
| 名前 | アラシヤ王国 |
| 建国と滅亡 | 紀元前15世紀頃?ー紀元前11世紀頃? |
| 地域 | キプロス島 |
| コメント | 銅の産地でもある。 |
アラシヤ王国はキプロス島に存在したとされています。
紀元前15世紀頃にはアラシヤ王が存在した記録が残っており、さらに時代が進むとエジプトも認める程の大国に成長していた記録まで残っています。
キプロスは銅の産地で立地的に中継貿易としても潤ったと考えられています。
ただし、キプロス島を調べてみると、王宮の存在が見つからないなどもあり、文献上の資料と考古学資料の間で隔離がある状態です。
紀元前1200年のカタストロフでヒッタイトが滅亡しますが、末期のヒッタイトとアラシヤが戦争をしたり条約を締結した記録も残っています。
後にキプロス島では多数の都市が築かれた事が分かっており、この頃にはアラシヤ王国も滅亡しました。
アラシヤは地名だけが残る存在となっていきます。
尚、アラシヤ王国の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
この記事及び動画は有村元春先生のNHKカルチャー『謎の古代王国アラシヤの歴史を復元する』をベースに作成しました。
アラシヤは何処にあったのか
紀元前2000年紀に入るとアッカド語やヒッタイト語、古代エジプト語などでアラシヤの記録が出現します。
最初はアラシヤは地域名でしかなかった様ですが、紀元前15世紀になるとアラシヤ王の記述が現れる様になります。
こうした事情から紀元前15世紀には、アラシヤ王国が誕生していたとみる事が出来ます。
文献資料からアラシヤが存在した事は確実ですが、アラシヤが何処にあったのかは謎でした。
こうした中でキプロス島、アナトリア南東部、シリアの3つの説が有力視されてきたわけです。
紀元前14世紀から13世紀に、アラシアから送られた粘土板の書簡がウガリト王国の場所で発見されました。
アラシアから送られた粘土板の成分を分析すれば、どのあたりにアラシヤがあったのか分かると考えたわけです。
多角的に分析した結果として、キプロス島南部の粘土板で造られている事が分かりました。
こうした分析結果もあり、アラシヤ王国はキプロスにあったのではないかと考える専門家が多数派となっています。
アラシヤ王国誕生前のキプロス島
キプロス島の石器時代
キプロス島は東地中海の北東にあり、地中海の島の中では3番目の大きな島となっています。
キプロスの南西にはトロードス山脈があり、ここが多くの胴が採れる事で、キプロス王国誕生の礎となっています。
紀元前11000年頃には、キプロス島に人が住み活動を行った事が考古学遺物から分かっています。
キプロス島の初期の石器などはキプロス島の西部でよく発見されており、この地域からアラシヤの活動が始まったとみる事が出来るはずです。
紀元前9000年から紀元前4000年頃になると、キプロス島も新石器時代に突入しました。
レヴァント地域からキプロス島に、石器製作技術がもたらされたと考えられています。
その為、レヴァント地方からキプロスに人の移動もあったのでしょう。
キプロス島のヒロキティアやカラヴァソス・テンタは、この時代の集落遺跡だとされています。
ヒロキティアは世界遺産にもなっている状態です。
銅石器時代と前期キプロス期
紀元前4000年から紀元前2400年頃になると、銅石器時代に突入しました。
この時代になると、キプロス島で銅生産が始まり、この銅生産こそがアラシヤ王国誕生の原動力となります。
ただし、この時代で使われている銅は、アナトリア産だったとも見られています。
レンバ遺跡から出土される「レンバの婦人」は、銅石器時代の代表的な遺物にもなっています。
紀元前2400年から紀元前2000年頃になると、キプロス島では前期キプロス期となりアナトリアの影響を強く受けた土器などがみられる様になります。
この時代になるとキプロス島で銅生産が行われたのは、確実視されています。
前期と中期キプロス期の赤色磨研土器も作られる様になりました。
赤くて独特な形をした赤色磨研土器は注目を集めています。
アラシヤの誕生
紀元前2000年から紀元前1650年頃を中期キプロス期と呼びます。
この頃から、キプロス周辺地域の記録に「アラシヤ」の名前が見える様になります。
中期キプロス期になると人口も増加し、貧富の差も拡大し、社会の階層化も進みました。
メソポタミアにはバビロン第一王朝が出現したり、エジプト文明の世界ではエジプト中王国が誕生する事になります。
こうした中でキプロス島も地中海の交易ネットワークに組み込まれています。
