
| 名前 | アムル国 |
| 建国から滅亡 | 前14世紀中頃?ー前12世紀初頭? |
| コメント | ヒッタイトの属国になっていた時期が多かった。 |
アムル国はシリア沿岸の国家であり、北レヴァントに存在していました。
アマルナ文書ではエジプトを裏切り、ヒッタイトに寝返る姿も確認されています。
ただし、基本的にはヒッタイトの忠実な属国として存続しました。
それでも、紀元前1200年のカタストロフが起きた頃に滅んだと考えられています。
アムル国の中心地ツムルは、テル・カゼル遺跡と考えられています。
尚、アムル国はアムル人の国ではあったようですが、アムル人の国と言えば一般的にはバビロン第一王朝、ラルサ王朝、ヤムハド王国、カトナ王国などの国を想像してしまうのではないでしょうか。
しかし、今回紹介するのはレヴァント地方にあった小国のアムル国です。
アムル州の誕生
エジプト文明の勢力はエジプト新王国時代に入ると、シリアやパレスチナに盛んに遠征を行う事になります。
エジプト第18王朝のトトメス3世はシリアやパレスチナに三つの属州を設置したとされていますが、この中の一つがアムル州でした。
トトメス3世が設置した残りの州がカナン州とウビ州です。
アムル州の領域はビブロス、ウガリト、レバノン山脈の内側の辺りだったと考えられています。
州都はツムルに設置され、エジプト人の官僚が派遣され、明らかにエジプト第18王朝の領土に組み込まれていました。
それでも、ここからアムル国が誕生する事になります。
アムル国の建国
紀元前14世紀の中頃に、アムル州の属国の王の一人であるアブディ・アシルタが、領土拡大を開始しました。
この時点でアムル国が成立し、アブディ・アシルタは初代アムル王に数えられています。
息子のアジルは、さらに勢力を拡大させアムル全域を征服しました。
エジプトではアクエンアテンが宗教改革に熱中し海外に関与しなくなった事で、アムル国は独立を可能にしたのでしょう。
シリアやパレスチナでエジプトの力が弱まると、今度はヒッタイトが伸長してきますが、アムル国はヒッタイトに従う事になります。
カデシュの戦いとアムル国
カデシュの戦いはエジプト第19王朝とヒッタイトが争った大国同士の戦いです。
アムル国がカデシュの戦いと関係していたのではないかとする説があります。
現在、カデシュの戦いの資料を見ると圧倒的にエジプト側が多いのが現状です。
ヒッタイトの方ではカデシュの戦いに関する記述は、存在していません。
ただし、ヒッタイトのムワタリ2世の時代にアムル国がヒッタイトの傘下を抜け、エジプト新王国側に与した記録があります。
この時のアムル国の王がベンテシナであり、セティ1世やラムセス2世の工作により、カデシュの戦いの前にエジプトに寝返ったとする説が存在しています、
アムル国の動きを見たヒッタイトのムワタリ2世は動き、エジプト新王国とアムル国に勝利した記録があるわけです。
ここでムワタリ2世は子のハットゥシリ3世を現地に残し、戦後処理を行っています。
この時のアムル王がベンテシナであり、王位を剥奪しハットゥシャに連行しました。
ヒッタイトではシャビリなる人物を新たに、アムル国の王にしたと考えられています。
これがカデシュの戦いだったのではないかとする説があるという事です。
ベンテシナはヒッタイトに連行されますが、ハットゥシリ3世の庇護を受け、ハットゥシリ3世が王権を簒奪するとアムル王に復位する事になります。
ヒッタイトとアムル国の間で宗主権条約が締結され、政略結婚もしており関係を強化しました。
アムル国の滅亡
ベンテシナの次にアムル王になったのが、子のシャウシュガムワです。
シャウシュガムワはヒッタイト王のトゥドハリヤ4世の妹を妃としました。
宗主権条約は更新されますが、政略結婚の破綻もあり、一時期はウガリトとも対立する事になります。
この時代にヒッタイトは弱体化を加速させ、海の民の侵攻もあったと考えられ、東地中海全域で厳しい時代に突入していました。
時代の波はアムル国にもやってきたと考えられており、紀元前12世紀の初めにアムル国は滅亡したと考えられています。
詳細は不明ですが、シャウシュガムワの時代にアムル国は滅んだと考えるのが一般的です。
紀元前11世紀にアムル王のガザル・バアルの名前が確認出来ていますが、アムル国とどの様な関係なのかは分からない状態です。
一つの説としてガザル・バアルはビブロスのザカル・バアル王と同一人物ではないかと考えられています。
アムル国の系譜
・アブディ・アシルタ
・アジル
・アリ・テシュブ
・トゥピ・テシュブ
・ベンテシナ
・シャピリ
・ベンテシナ(復位)
・シャウシュガムワ