
シュッピルリウマ2世はヒッタイトの最後の王だと考えられています。
兄のアルヌワンダ3世が即位してから早い段階で亡くなり、シュッピルリウマ2世が即位しました。
当時のヒッタイトは王位継承問題や食糧問題、アッシリアの圧迫などもあり厳しい状態だったわけです。
シュッピルリウマ2世はアナトリア南部を平定したなどの話も残っていますが、この時代にヒッタイトは滅亡しました。
過去には海の民によりヒッタイトは滅亡したとされていましたが、近年では「海の民は関係ない」とする意見も強くなっています。
ハットゥシャは放棄されましたが、実際にはシュッピルリウマ2世がアナトリア南部に遷都したのではないかとする説もあります。
尚、シュッピルリウマ2世はヒッタイトの再興を目指し、その名をヒッタイトが強かった時代のシュッピルリウマ1世にあやかったとも考えられています。
シュッピルリウマ2世の即位
シュッピルリウマ2世は兄のアルヌワンダ3世が亡くなった事で即位する事になります。
この時代のヒッタイトはアッシリアの圧迫があり、国内も王位継承の問題があり安定しなかったと考えられています。
尚、シュッピルリウマ2世と同時代の王として、次の人物が挙げられています。
| 国名 | 人物名 |
| アッシリア | トゥクルティ・ニヌルタ1世 |
| エジプト第19王朝 | メルエンプタハ |
| カルケミシュ | タルミ・テシャブ |
| ウガリト | アンムラビ |
この時代は紀元前1200年のカタストロフもあり、ヒッタイトだけではなく各国が苦難の時代でもありました。
シュッピルリウマ2世の碑文
シュッピルリウマ2世は碑文を残しており、ヒッタイトの首都のハットゥシャがあったホアズキョイ遺跡で見つかっています。
ホアズキョイのニシャンタシュ及び南城のルウィ語で書かれた象形文字もみつかっている状態です。
ヒッタイトはエジプトや外国とのやり取りでは楔形文字を使っていましたが、国内では象形文字も使われていました。
シュッピルリウマ2世の時代にヒッタイトは滅亡したとされていますが、碑文に関してはかなり綺麗な状態で残っています。
碑文にはアナトリアの南西部に遠征した事が書かれている状態です。
シュッピルリウマ2世はタルフンタッシャや西部及び南西地域を平定したとされていますが、王国の崩壊を食い止める事は出来ませんでした。
尚、古代キプロスのアラシヤとも戦った記録がありますが、不明点が多いです。
ヒッタイトの滅亡
ヒッタイトは紀元前12世紀に入り、早い段階で滅亡したと考えられています。
首都のハットゥシャも放棄された事が分かっており、考古学的に考えても滅亡した事は間違いないでしょう。
ただし、シュッピルリウマ2世をはじめヒッタイトが、どの様にして滅亡したのかを記録した資料は見つかっていません。
エジプト第20王朝のラムセス3世が海の民と戦っていますが、エジプト側の記録ではヒッタイトは海の民により滅ぼされた事になっています。
しかし、近年の研究では「海の民でヒッタイトが滅んだわけではない」とする説が有力になっています。
実際にはシュッピルリウマ2世の時代には、寒冷化と乾燥化による深刻な食糧危機が起きていたと考えられています。
気候変動によりヒッタイトが滅亡したというのは、有力な説です。
シュッピルリウマ2世は生存していたのか!?
シュッピルリウマ2世はハットゥシャを放棄したと考えられていますが、シュッピルリウマ2世の最期がはっきりしません。
その為、シュッピルリウマ2世がアナトリアの南部に遷都したのではないか?とする説があります。
ハットゥシャの遺跡をみると、本来あったはずの物を持ち出している事が分かりました。
何者かに襲われ略奪されたわけではなく、引越ししたような形跡があります。
一つの説ではありますが、何処かにシュッピルリウマ2世が遷都したヒッタイトの最期の都が、眠っているのではないかとも考えられています。
シュッピルリウマ2世は最後の王という事になっていますが、実際には何処かに遷都し後継者がいた可能性もあります。
ただし、あくまでも仮説であり、本当の部分は不明としか言いようがありません。