周不疑は荊州零陵郡重安県の出であり、劉表や劉琮、曹操などに仕えた劉先の甥にあたる人物です。
周不疑は神童とも呼べる人であり、その才能は曹操の子で天才少年曹沖に、匹敵したとも言われています。
ただし、周不疑は高い能力を持っていたがゆえに、無残な最期を迎える事になりました。
周不疑が没したのは208年の事であり17歳と記録がある事から、周不疑は西暦192年に誕生した事になるはずです。
西暦192年は後漢王朝の実権を握った董卓が、王允や呂布に暗殺された年でもあります。
後漢王朝の大きな政変の年に、周不疑は生まれたとも言えるでしょう。
因みに、周不疑の字は元直であり、劉備の最初の軍師とも言われる徐庶と同じです。
劉巴に弟子を断わられる
先賢伝によれば、周不疑は幼少の頃から並外れた才能があり、聡明で優れた理解力を持っていた話があります。
劉先も甥の周不疑の才能を認め、劉巴に師事させようとした話があります。
劉巴は名の通った名士であり、後に諸葛亮も高く評価した程の逸材です。
しかし、周不疑の教育を頼まれた劉巴は次の様に述べました。
劉巴「私は荊北に遊学した際に、多くの先生の門を渡り歩きましたが、質問を予想し回答する記問の学を学んだ程度です。
記問の学は礼記に『人の師と為すべからず』とあります。
私の学問は名前を書くにも頼りないものであり、私には楊朱の様な消極的処世術もなく、墨翟の様な気概も持ち合わせていません。
天の南側にある箕星座が、形だけで占いの役には立たぬのと同じです。
お手紙を賜わりましたが、私が見た所では周不疑殿は、鳳などの神鳥の類だと感じました。
それほどの才能がある周不疑殿を燕や雀でしかない、私に指導して貰いたいと述べられております。
周不疑殿の才能を前にしては、私如きが指導する事は出来ませぬ。
私は恥ずかしくて、お受けする事は出来ません」
劉巴は周不疑の才能を高く評価し、自分では周不疑を教える事が出来ないと断りを入れたわけです。
先にも述べた様に、劉巴は諸葛亮にも高く評価され、劉備の入蜀後には劉備に財政政策を進言した程の実力者となります。
そうした劉巴が高く評価している辺りは、周不疑の才能が如何に凄かったのかが分かる気がします。
尚、劉巴は劉先への手紙を見ると謙虚な人物に思うかも知れません。
しかし、劉巴は張飛を無視した話もあり、名士以外の人間には冷たい人間だとも感じました。
それを考えれば、周不疑は劉巴の元で学ばなくて正解だったのかも知れません。
曹操陣営に加わる
曹操は周不疑の才能を聞き及んだのか、周不疑を呼び寄せました。
この時に曹操は周不疑の事が多いに気に入った事もあり、周不疑に自分の娘を与えると言い出します。
しかし、突然の事だった為か周不疑の年齢が若かったせいか、周不疑は辞退しています。
曹操としては周不疑の才能は、自分の子の中で最も優秀であった曹沖に匹敵すると考え、周不疑を一族に取り込もうとしたとも考えられています。
周不疑は曹操軍として、汝南袁氏掃討戦の総仕上げである、207年に行われた白狼山の戦いに、従軍したとも伝わっています。
この時に曹操軍は烏桓の柳城が落とせなかったわけです。
しかし、周不疑が考案した作戦を実行すると、柳城が陥落した話があります。
周不疑の策略により曹操軍は烏桓を破り袁煕、袁尚を滅ぼす事に成功したとも言えるでしょう。
ただし、後の事を考えると、曹操は周不疑の才能を畏れた可能性があります。
尚、この時の周不疑の年齢は17歳未満であった事が明らかであり、周不疑が本当に白狼山の戦いに参加したのか疑問視する声もある様です。
周不疑の最後
西暦208年になると、曹沖が亡くなってしまいます。
正史三国志によれば、曹沖が亡くなると、曹操は周不疑の事が疎ましく思ったとの記載があります。
この時に曹操は周不疑を殺害しようとしますが、曹丕が諫止しました。
しかし、曹操は本気で周不疑を亡き者にしようと考えており、曹丕に対し次の様に述べています。
曹操「周不疑は曹沖でなければ、用いる事は出来ないであろう。
お前(曹丕)如きが、周不疑を使いこなせるわけがない」
曹操は周不疑を暗殺する為の刺客を送り、周不疑は命を落とす事になりました。
周不疑の最後は、曹沖の最後に連動しているとも言えるでしょう。
尚、正史三国志の摯虞の「文章誌」によれば、下記の事が記載されていた話があります。
「周不疑が亡くなったのは17歳の時であり「文論」四編を書き表していた」
これを見ると周不疑は、若いながらも書物を書き残していた事が分かります。
この辺りは、周不疑の神童ぶりが分かる話とも言えるでしょう。
周不疑の評価
周不疑は才能は確かにあったようです。
しかし、その才能が元で曹操により、最後を迎えたとも言えそうです。
ただし、周不疑の叔父にあたる劉先は、劉表の使者として曹操の元に行った時に、曹操の機嫌を損ねた話があります。
そういう感情が混ざり合い周不疑を曹操は殺害してしまったのかも知れません。
それか、曹操の目には将来的に周不疑が、史実の司馬懿の様な存在になると考えて、先に手を打った可能性もあるでしょう。
周不疑は曹操に危険視される辺りは、才能はあっても出処進退で考えれば、脇が甘い部分もあった様に感じました。