ただし、中期キプロス期ではアラシヤの名前が登場するだけであり、アラシヤ王国と呼べるものは誕生していなかったと見られている状態です。
この時代にキプロスの銅の採掘が活発となり、外部地域にもキプロス島の胴が輸出される様になりました。
銅の精錬技術もあがりました。
アラシヤとエジプト中王国時代
中期キプロス期と年代が被るのが、エジプト中王国時代です。
この時代にキプロス土器がエジプトにもたらされる様になり、時代が進むごとに多くなっていった事が分かっています。
アメンエムハト2世の年代記と呼ばれる石碑にレヴァント遠征の記録がありますが、攻撃した地名の一つがアラシヤではないかとする説があります。
ただし、エジプト中王国時代にエジプト軍によるアラシヤ遠征が本当に行われたのかは疑問視されている状態です。
アラシヤとメソポタミア
中期キプロス期の時代に、アラシヤとメソポタミア文明の地域の間で交易があった事が分かっています。
マリ王国はユーフラテス川の中流域で栄えた国で、マリ文書が見つかりました。
こうした事情もあり紀元前1800年ごろからアラシヤの記録も見つかる様になり、アラシヤの胴がマリ王国に輸出された事も分かっています。
マリ王国はクレタ文明の勢力とも交流があった事が分かっており、アラシヤとも交易を行っていた事は確実視されている状態です。
マリ王国はバビロン第一王朝のハンムラビに滅ぼされていますが、ハンムラビがマリを征服した事で、アラシヤの胴の流通網がメソポタミア南部にまで拡張されました。
ただし、メソポタミア南部では海上交易でディルムンから銅を買っていたと考えられており、バビロンの勢力が銅の交易を行わなくなった事でディルムンは衰退したとも考えられています。
アラシヤとエーゲ海文明
紀元前2000年頃になると、クレタ島のミノア文明が興隆する事になります。
ミノア文明の勢力はエジプトやレヴァントの地域とも交流を行っていた事が分かっています。
クレタ島のカマレス土器がキプロス島でも発見されており、アラシヤとミノア文明の間で交流があったのでしょう。
集落の変化
中期キプロス期の最後の方になると、キプロス島では多くの集落が放棄され埋葬が増えた事も分かっています。
それと同時に防御機能を備えた集落があり、戦争を意識した集落が誕生しました。
カルパス半島にあるニトヴィクラ遺跡は大型であり、この時代の代表的な遺跡にもなっています。
日本で言えば、弥生時代の集落が誕生した様にも見られるわけです。
さらに沿岸地域にも集落が多く誕生しており、銅の交易を意識した様にも見受けられます。
中期キプロスの最末期に起きた変化は、短期間のうちに起きており、何かしらの事がアラシヤで起きていたとみる事が出来るはずです。
尚、この頃からまとまった量の土器が外部に輸出される様になりました。
エジプトのテル・エル=ダバア遺跡では、多くのキプロス島の土器が発見されています。
後期キプロス期とアラシヤ
後期キプロス期の土器
紀元前1650年から紀元前1200年を後期キプロス期と呼びます。
この時代に沿岸部では都市が形成される様になり、アラシヤ王国も誕生したとみる事が出来ます。
後期キプロス期になると赤色磨研土器が作られなくなり、轆轤を使った土器も現れました。
バイクロームウェアやホワイトスリップウェア、ベースリングウェアと呼ばれる土器が登場したのは、後期キプロス期の時代です。
ホワイトシェイブドウェアと呼ばれる土器も誕生しており、バリエーション豊かな土器が誕生しています。
輸出されたキプロス土器は輸入した地域の産業にも影響を与えました。
アラシヤ商人
古代オリエントの世界ではアッシリア、ウガリト、マリなど多くの商人が活躍しました。
後期キプロス期になると、アラシヤ商人も活躍したと考えられています。
アラシヤ商人は銅を売ったり、様々なものを仕入れるなど活躍したのでしょう。
時代が進むと商人階級が誕生したとする見解もある状態です。
キュプロ・ミノア文字
紀元前1500年頃になると、キュプロ・ミノア文字が使われる様になります。
ミノアの文字が入っていますが、線文字Aの要素が入っており、キュプロ・ミノア文字と呼ばれているのが現状です。
ウガリトなどでもキュプロ・ミノア文字の入った文章が残っています。
アラシヤではキュプロ・ミノア文字が使われていたはずですが、解読がされておらず内容に関しては不明です。
後述しますが、線文字Bの方ではアラシヤの事が記録されており、解読されています。
アラシヤとヒクソス
エジプト中王国時代が終わると、下エジプトはヒクソスが支配する事になります。
ヒクソスとアラシヤでは交易が行われていたと考えられています。
