名前 | 柏孝長(はくこうちょう) |
時代 | 後漢末期、三国志 |
年表 | 西暦211年 杜襲配下として西鄂を守備 |
コメント | 勇気を振り絞って先頭に参加 |
柏孝長は南陽の巧曹をやっていた人物です。
正史三国志の杜襲伝の注釈である九州春秋に、名前が挙がる人物でもあります。
ただし、九州春秋では西鄂を劉表に攻められた時に、名前が挙がるだけです。
柏孝長は西鄂にいた時に、劉表軍が1万の兵で攻撃を仕掛けたのに恐怖し、家に籠り布団を被ってしまった様な気の弱い人物だと言えます。
しかし、西鄂の長である杜襲が50人の兵で巧みに城を守り、最後は柏孝長も勇気を振り絞って先頭に参加する事になります。
今回は西鄂での戦いで、勇気を振り絞った柏孝長を解説します。
本当に勇気のある人と言うのは、柏孝長の様な人もいう可能性もあるでしょう。
劉表に攻められる
九州春秋によれば、西暦201年に劉表の勢力が曹操の支配地域である西鄂に攻め込んで来ました。
西暦201年なので、曹操が官渡の戦いで袁紹を破った翌年の事だと言えます。
この時に、西鄂を守備していたのは、杜襲であり寡兵で防戦する事になったわけです。
九州春秋によれば、杜襲は男女を引き連れて城を守ったとあります。
この時に荊州からの劉表軍は1万だったのに対し、杜襲の軍で戦えたのは50人程度だったとされています。
この絶対絶命の状況の中で、南陽の巧曹をしていた柏孝長は、不幸にも城内にいました。
敵軍は1万人に対し、自軍は50人という200倍の兵力差で城を守る事になったわけです。
怯える柏孝長
柏孝長は劉表軍の攻撃の声を聞くと、不安になり自分の家に引き籠ってしまいました。
さらに、布団を出し、頭から被ったとも書かれています。
漫画でもありそうな話を、柏孝長はリアルでやっていた事になるでしょう。
普通で考えれば、布団を被った所で、どうにもならないのですが、柏孝長にしてみればよっぽど怖かったのでしょう。
しかし、西鄂の城内にいた50人は、予想以上に善戦する事となります。
柏孝長が出陣
普通で考えれば、兵力差は200倍であり、直ぐに落城してもおかしくはありません。
しかし、杜襲の恩恵が行き渡っていたのか、城内の50人は予想以上に善戦しました。
柏孝長は布団を被って怯えていましたが、半日が経過すると布団から頭を出す事になります。
そして、翌日になると柏孝長は、布団から出て立ち上がり様子を伺ったと言います。
200倍の兵力差があるはずなのですが、城は1日で落城せず持ちこた事になるはずです。
二日目になると、柏孝長は戸まで行き状況を確認したとあります。
西鄂の守備隊は奮戦し、4,5日が経過しても城は落城しなかったわけです。
ここにおいて、柏孝長も盾を持ち戦闘に加わる事となります。
戦闘に加わるにあたって、柏孝長は杜襲に次の様に述べたとあります。
柏孝長「勇気は習えるものです」
柏孝長の言葉は名言だと言えるでしょう。
ただし、ここで九州春秋の話は終わってしまい、この後に柏孝長がどうなったのかは不明です。
柏孝長の最後
杜襲伝には西鄂での戦いの記録が残っています。
杜襲伝によれば、西鄂の50人の守備隊のうち30人が死亡し、18人が負傷したとあります。
それを考えると、柏孝長もここで戦死したか負傷した可能性が高いと言えるでしょう。
杜襲伝には杜襲を裏切った者は一人もいなかった記述がある為、柏孝長も逃げ出す事はせずに、最後まで堂々と戦った様に思います。
やはり、勇気は習えるものなのでしょう。
柏孝長の評価
柏孝長ですが、布団を被って怯えていた事を考えると、身体能力は低かった様に思います。
しかし、西鄂守備隊の奮戦に勇気づけられて、最後まで頑張った様に感じました。
「勇気」と言うのは、一般的には張遼、孫堅、孫策、楽進の様な勇猛な人を指すのかも知れません。
しかし、本当の勇気は弱いながらも、敵に挑みかかった柏孝長の様な人を指すとも思いました。
西鄂での戦いで杜襲は戦死しなかったのですが、杜襲を逃がす為に柏孝長は最後まで奮戦した可能性もあるはずです。