
| 名前 | 楽浪四郡(らくろうしぐん) |
| 別名 | 漢四郡(かんしぐん) |
| 設置国 | 前漢 |
| 設置年 | 前108年 |
| コメント | 前漢の朝鮮半島北中部の直轄地 |
楽浪四郡は楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡の総称であり、別名として「漢四郡」とも呼ばれています。
楽浪郡、臨屯郡、真番郡は前108年に設置されており、玄菟郡だけは1年遅れの前107年に設置されました。
それでも、楽浪四郡の始まりは前108年とするのが一般的です。
楽浪四郡は漢四郡の言葉通り、前漢の直轄地として誕生しています。
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした事で設置された郡でもあります。
楽浪四郡の中で、臨屯郡と真番郡は昭帝の時代である前82年に廃止されており、これにより楽浪二郡になってしまったと言えるでしょう。
楽浪郡と玄菟郡は西晋の時代まで続きますが、五胡十六国の時代に入るまでには高句麗により消滅しました。
それでも、楽浪四郡が設置された時代に、前漢の直轄地は朝鮮半島の中部にまで及んでおり、広大な領域を支配した事になります。
楽浪四郡の始まり
楽浪四郡は衛氏朝鮮の故地に置かれた郡県です。
衛氏朝鮮は始祖の衛満は前漢の燕王盧綰の武将であり、漢人だったのかも知れませんが、支配下には韓族や沃沮、扶余、高句麗など様々な民族がいたのでしょう。
衛氏朝鮮は前漢王朝の周辺異民族国家の外藩でしたが、前漢の武帝の時代に同じく外藩の南越と共に滅ぼされました。
前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし故地に置かれた郡県を楽浪四郡と呼び、楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡の総称を指します。
尚、衛氏朝鮮の滅亡は前漢初期の郡国制から郡県制に移り変わり、前漢の直轄地を拡大しようとする政策の表れとしても見られている状態です。
楽浪四郡とその地域
楽浪郡とは
楽浪郡は楽浪四郡の名称からも分かる様に、楽浪四郡の中心とも言える地域となります。
楽浪郡の郡治は衛氏朝鮮の首都でもあった王倹城であり、衛氏朝鮮の中心地を本拠地としました。
現在の平壌の付近であり、郡治跡は大同江の南岸だとされています。
楽浪郡の領域は平安道、黄海道、京畿道に連なっています。
さらに、北には玄菟郡、東には臨屯郡、西には遼東郡、南には真番郡があり、四方の全てが前漢の領地と接している状態です。
設置当初は楽浪郡を守るかの如く、周辺の郡があった様にも見受けられます。
後には臨屯郡や玄菟郡の領域も加えられ、大楽浪郡とも呼ばれる様になります。
楽浪郡は西晋の時代まで設置されていた事が分かっており、楽浪四郡の中でも最も目立った存在であったと言えるでしょう。
玄菟郡の領域とは
玄菟郡の領域は鴨緑江中流の両岸地域を指します。
他の楽浪四郡が前108年に誕生したのに対し、玄菟郡は1年遅く前107年に設置されました。
正確には玄菟郡の設置を以って、楽浪四郡が完成したと言えるでしょう。
玄菟郡は一時的に臨屯郡の一部を併せ持ち広域となりますが、直ぐに遼東郡に郡治を遷す事になりました。
最も遅く出来た玄菟郡ですが、滅亡したのは西晋の時代である後315年だともされており、楽浪四郡の中では最も最後まで生き残った事になるでしょう。
臨屯郡とは
臨屯郡は江原道方面に設置されました。
楽浪四郡の中では、最東端に置かれた郡でもあります。
南では辰韓に接していましたが、昭帝の時代の前82年に楽浪郡や玄菟郡に急襲され終わりを告げました。
この時に、真番郡も同様に消滅しています。
真番郡とは
真番郡の位置に関しては、北在説と南在説がありました。
北在説では鴨緑江の中流域であり、この場合は玄菟郡の位置を咸鏡南道とします。
南在説では慶尚北道方面もしくは、忠清南道から全羅北道方面とします。
現在では南在説が主流となっている状態です。
この記事の冒頭の楽浪四郡の地図でも、南在説を支持するものとなっています。
先にも述べた様に臨屯郡と共に前82年に消滅しました。
楽浪四郡の中で最も南に位置し、支配が定まらず最も謎が多いのが真番郡となります。
真番郡の故地は楽浪郡に吸収されたのか、それとも全て漢の手から離れたのかも分かっていません。
楽浪四郡の終焉
楽浪四郡を設置した事で、前漢が直接支配する直轄地は朝鮮半島の中部にまで及びました。
南の方では馬韓、弁韓、辰韓と韓族の居住地がありましたが、朝鮮半島の南部を除けば前漢の領土になったと言えるでしょう。
しかし、臨屯郡と真番郡は昭帝の時代である前82年に消滅しており、設置から26年で終りを迎えました。
この時点で楽浪四郡は楽浪二郡になってしまったわけであり、開始から26年で終焉した事になります。
玄菟郡も前75年に郡治を遼東郡内に遷しています。
これらを見ると、前漢の楽浪四郡の支配が必ずしもうまくいったとは言えない事が分かるのではないでしょうか。
楽浪四軍の直接統治は朝鮮半島の原住民の反発もあり、頓挫し後退したとみるべきでしょう。
結果として、臨屯郡・真番郡は早い段階で無くなり、楽浪郡や玄菟郡も苦しんだと言えそうです。
それでも、楽浪四郡の楽浪郡と玄菟郡は、苦しみながらも滅んだのは西晋の時代であり、400年程存続した事になります。
楽浪四郡と日本
楽浪四郡は日本にも影響を及ぼしたとされています。
漢書には、次の一文があります。
※漢書地理志より
楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来て献見する。
これが中国の史書に最初に書かれた倭人の記述となります。
山海経では倭人が燕の属国だったかの様な記述もあり、論衡にも西周王朝の時代に倭人が周の成王に薬草を届けた話があります。
しかし、山海経や論衡の記述は信憑性に欠くとも言われており、漢書地理志の「楽浪海中に倭人あり~」の記述が信頼性が高いと言われています。
「楽浪海中に倭人あり」の言葉は論争を読んでおり、楽浪四郡の付近の何処かに倭人の集落があったのではないかともされている状態です。
現在の黄海付近に倭人の集落があったとするなどの説となります。
尚、楽浪四郡から朝鮮半島を通じて、中国の文化が倭国にまで到達したとも考えられている状態です。
倭国が朝貢に訪れるのは楽浪四郡が設置されてから、100年以上も擁す事になり、後58年に朝貢があり後漢の光武帝は漢委奴国王を倭人の国である奴国に与えました。