ただし、ヒクソスは自らの歴史を殆ど残しておらず、文字資料からは確実にアラシヤと交易が行われていたとは言えない状態です。
それでも、キプロス島でエジプトの土器が複数出土しており、アラシヤとヒクソスとの間に取引が行われていた可能性は高いと言えます。
アラシヤとトトメス3世
紀元前1450年頃になると、アラシヤは東地中海の大国とも関わる様になっていきます。
当時のはエーゲ海周辺にはミケーネ文明やクレタ文明があり、アナトリア半島にはヒッタイト、シリアにはウガリト、エジプトではヒクソスが駆逐され、エジプト新王国が勃興しました。
エジプト第18王朝のトトメス3世は海外遠征を積極的に行っており、トトメス3世年代記なる記録もあるわけです。
トトメス3世年代記にはアラシヤから銅や鉛、象牙、ラピスラズリなどが贈られた事が書かれています。
象牙やラピスラズリはキプロス島で採れるものではなく、アラシヤの人々は交易により入手したものもエジプトに贈った事になるのでしょう。
それと同時に、治世の34年、38年、39年と全て銅が贈られた記録があり、アラシヤの銅はエジプト新王国でもかなり喜ばれたのでしょう。
マドゥワッタの糾弾
ヒッタイトは紀元前17世紀にはアナトリア半島でいた事が分かっており、勢力を拡大させました。
マドゥワッタの糾弾は紀元前15世紀後半から紀元前14世紀初頭の話とされており、ヒッタイト王のトゥドハリヤ1世やアルヌワンダ1世の時代の話とされています。
マドゥワッタはヒッタイトに助けられますが、不義を働き恩を仇で返す行動を取るなどしました。
長文の話なのですが、ここで注目したいのが、下記の記述がある事です。
※NHKカルチャー講座・謎の古代王国アラシヤの歴史を復元するより
「アナトリア西方の諸勢力がアラシヤを襲撃していたとき、私もしばしばそこを襲撃していました。
陛下の父も陛下も『アラシヤは私のものだ。そのように認識せよ』とは知らせてくれませんでした。
陛下が捕虜の返還をお望みなのであれば返還します。」
という返事をしたマドゥワッタ。これに対して、マドゥワッタがアナトリアの諸勢力と一緒になってアラシヤを襲撃した事をさらに糾弾。
マドゥワッタの糾弾の話を見ると、マドゥワッタがヒッタイトの支配下にあるアラシアを襲撃した事になっています。
この話をみると、当時のアラシヤがヒッタイトの支配下になった事になっていますが、この点は不明です。
ただし、アナトリアとキプロスの間で交易があった事は間違いと言えるでしょう。
後期キプロス期は大国の支配下にあったのか
後期キプロス期において、アラシヤは大国の支配下にあったのではないかとする説があります。
アラシヤがエジプト新王国の支配下になったとする可能性は低いとされています。
マドゥワッタの糾弾の話を信じるのであれば、アラシヤはヒッタイトの領土になっていた事になるでしょう。
しかし、例えヒッタイトの勢力下におかれていたとしても、アルヌワンダ1世の時代以降にヒッタイトは一時的にではありますが、国力を落しており、この時点でアラシヤは独立した可能性も残ってはいます。
ただし、ここからアラシヤは興隆しエジプトのファラオとも「兄弟」と呼ぶなど、対等のやり取りをしました。
アラシヤ王国の発展
後期キプロス期の中盤である紀元前1450年から紀元前1200年頃になると、アラシヤ王の記録が現れる様になります。
こうした事情からアラシヤ王国が誕生したと見られています。
アラシヤ王国が誕生したとみられる時期から、キプロス島の輸出入が伸びており、国が誕生したのでしょう。
ただし、都市国家とまではいかなかったとも考えられています。
アラシヤ王国は銅の輸出や交易により勢力を伸ばしたとみるべきです。
紀元前1375年を超えた頃になると、東地中海の一帯で国際的な交易活動を行った事が分かっています。
アラシヤ王国とアマルナ文書
アラシヤ王の手紙
エジプト第18王朝のアクエンアテンはアテン神の信仰を盛んにし、アマルナ革命を起こしました。
アクエンアテンはアケトアテンに遷都しますが、この時代の貴重な資料としてアマルナ文書が発見されています。
アマルナ文書には外交の記録が多く残っており、当時の四大大国であったヒッタイト、カッシート、ミタンニだけではなく、アナトリアのアルザワと共にキプロスのアラシヤの記録も残っているわけです。
アマルナ文書の中でのアラシヤの記録に関しては、アッカド語で書かれたもので8通が現存しており、全てアラシヤからエジプトに宛てた内容となっています。
差出人はアラシヤ王のものもありますが、アラシヤ王の名前は分かっていません。
アラシヤ王国の力は強大だった??
