
ムルシリ3世はヒッタイト新王国時代のヒッタイト王です。
ウルヒ・テシュブの名前でもよく知られています。
ムルシリ3世は父親のムワタリ2世がカデシュの戦いが終わり、数年で世を去ると即位しました。
その治世は記録が少なく分かっている事が少なかったわけですが、ハットゥシャの遺跡で多数の王印が見つかっており、かなり精力的に活動していたとみられています。
ただし、ハットゥシリ3世との政争に敗れ各地を放浪し、エジプト第19王朝のラムセス2世に身を寄せていた話があります。
ヒッタイト王への復権を企ててはいましたが、最後まで成功しませんでした。
ムルシリ3世の即位
ムワタリ2世が亡くなると、ムルシリ3世が即位する事になります。
ムルシリ3世が即位した時代は、エジプト第19王朝とのカデシュの戦いが終わってから数年しか経っておらず、エジプトのラムセス2世もカデシュを完全に諦めたわけでもありませんでした。
こうした状況の中で、ムルシリ3世が即位する事になります。
実際にムルシリ3世が即位した頃に、ラムセス2世はレヴァント地方に出兵した記録も残っています。
ハットゥシャに遷都
ムルシリ3世の即位後にエジプト第19王朝は攻撃を仕掛けてきましたが、これ以降にラムセス2世はヒッタイトと争う様な事はしませんでした。
こうした事情からなのか、ムルシリ3世は首都をタルフンタッシャからハットゥシャに遷しています。
父親のムワタリ2世の時代にハットゥシャからタルフンタッシャに遷都しており、首都を戻したといった方がよいのかも知れません。
ムワタリ2世がタルフンタッシャに遷都したのは、エジプト第19王朝のレヴァント進出が原因とも考えられており、カデシュの戦いが終わり第19王朝の脅威が衰えた結果として、首都を戻したのかも知れません。
アッシリア王に文句
古代オリエントの世界ではエジプト新王国のアクエンアテンの政策により、シリアのミタンニ王国が弱体化しました。
結果として、ヒッタイトと共に勢力を伸ばしたのがアッシリアです。
ムルシリ3世の時代には、アッシリアも大国となっていました。
ホアズキョイで書簡の下書きが見つかっていますが、アッシリア王がヒッタイト王を「兄弟」と呼び、その事に対する返信内容でもあったわけです。
当時のオリエントではヒッタイト、エジプト新王国、カッシート王国などは同格の大国として認められ互いを「兄弟」と呼び合っていました。
アッシリアも大国となり強国として肩を並べたと思ったのか、ヒッタイト王に対し「兄弟」と呼んだのでしょう。
ヒッタイトは歴史ある大国であり新参者のアッシリアに「兄弟」と呼ばれた事に腹を立てたのか「我々は同じ母親から生まれたのか」と不満を述べています。
ホアズキョイの書簡には差出人と宛先が欠損してはいますが、宛先はアッシリアのアダド・ニラリ1世で、差出人はムルシリ3世だったのではないかと考えられる事が多いです。
ムルシリ3世としては成り上がりにも見えるアッシリアに同格として扱われ、プライドを傷つけられた部分もあるのでしょう。
放浪生活
ムルシリ3世は叔父のハットゥシリ3世に王位を簒奪される事になります。
王位にいた期間は7年程だったと考えられています。
王位簒奪劇がなぜ起きたのかは不明ですが、ハットゥシリ3世の言い分としては「権勢を削がれた」からだと言います。
それが本当であれば、ムルシリ3世はハットゥシリ3世の権勢を目障りに思い削ろうとしたが、あべこべに王位を簒奪されてしまったという所でしょうか。
ただし、ムルシリ3世はシリアに追放されるに留まっており、命までは奪われませんでした。
中シリアのヌハッシェに追放されるに留まりました。
ムルシリ3世は王位の奪還を企てますが失敗し、各地を渡りあるいたと言います。
キプロス?(アラシヤ)や南西アナトリアに移されたなどの話も残っています。
そして、最終的にラムセス2世のエジプト第19王朝に亡命したと考えられています。
ムルシリ3世がエジプトにいるとする情報をキャッチしたのかハットゥシリ3世は「ウルヒ・テシュブ(ムルシリ3世)の所在を尋ねる」書簡を送りますが、ラムセス2世はムルシリ3世を匿っているとは言いませんでした。
ラムセス2世としては、ヒッタイトの先王であるムルシリ3世は政治利用が出来ると判断したのか、自分の所に置いておきたかったのでしょう。
ムルシリ3世も当然ながらヒッタイト国内の情報には精通しており、エジプト第19王朝に情報を提供するなどしていたとも考えられています。
ハットゥシリ3世とラムセス2世の書簡でも度々話題になっており、ハットゥシリ3世にとっても気掛かりな部分が大きかったのでしょう。
しかし、ムルシリ3世は最後までヒッタイト王に返り咲く事はなく世を去りました。