすとスペイン王国も大航海時代に突入する事になります。

カスティーリャ王国の歴代君主

ヒメノ家

フェルナンド1世

・サンチョ2世

・アルフォンソ6世

・ウラカ

ブルゴーニュ家

・アルフォンソ7世

・サンチョ3世

・アルフォンソ8世

・エンリケ1世

・ベレンゲラ

・フェルナンド3世

・アルフォンソ10世

・サンチョ4世

・フェルナンド4世

・アルフォンソ11世

・ペドロ1世

トラスタマラ家

・エンリケ2世

・フアン1世

・エンリケ3世

・フアン2世

・エンリケ4世

・イサベル1世

・フェルナンド5世(アラゴン王国だとフェルナンド2世)

・フアナ

ハプスブルク家

・フェリペ1世

・カルロス1世

カスティーリャ王国の動画

カスティーリャ王国のゆっくり解説動画となっています。

参考文献などはYouTubeの概要欄から確認してみてください。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細