アマルナ文書のアラシア書簡から分かるのは、アラシヤではアメンホテプ4世(アクエンアテン)が即位した事を知っていたという事です。
この時に、アラシヤ側はアメンホテプ4世に対し「我が兄弟」と呼んでいます。
こうした事情からアメンホテプ4世の先代であるアメンホテプ3世の時代から「兄弟」と言える様な関係が出来上がっていたとみる事ができます。
アラシヤ書簡からはアラシヤ王国が、エジプト第18王朝に対して同盟の締結を打診したりしています。
アクエンアテンがアラシヤ王国に対し、どの様な返答をしたのかは不明ですが、アラシヤ側は関係強化を望んだのでしょう。
アラシヤは古代オリエントの大国であるカッシートやヒッタイトよりも、贈り物の量が多かったと読み取れる記述もあり、エジプト側はカッシートやヒッタイトよりもアラシヤを格上だと見ていたのではないかとする記述も存在しています。
こうした理由からアクエンアテンが生きたとされる紀元前1350年頃のアラシヤ王国は、強大な力を持っていたとする説もあります。
ただし、エジプト第18王朝とミタンニ王国が婚姻関係だったなどの話はありますが、現在のところアラシヤ王の娘がエジプトに嫁いだなどの政略結婚の記述は存在していません。
アラシヤとエジプト新王国の交流
アラシヤがエジプトに贈って欲しいものを要求した記録もありますが、特定のものを欲しがると言う事はなくチャリオットや牛や馬、亜麻布の製品、銀などを要求しています。
金ではなく銀が要求されているのも注目されている部分です。
逆にアラシヤ王国からエジプト第18王朝には、銅を主体とする贈り物をしました。
エジプト新王国の時代はアラシヤから銅を欲したという事なのでしょう。
これらはアラシヤ側の書簡に書かれている事であり、銅に関してはアラシヤ王国がエジプトに贈ったのは確実視されている状態です。
アラシヤ王国と疫病
アマルナ文書のアラシヤ書簡をみると、アラシヤ王国で疫病により多数の死者が出た事が書かれていました。
この時の疫病はキプロス島で猛威を振るっていたのか、エジプトに輸送する銅の量が少なくなったとアラシヤ王は述べています。
さらに、疫病でアラシヤ王の妻子も亡くなったとあります。
それでも、アラシヤ王は銅は遅れてはいるが、ちゃんと贈るとするような内容となっているわけです。
人によってはアラシヤ王の詭弁なのでは?と思うかも知れませんが、当時の東地中海地域では疫病の記録が見つかっており、アラシヤの人々が交易による人の動きにより、疫病もキプロスに運ばれてしまったのかも知れません。
さらに、エジプトがアラシヤに派遣した使者が、3年もアラシヤに滞在しており、侘びた話しもあります。
アラシヤ王は疫病が発生しており、使者をエジプトに返すのは問題と考えたのかも知れません。
反対にアラシヤからエジプトに行った使者は、エジプトで亡くなっており、身の回りの品をアラシヤに持ち帰る為に使者に渡すように要求した話も残っています。
ルッカとの戦い
アマルナ文書によると、ルッカがエジプトを攻撃し、この中にアラシヤ人も含まれており、アラシヤ王国にクレームを入れた話があります。
エジプト第18王朝がルッカにアラシヤ王国が協力していると考え疑ったのでしょう。
しかし、アラシヤ側はアラシヤ王国自体もルッカの攻撃を受けており、本当にルッカのエジプト襲撃にアラシヤ人が含まれていたのなら、アラシヤ人を送還して欲しいと告げています。
アラシヤ王国としては、身の潔白を訴える内容だったとも言えるでしょう。
アラシヤやエジプトの敵とされているルッカですが、その名前からアナトリア南西部のリュキアではないかとも考えられています。
さらに言えば、ルッカは海の民に含まれる民族の一つの可能性も指摘されている状態です。
謎多きアラシヤ王国
アマルナ文書を見る限りでは、アラシヤは大国だと思った方も多いのではないでしょうか。
しかし、キプロス島では王宮とみなされるだけの遺跡が発見されておらず、アマルナ文書と考古学の間で差が大きい状態です。
キプロス島に統一国家があったとする意見もあれば、小さい国家が幾つかあったのではないかとする考えもあります。
この辺りは明らかになっていませんが、傾向としては小政府が幾つもあったとする説の方が支持されやすいのが現状となっています。
ただし、文献資料を見る限りではアラシヤ王国は大国であり、キプロスを統べる王がいた様にも見えるわけです。
この辺りがアラシヤがキプロスでは無かったのではないか?とする要因の一つにもなっているのでしょう。
キュプロ・ミノア文字が解読されたりすれば、また状況は違ってくるのかもしれません。
キプロス東部海岸にあるエンコミ遺跡は、発見された遺物などと共に、キプロスの中心地だったとも考えられています。
キプロス南部のカラヴァソス・アイオス・ディミトリウス遺跡も注目されている状態です。
尚、アラッサ遺跡では大規模な建築物があり、その名前からもアラシヤの中心地と考える専門家もいます。
ただし、どの遺跡にも王宮と呼べるほどのものがなく、不明な部分となっています。
アラシヤの交易
アラシヤはイングランドとの交易もあった!?
