
東州兵は三国志の時代に、益州の劉焉が組織した直属軍でもあります。
三国志の世界には曹操と独自の契約を結んだとされる青州兵がいましたが、劉焉にも東州兵がおり、強い忠誠心を持った軍だったと考えられています。
劉焉は東州兵を得た事で、豪族の力を抑制する事にも成功しており、益州で基盤を整える事に成功しました。
しかし、東州兵と益州豪族の対立は根深いものがあり、劉璋の時代に噴出する事になります。
劉璋は劉備に国を乗っ取られてしまいますが、多くの豪族らが劉備に寝返る中で、最後まで奮戦したのが東州兵だったと言えるでしょう。
東州兵の誕生
後漢の後期に益州で馬相の乱が勃発しますが、地元豪族の賈龍らによって鎮圧されました。
この後に、益州牧の劉焉は乱に加わった者を許し、自分の直属の軍隊としています。
劉焉の元で直轄軍となった兵士らを東州兵と呼ばれる様になり、これが東州兵の始まりでもあります。
益州は中国の南西にあり、東にあるわけではなく、本来であれば東州は東に位置する山東半島の青州や徐州を指す言葉です。
逆に益州は西州と呼ばれていました。
東州兵を管轄する劉焉は、益州が西州である事に着目し、益州豪族の兵ではなく、自分の直属軍だと知らしめる為に、あべこべに東州兵と名付けたのではないかと考えられています。
尚、東州兵には混乱により益州に入った南陽や三輔の人々が、多く含まれていたと考えられています。
劉焉は東州兵を手に入れた事で、基盤を固める強力な武器を得たと言えるでしょう。
東州兵は劉焉や劉璋の親子に対する忠誠心は強かったと見る事が出来ますが、どの様な契約を結んでいたのかは不明です。
東州兵の活躍
東州兵を得た劉焉は、益州の有力豪族を十人程殺害しました。
劉焉は支配力の強化を考えており、豪族の利益を自分のものにしたかったのでしょう。
ここで、馬相の乱を鎮圧した賈龍が中心となり、益州豪族は劉焉に対抗する事になります。
賈龍は乱を起こしますが、東州兵が中心となり、撃破しました。
こうした事情もあり、東州兵と益州豪族は対立する事になり、益州政権の火種にもなっていったわけです。
東州兵の奮戦
劉焉は不幸も重なり、西暦194年に没しました。
後継者になったのが劉焉の末子と考えられている劉璋です。
曹操の青州兵は曹操が亡くなった時に、曹丕に仕える事をせず去りましたが、東州兵はそのまま劉璋に仕え直轄軍として活躍する事になります。
劉璋の才覚は微妙な部分もあり、東州兵と益州豪族の対立が強まる事態となります。
東州兵は武力を背景に益州豪族を抑圧しますが、劉璋はこれを見て見ぬふりをしました。
これに危機感を覚えた益州豪族は趙韙を中心に乱を起こし、乱は蜀郡、広漢郡、犍為郡にまで広がり、大規模なものとなります。
しかし、ここでも東州兵は奮戦し、益州豪族の軍を破りました。
二度の激戦を制した東州兵の強さが分かるはずです。
それでも、東州兵と益州豪族の対立は一触即発の状態であり、張魯も漢中で独立し、益州を攻撃する可能性もあった事で、劉璋の政権は危機的な状態だったと言えるでしょう。
尚、東州兵と益州豪族の対立の中で、後に孫権に仕えて大活躍する甘寧は益州を去り、荊州に向かいました。
東州兵最後の奮戦
曹操は袁紹を官渡の戦いで破り、袁氏の後継者争いにつけこみ、北方の大部分を制圧しました。
こうした中で諸葛亮が劉備に天下三分の計を進言し、益州を取るべく動く事になります。
益州豪族の張松は、劉備を益州の君主にしようと画策しました。
東州兵の横暴に嫌気が指していた益州豪族は、劉備の入蜀を歓迎したとみる事も出来ます。
益州豪族は劉備に味方し、劉璋と戦いますが、劉璋側として奮戦したのが東州兵となります。
東州兵は劉備の軍師である龐統を戦死させるなど、奮戦した様子を伺いしる事が出来ます。
劉備は多くの益州豪族を味方につけたにも関わらず、益州を平定するのに2年ほどの歳月を必要としており、これには東州兵の頑強な抵抗があったからなのでしょう。
劉璋と東州兵の結びつきは強く、奮戦したわけです。
東州兵以外で劉璋の為に戦い抜いたのは、張任がおり寒門の出身となります。
劉璋に最後まで尽くしたのは、益州に勢力基盤を持たない人々だったと言えるでしょう。
劉璋政権の崩壊と共に、東州兵も姿を消したと言えます。