
| 名前 | 王綰(おうわん) |
| 生没年 | 不明 |
| 国 | 秦 |
| コメント | 秦の最高位である右丞相にまでなった |
この時に右丞相になったのが隗状です。
王綰は天下統一後に遠方の地には王を設置する郡国制を主張しましたが、李斯の言葉があり郡県制が採用されました。
始皇帝の巡幸にも同行した記録が残っています。
王綰の最期は記録がなく分かっていませんが、始皇帝よりも先に亡くなったのではないかと感じています。
二世皇帝胡亥の時代には、王綰の名は見えません。
右丞相となる
戦国時代の末期に秦では昌文君や昌平君が相国となっていました。
しかし、昌文君は亡くなり、昌平君は楚に身を投じると、相国の位を引き継いだ者がおらず廃位になったとみられています。
秦では丞相が最高位になりますが、右丞相になったのが隗状であり、左丞相になったのが王綰です。
秦の統一時の左右の丞相は王綰と隗状だった事になります。
この時代は左丞相よりも右丞相の方が位が高く設定されており、昌文君や昌平君亡き後に、秦の文官のトップに君臨したのは隗状という事になり、王綰はナンバー2という事になります。
ただし、王綰が左丞相に就任するまでの経緯は分かってはおらず、どの様な出自の人物でどの様な功績があるのかは不明です。
前213年に李斯が丞相となって焚書坑儒を行った記録があり、この頃までには王綰は引退するか亡くなるかで、丞相の位を降りていたのでしょう。
始皇帝は紀元前210年に崩御しますが、この時の丞相は右丞相が馮去疾で左の丞相が李斯でした。
郡県制と郡国制
史記の始皇本紀によると丞相の王綰、御史大夫の馮去疾、廷尉の李斯らは嬴政に「泰皇」を名乗る様に進言しますが、嬴政は「皇帝」を名乗りました。
王綰と李斯は対立していたかの様に思われがちですが、泰皇は採用されませんでしたが、意見は一致していたのでしょう。
秦は天下統一後にどの様に天下を治めるかの議論を行いました。
ここで、王綰らは次の様に述べたと言います。
※史記始皇本紀より
王綰「諸侯が滅んだばかりであり、燕、斉、荊(楚)の地は遠方にあります。
王を置かねば安定させる事は難しい事です。
諸公子を立て、各地の王とするのがよいでしょう」
史記では王綰らが述べた言葉となっており、複数の人物が王綰の意見に賛同したのでしょう。
つまり、秦の本拠地の関中に近い地域は郡を設置し直轄地とし、遠方の燕、斉、楚の地には王を設置し強大な力を持たせた方がよいと進言した事になります。
一般的には、郡国制を進言した事になるのでしょう。
鶴間和幸先生は秦の天下統一時には、統治が出来ていない空白地があったと考えました。
全国に36郡を設置し統治するのは目標であり、王綰の封建制に朝廷の多くの大臣が賛同したと考えました。
実際に秦は数年で燕、斉、楚の地を征服してしまったわけであり、当然ながら支配が行き届かない地域もあったのでしょう。
しかし、李斯は周の文王や武王を例に出し「子弟を封建しても代が進むと疎遠になり争うようになる」とし王綰の意見に異を唱えました。
始皇帝は李斯の意見を採用し、郡県制を取り入れる事になります。
尚、前漢の劉邦は郡国制を採用しており、実際に王綰らの意見である郡国制が正しかったのではないかとも考えられています。
実際に陳勝呉広の乱や項梁の挙兵などを当時の郡県制では、抑える事が出来なかったとする評価もあります。
それと同時に王綰の進言に従い郡国制を採用し、始皇帝の子を遠方の地に封建していたら、歴史は変わっていたと感じました。
王綰と巡幸
始皇帝は天下統一すると、巡幸に出ました。
第1回の巡幸は紀元前220年に行っており洞庭湖の方に向かったわけですが、出土史料の岳麓秦簡によると王綰は隗状と共に参加した事が記録されていました。
史記にはない記録であり、研究者たちを驚かせています。
第2回の巡幸(前219年)も王綰は隗状と共に参加しています。
岳麓秦簡によると始皇帝の一行は洞庭湖の方に行き湘山などに登りますが、始皇帝は樹木の美しさに感動したのか「伐採しない様に」と王綰と隗状に命令したとあります。
これを蒼梧郡の役人に命じて国有地としたわけです。
これ以降の巡幸では王綰が参加した記録は見られず、留守の咸陽を守ったか、引退したかしたのでしょう。
王綰の最期
先にも述べた様に、王綰は少なくとも紀元前213年までには、左丞相の位を退いたと考えられています。
この後に、王綰の記録はなく、いつ亡くなったのかも不明です。
記録がないという事は、罪による処刑などではなく、病死などで普通に亡くなったという事なのでしょう。
王綰が亡くなり、何処に埋葬されたのかですが、始皇帝陵の西にある陪葬墓に埋葬されたのではないかとする説があります。
罪により処刑された李斯、蒙恬、蒙毅、趙高などであれば、陪葬墓に埋葬される事はありませんが、王綰が天寿を全うしたとすれば、陪葬墓に埋葬される事は充分にあると考えられます。
ただし、実際に発掘して見つかったわけではなく、あくまでも想像上のものとなります。