キプロス島は銅の産出で富を得ただけではなく、地中海交易の中継地点としても潤っていました。
キュプロ・ミノア文字が書かれた東地中海地域の製品が、オリエントの世界で見つかったりもしており、アラシヤを経由して運ばれたと考えられています。
キプロスの人々がキュプロ・ミノア文字をマークとして使い、輸出入していたとも考えられています。
トルコ南部のウルブルン沖で発見されたウルブルン沈没船には、10トンの銅が積載されていただけではなく、様々な物品も発見されています。
その中でも青銅を作る為に必要な錫もウルブルン沈没船で見つかりました。
錫の鋳塊にはキュプロ・ミノア文字が刻まれており、当時の錫はイングランドから運ばれたものもあった事が分かりました。
地中海を超えたイングランドとも交易が行われていたのは、驚きとしかいいようがありません。
アラシヤ王国の最大の輸出商品は銅でしたが、様々な地域との中継交易でも利益を上げていたことは確実でしょう。
イスラエル沖でも沈没船が発見されており、キプロス島に向かっていたのではないかとも考えられています。
アラシヤとエーゲ海の勢力との交易
エーゲ海に目を向けると、ミケーネ文明が紀元前15世紀頃には、クレタ文明も傘下に入れ覇権を握っていました。
キプロスではミケーネ土器が多く出土しており、アラシヤがミケーネ文明の勢力と交易を行っていたのは確実でしょう。
紀元前14世紀から紀元前13世紀に掛けて、多く流通する事になります。
キプロスで発見されたミケーネ土器には、補修されて使われた事も分かっています。
ミケーネ土器は価値が高いものであり、補修してでも使ったと考えられています。
キプロスではミケーネ土器の模造品も作られており、かなりの人気があったのでしょう。
アラシヤとヌラーゲ文明の交易
サルディーニャ島のヌラーゲ文明とも、アラシヤは交易があった事が分かっています。
ヌラーゲ土器は東地中海でも流通していますが。キプロスでは特に出土が多い地域だと言えるでしょう。
逆にサルディーニャ島でもキプロスの土器が発見されている状態です。
他にも、エジプト製の土器もキプロスでは見つかっています。
紀元前13世紀のアラシヤと周辺勢力
アラシヤ王国とウガリト王国
紀元前13世紀に突入すると、アラシヤとウガリトの間の交易も盛んになりました。
シリアのウガリト王国も交易で大発展した都市です。
アラシヤ王国とウガリト王国は交易での繋がりは、かなり強かったと見られています。
ウガリトもアラシヤも中継交易で莫大な利益をあげている部分もあり、密接に関わっていたのでしょう。
ウガリトにはアラシヤ人のコミュニティが存在し、アラシヤにはウガリト出身の書記がいたとも考えられています。
アラシヤ王国とエジプト第19王朝
エジプト第18王朝が崩壊すると、エジプト第19王朝が誕生しました。
アクエンアテンの宗教改革により、エジプトは国外に関与する事が出来ず、この間にミタンニ王国が崩壊に向かいヒッタイトが勢力を伸ばしました。
エジプト第19王朝のラムセス2世とヒッタイトのムワタリ2世のカデシュの戦いは有名です。
エジプト第19王朝の半分ほどはラムセス2世の治世になりますが、この時代になるとアラシヤ王国の記録は激減しました。
ラムセス2世の時代にアラシヤから多数の銀と銅がエジプトに搬入された記録や、セティ2世の治世にもアラシヤから銅や鉛が持ち込まれた話があります。
アラシヤからエジプトへの贈り物は「銅」が最も喜ばれたのでしょう。
他にも、アラシヤの油の記録も残っている状態です。
アラシヤ王国とヒッタイト
シュッピルリウマ1世の時代にヒッタイトは勢力を大きく広げました。
先にも述べた様に、アクエンアテンがアマルナ革命を行っている時代に、ヒッタイトはシリアへの進出を強め大きな成果を上げました。
カデシュの戦いが勃発しますが、この時にエジプト側の記録で、ヒッタイト側として参戦した諸国の名前が記録されています。
ヒッタイト側としてルッカ、カシュカ、キズワトナ、ウガリトなどの名前が存在しますが、アラシヤの名前は書かれていません。
こうした事情から、紀元前13世紀頃にヒッタイトは勢力拡大はしましたが、アラシヤは傘下にいたわけではないとみる事も出来るはずです。
それと同時に、あくまでもエジプト側の資料であり、何処までが本当なのか不明な部分もあります。
アラシヤは流刑地だったのか
