王威は正史三国志の注釈である漢晋春秋に名前がある人物です。
劉琮は曹操に降伏の決断をしますが、王威は曹操を急襲し捕らえる様に進言しました。
劉琮は王威の進言を却下しましたが、王威の策が成功していれば、歴史は変わっていた事でしょう。
王威は自ら兵を率いて曹操を捕えようとした話もあり、剛毅な人物だったはずです。
今回は劉琮に曹操を奇襲し、捕らえる様に進言した王威を解説します。
因みに、王威と同じ読み方で王異がいますので、注意してください。
劉琮の降伏
劉琮は劉表が207年に亡くなると後継者となり、荊州の主となります。
しかし、この時に北方の大半を平定した曹操が、荊州を目指し進撃してきたわけです。
劉琮は曹操と戦ってみたい気持ちもあった様ではありますが、配下の王粲、傅巽、蒯越らは、劉琮に降伏を勧めました。
曹操が迫っている時の襄陽での会議に、反曹操派の先鋒である劉備が、会議に呼ばれないなど、劉琮の周りの大半が降伏派で占められていたのでしょう。
王威がこの時に何を思っていたのかは不明ですが、王威に戦いたい気持ちがあっても、降伏派や劉琮を説得するだけの弁舌も持ち合わせてはいなかったと感じます。
王威が発言出来るだけの、空気も無かったのでしょう。
曹操が迫ると劉琮は降伏を決断し、劉備は南下を始め重要拠点である江陵を目指しました。
曹操は劉琮が降伏した事で、難なく荊州を手に入れた事は決定的となります。
王威の不意打ち策
劉琮は曹操への降伏を決断し、曹操も劉琮の降伏を受け入れました。
漢晋春秋によれば、王威は今が好機だと、劉琮に次の様に進言しています。
王威「劉琮様が曹操に降伏を決断し、劉備は既に南に向かって逃走しております。
今の状態であれば、曹操は軽はずみな行動を起こし、単独で進んでくるはずです。
私に数千の奇襲する部隊を与えれくだされば、要害の地で曹操を迎え撃ち、曹操を捕える事が出来ます」
王威は油断して進んで来る曹操を急襲し、捕虜にすべきと進言した事になります。
さらに、王威は次の様に続けます。
王威「曹操を捕虜にすれば、天下を震撼させる事となり、何の恐れもなくなり天下を闊歩出来るのです。
中原の地は広いとは申しますが、曹操を捕虜にした後で檄文を飛ばせば、平定する事も容易となります。
私の曹操急襲策を採用してくれれば、現在の独立状態を保持するだけではなくなります。
今こそ千載一遇の好機であり、逃すべきではありません」
王威は劉琮に自分に兵を与えてくれれば、曹操を捕虜とし、劉琮は天下を狙える立場になると進言したわけです。
しかし、劉琮は既に降伏を決断しており、王威の進言を却下しました。
この後に王威がどの様になったのかは記録がありません。
楚漢戦争の終盤で、蒯通は韓信に天下三分の計を進言し、却下された話があります。
蒯通は韓信が自分の進言を却下されると、狂人に振りをして逃亡しました。
王威の場合も同じ様に、身の危険を感じ、劉琮の元からは逃亡してしまった様に思います。
王威の話が曹操に伝われば、王威は処刑されても、おかしくはない筈だからです。
三國志演義の王威
王威は羅貫中が書いた小説三国志演義にも登場しています。
王威は蔡瑁の劉備暗殺計画では、趙雲と劉備を引き離す役割を文聘と共に与えられています。
しかし、蔡瑁の劉備暗殺計画は劉備の愛馬である的盧の活躍などもあり、失敗に終わりました。
王威は曹操が降伏すると、劉琮に付き従い青州に向かいますが、道中で于禁に出会い殺害されています。
因みに、曹操が于禁に命じて劉琮を殺害させた話は創作であり、史実では曹操は劉琮を厚遇しています。
さらに言えば、王威が劉琮に付き従って青洲に行った話もありません。
王威は三国志演義では、損な役回りにされてしまったと言えるでしょう。
王威の能力値
三国志14 | 統率60 | 武力70 | 知力62 | 政治50 | 魅力64 |