アラシヤは流刑地だったとする説もあります。
実際にヒッタイトが危険人物や都合の悪い人物をアラシヤに追放した記録があります。
ヒッタイトに追放された人間がアラシヤと手を組んで動いても困るわけであり、アラシヤとヒッタイトには信頼関係があったのではないかとも考えられています。
さらに言えば、ウガリト王も二人の王子をアラシヤに追放しており、流刑地としての一面も見られるわけです。
アラシヤには追放された人間を、監視する設備や施設もあったのではないでしょうか。
アラシヤとヒッタイトの戦い
ヒッタイトがアラシヤを攻撃
紀元前13世紀後半から紀元前12世紀初頭に、アラシヤとヒッタイトの関係が大きく動く事になります。
トゥドハリヤ4世の治世にアラシヤに侵攻した記録があります。
ここでヒッタイトは戦果を挙げており、アラシヤ王、王妃、王子、アラシヤの住民を捕虜とし、略奪を行い首都のハットゥシャに強制連行した話があります。
ヒッタイトがアラシヤを攻撃した理由は不明ですが、一つの説として東方のアッシリアの勢力が強大になり、銅の通路が遮断され銅を欲したのではないかと考えられています。
ヒッタイトの属国となる
アラシヤはヒッタイトに敗れたわけですが、条約を締結する事になりました。
ヒッタイトはアラシヤの亡命者の引き渡しや、ヒッタイトに害をなす外部勢力の通報を求めています。
さらに、ヒッタイトに対し朝貢を行う事が決まりました。
この条約はアラシヤ王とピッドゥリとの間で締結された事になっています。
ここで登場するピッドゥリは、アラシヤの政府高官なのでしょう。
尚、捕虜になったアラシヤ王は条約を結ぶ事で、アラシヤに返されたと考えられています。
ヒッタイトに忠誠を誓う事を約束し、帰還を許されたとも見られています。
トゥトハリヤ4世はレヴァント地域の都市国家の支配者であるシャウシュガムワと条約を結んでいますが、この時に様々な国の名があげられています。
対等な国としてエジプト、カッシート、アッシリアがあり、次にアヒヤワが続きますが、ここにアラシヤの名が登場しません。
それを考えると、ヒッタイトにしてみれば、アラシヤはかなり下位に位置付けられた国となるのではないでしょうか。
この頃には、アラシヤ王国の国際的な地位は、かなり低下していたのでしょう。
アラシヤとヒッタイトの再戦
ヒッタイトのシュッピルリウマ2世の時代にも、ヒッタイトとアラシヤとの間で戦いが生じています。
シュッピルリウマ2世の先々代の時代であるトゥドハリヤ4世の時代に、条約を締結したはずなのに、ヒッタイトはアラシヤと戦った事になります。
アラシヤがヒッタイトの傘下から離脱する動きを見せたのかも知れません。
この戦いでアラシヤとヒッタイトは海戦を行い、三度ヒッタイトが勝利した事になっています。
しかし、陸上でも戦いは繰り広げられました。
この戦いでアラシヤとヒッタイトのどちらが勝利したのかは不明です。
尚、シュッピルリウマ2世の時代にヒッタイトは滅んであり、国としてはかなり弱っていたとも考えられ、アラシヤ軍がヒッタイト軍を撃退した可能性もあるのではないでしょうか。
謎のアラシヤ王クシュメシュシャ
アラシヤ王の中で名前が唯一分かっているのが、クシュメシュシャなる人物です。
クシュメシュシャはアラシヤからウガリトに、贈った紀元前13世紀末頃の書簡に登場しています。
ここで、クシュメシュシャはウガリト王のニクマドゥ3世に銅の鋳塊を贈りました。
時代的に考えて、ヒッタイトのトゥドハリヤ4世やシュッピルリウマ2世の時代とも重なっており、アラシヤ・ヒッタイト戦争の最中に在位していたアラシヤ王でもあるのでしょう。
アラシヤと紀元前1200年のカタストロフ
紀元前12世紀になると、ミケーネ文明やヒッタイト、ウガリトが崩壊し、エジプトやアッシリアは衰退しました。
大国が一斉に衰退したり滅んだりしたわけですが、これを紀元前1200年のカタストロフと呼びます。
当然ながらアラシヤも、紀元前1200年のカタストロフの影響を受ける事になります。
海の民が各地で暴れまわった事になっていますが、全てが海の民による破壊だったのかは謎とされています。
エジプト第20王朝のファラオであるラムセス3世と、海の民に関する記録が書かれた、メディネト・ハブが存在しています。
メディネト・ハブの中にアラシヤの名前もあり、ハッティ、カルケミシュ、コーデ、アルザワ、アラシヤが海の民により切り取られたとあります。
ハッティはヒッタイトの事であり、アラシヤが海の民により滅ぼされたとみる事が出来るわけです。
海の民によりアラシヤが壊滅したと考えられてきましたが、キプロス島の遺跡をみると確かに破壊されたり、放棄された遺跡があった事が分かっています。
アラシヤの人口も減ったと考えられていますが、実際には紀元前1200年のカタストロフを乗り越えていたのではないかと考えられています。
キプロスのピラ・コッキノクレモス遺跡は、紀元前12世紀の初頭頃に放棄されており、外敵の侵入があったなどの説があります。
ただし、紀元前1200年のカタストロフの時代に、アラシヤの産業は伸びていたなどの見解もある状態です。
キプロスのパレパフォス遺跡は、この時代に発展を遂げたと見られています。
パレパフォス遺跡には、至聖所が残っており注目されています。
ウガリトの滅亡とアラシヤ
ウガリト王国の遺跡としてラス・シャムラがありますが、ここで粘土板が多数発見されています。
紀元前1200年頃にウガリト王国は危機的な状況であり、アラシヤとカルケミシュに窮状を訴えているわけです。
アラシヤ王とされる人物から、ウガリト王のアンムラピ王に宛てられたアッカド語の書簡があります。
※NHKカルチャー講座 謎の古代王国アラシヤの歴史を復元するより
あなたが書いた「海上に敵船が目撃された」という件についてですが、もしそれが事実なら、あなたは大いに強化しなさい。
さて、歩兵と戦車はどこに駐屯しているのですか?あなた方と共に駐屯しているのではないのですか?違いますか?
誰があなた方に敵を追わせようとしているのですか?
城壁で都市を囲みなさい。歩兵と戦車を配備しなさい。敵に警戒し、大いに強化しなさい。
この文書から読み解くと、アラシヤ王は援軍を出すなどはなく「自分で対処して欲しい」と考えたと読み解く事が出来ます。
ウガリト王のアンムラピも防備を固めようとして、息子に命令しますが、ウガリト軍の歩兵と戦車、船団はヒッタイトやルッカの地に駐屯しており、苦心する様な内容の文書も残っている状態です。
こうした状況の中でアラシヤ王国の政府高官であるエシュワラは、ウガリトに対し次の書簡を送っています。
あなたの国の住民や船に対して、敵が行った行為についてですが、彼らは、あなたの国の人々に対して罪深い行為を行いました。
ですから、私に対して怒らないでください。
さて、山岳地帯から見えていて(?)敵がまだ出航させていなかった20隻の船が、その場にとどまることなく突然出航してしまいました。
今どこにいるのか、私たちには分かりません。
防備の備えをしてもらうために、この知らせを送りました。
気をつけてください。
アラシヤに敵船20隻が見えていましたが、見失ってしまっており、ウガリトに注意を呼び掛けた内容となっています。
ウガリト王国は12世紀初頭に滅亡したと考えられています。
ウガリトの遺跡には戦闘が行われた形跡がありますが、何処の勢力と戦闘を行ったのかは不明です。
尚、ウガリトが滅亡すると住民らはアラシヤに向かったとする見解も存在しています。
ペリシテ文化とアラシヤ
海の民の一派がレヴァント地方の南部に行きペリシテ人になったとする説もあります。
ペリシテ文化にはキプロス的な要素も見られており、アラシヤ王国の一部の人がレヴァント南部に住み着いたのではないかとする説もあります。
ペリシテ人に関しても謎が多く、単一民族によりペリシテ文化が誕生したと考えるのは難しいとも考えられています。
ペリシテ文化の状況を見て「地中海サラダ」と呼ぶ専門家もいる状態です。
紀元前12世紀から紀元前11世紀頃のアラシヤ
紀元前12世紀から紀元前11世紀頃は、ヒッタイトやウガリトが滅亡しており、アラシヤに関する文字資料も少なくなっています。
キュプロ・ミノア文字は、この時代になっても使われ続けています。
ラムセス3世の地名リストなるものがあり、キプロスと思われる名前も登場しています。
紀元前12世紀にキプロスの銅の輸出は西はサルディーニャ島から、東はメソポタミア南部にまで及んだとする見解もあります。
アラシヤの銅は広範囲に輸出されていた事は明らかです。
さらに、加工した後の青銅製品も輸出する様になりました。
後期キプロス期の銅産業のピークに達したとも考えられています。
アラシヤのギリシア化はあったのか?
紀元前1200年のカタストロフにより、エーゲ文明に属するミケーネ文明が崩壊しました。
この時に、ミケーネ文明に属する人々がアラシヤを訪れ、キプロスがギリシア化したのではないかとする説があります。
本国であるエーゲ海周辺で住めなくなり、キプロスに移住したとみる事も出来るはずです。
実際にエーゲ海で使われたサイクロプス式と呼ばれる壁体をもつ遺跡が、キプロスでも見られる様になりました。
ギリシアに原型があるとされる土器も多く作られる様になり、キプロス式の土器は逆に作られなくなっていくとする指摘もあります。
マア=パレオカストロ遺跡などは、ギリシア人集落としても位置付けられています。
ただし、本当にギリシア人の集落だったのかは不明です。
同様にこの時期にキプロスの住民が原住民のアラシヤの人々から、ギリシア人に代わったとする説もあります。
ウェンアメン航海記とアラシヤ
エジプトのファラオの使者となったウェンアメンが使者となり、レヴァント地方に派遣された話があります。
ウェンアメンは困難に合いながらも、フェニキア人の都市であるビブロスに辿り着きますが、冷遇されたりもしました。
ウェンアメン航海記の物語は途中で終わってしまいますが、分かっている最後の方の部分で、ウェンアメンがアラシヤに辿り着いた様子が描かれています。
ウェンアメン航海記には、次の記述が存在しています。
※NHKカルチャー 謎の古代王国アラシヤの歴史を復元するより
風は私をアラシヤの国に連れていった。
町の人びとは私を殺そうと出てきた。
だが、私はそのあいだをすりぬけて、やっと町の領主の娘ヘテブのいるところまでやってきた。
私が彼女に会った時、その家の一つからでて、もう一つの家にはいろうとしていた(ところであった)。
そこで、私は彼女に挨拶し、その近くに立っていた人々に向かって言った。
「あなたたちの中にエジプト語の分かる方はいらっしゃいませんか」と。
すると、中の一人が「私はわかります」と言ったので、私はかれに向かって言った。
ここで登場するアラシヤがアラシヤ王国を指すのか、アラシヤの地名を指すのかは不明ですが、当時の地中海世界の様子を描いているとも考えられています。
アラシヤでウェンアメンは殺されかけたりもしていますが、アラシヤにエジプト語が分かる人もおり、実際にアラシヤには多くの国の人が訪れていたのでしょう。
ウェンアメン航海記の物語は、アラシヤ編の途中で内容が分からなくなっています。
アラシヤ王国時代の終焉
12世紀初頭にウガリト王との書簡にやり取りはありましたが、アラシヤ王国の記録は見えなくなっていきます。
キプロスでは新たなる社会が築かれたはずですが、アラシヤ王国を維持した状態で変わったのか、瓦解し新たな社会が誕生したのかは不明です。
それでも、紀元前11世紀になっても地名としてのアラシヤは確認されています。
紀元前11世紀頃までには、キプロスは都市国家の時代に突入したのではないかと考えられています。
アラシヤ王国は崩壊したとみるべきでしょう。
その後のアラシヤ(キプロス)
アラシヤ王国の時代が終わった紀元前1050年から、紀元前750年頃をキプロス幾何学文様期と呼びます。
キプロスには様々な都市が築かれる事になり、キティオンはフェニキア人の都市となっています。
紀元前10世紀頃になると、長く使われていたキュプロ・ミノア文字が使われなくなりました。
キプロス音節文字が誕生したりしますが、キプロスではフェニキア語も使われていた事も明らかになっています。
紀元前750年から480年頃をキプロス前古典期と呼びます。
この時代の前期にアッシリアが古代オリエントの世界を席巻しますが、最大版図に到達するも短期間で滅亡しました。
アッシリアの影響力が無くなると、エジプト第26王朝がキプロスへの影響が強くなります。
その後に、アケメネス朝ペルシアが大帝国を築きますが、エジプトを支配下に置き、この頃になるとキプロスの勢力はアケメネス朝ペルシアの影響下に置かれました。
この時代にキプロスでは東部沿岸にサラミス王国があった事が分かっています。
紀元前480年から310年頃をキプロス古典期と呼び、マケドニア王国のアレクサンドロス大王が勢力を伸ばし、キプロスはマケドニアの影響下に置かれました。
この時代にキプロスの中部には、イダリオン王国があった事が分かっています。
アレクサンドロス大王の死後にヘレニズムの時代になりますが、プレトマイオス1世がキプロスを占拠しました。
キプロスはプレトマイオス朝エジプトの領土となり、都市国家は自治も喪失したと言えるでしょう。
こうした中で、地名としてのアラシヤも姿を消す事になりました。