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蔡瑁(さいぼう)は悪役ではなく、勝ち組人生を謳歌していた

2022年4月2日

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名前蔡瑁(蔡瑁) 字:徳珪
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉表劉琮曹操
一族蔡諷、蔡氏(史実)/蔡勳蔡中蔡和(三国志演義)
年表208年 曹操に仕える
画像三国志14(能力値は最下部)

蔡瑁は荊州南郡襄陽県の人だと分かっています。

蔡瑁と言えば、三国志演義の劉備を亡き者にしようとしたり、悪役としてのイメージが強い人が多いはずです。

さらに、赤壁の戦いでは水軍を指揮しますが、周瑜の離間の計に掛かった蔣幹の言葉で呉との内通を疑われ、張允と共に処刑されてしまいました。

三國志演義の蔡瑁を見るとパッとしない悪役のイメージが強いですが、史実の蔡瑁を見ると劉表に厚遇されただけではなく、曹操にも厚遇されています。

史実の蔡瑁は曹操に仕えた後に、従事中郎・司馬、長水校尉を歴任し、漢陽亭侯に封じられるなど、勝ち組と言ってよい程の人生を謳歌した様です。

曹操と蔡瑁は旧知の間柄であり、曹操と蔡瑁は仲がよかったのも、蔡瑁を出世させた大きな要因となるでしょう。

今回は三国志演義では悪役にされてしまいましたが、史実では高位高官となり重用された蔡瑁を解説します。

因みに、三国志演義では蔡瑁の一族として蔡勲、蔡中蔡和が登場しますが、蔡中、蔡和は後漢書や正史三国志に記載がなく、架空の人物だと考えられています。

上記は装甲猫さんが作成したゆっくり解説動画ですが、蔡瑁の記述を網羅した内容となっています。

この記事を書くにあたり、不明な部分は上記の動画を参考にした上で記述しました。

動画内容に関しても、優秀だと感じておりますので興味がある方は、動画の方も視聴してみてください。

恵まれた一族

蔡瑁の父親は蔡諷であり、蔡諷の妹は張温に嫁いだ事が分かっています。

張温は韓遂・辺章の乱では孫堅陶謙を率いて出陣し、董卓が軍令違反を犯すなどもあり、パッとしない印象を持っている人もいるのかも知れません。

しかし、張温は司空、大尉、車騎将軍を歴任するなど、後漢王朝においては、かなりの実力者でもあります。

さらに、蔡諷の長女は襄陽名士である黄承彦の妻となり、妹の蔡氏は荊州牧の劉表の後妻となり劉琮を生みました。

因みに、黄承彦は諸葛亮に娘の黄月英(黄夫人)を嫁がせた事で有名です。

意外に思うかも知れませんが、蜀の丞相となる諸葛亮と蔡瑁は親戚となります。

他にも、蔡瑁の従弟である蔡瓚は鄢相になった記録があり、蔡琰は巴郡太守に任命されました。

蔡瑁の家は沔水の辺にあり立派な邸宅に住み、川の中州の近くには司馬徽、龐徳公、徐庶龐統の邸宅があった記録もあります。

カテゴリが違うと思うかも知れませんが、蔡瑁の家の近所は劉備や諸葛亮と馴染みが深い人物の邸宅があった事が、水経注図に記録されています。

蔡瑁が生まれた襄陽蔡氏は、蔡瑁が生まれた時代には全盛期を迎えていました。

これだけでも、かなり恵まれた環境に蔡瑁がいた事が分かります。

曹操と知り合う

曹操の父親は宦官曹騰の養子ではありますが、曹操の父親の曹嵩は大尉にまでなっています。

こうした事もあり、若かりし頃の曹操と蔡瑁は親交を結び、仲良くなったわけです。

曹操と蔡瑁は悪友だったのかも知れませんが、若かりし頃の蔡瑁は一緒に行動を共にした時期もあったのでしょう。

さらに、蔡瑁本人の性格は剛毅な人物で、自らを頼みにするという自負心の強い性格だったとする話も残っています。

それらの話を考慮すると、蔡瑁は名士というだけではなく優れた資質も備えていた様に感じます。

蔡瑁のこうした性格も、曹操と親しくなった理由の一つなのでしょう。

劉表の配下となる

張角が引き起こした黄巾の乱が終結すると、荊州刺史として劉表がやってきました。

劉表が荊州にやってきた時には、荊州北部の南陽郡には袁術の勢力がおり、長沙太守の蘇代や華容県の貝羽などが割拠しており、荊州は不安定だったわけです。

劉表は荊州刺史治がある武陵郡入る事が出来ず、宜城に留まります。

宜城の劉表は中廬の蒯良蒯越や襄陽の蔡瑁を招いて対策を練ります。

この時に蒯良が仁義を説き、蒯越が策謀を説きましたが、劉表は蒯越の策を利用し、敵対するであろう勢力の長を招き寄せ殺害しました。

さらに、劉表は蔡瑁に兵を出して貰い諸県を平定しています。

劉表は襄陽の陳生や張虎には、蒯越・龐季を使者として派遣し降伏させています。

劉表は荊州の蔡瑁らの協力を得た事で、荊州において大きな力を得る事となりました。

蔡瑁は劉表に信任を得て江夏郡、章陵郡、南郡の太守を歴任し、鎮南将軍軍師に任ぜられています。

尚、荊州の劉表政権においては、袁術が荊州を支配下にしようと画策し、孫堅に劉表を攻撃させています。

この時に、孫堅を討ち取った黄祖が江夏太守となり、息子の黄射が章陵太守に任命された話があります。

黄祖が荊州で大きな力を持った形跡もありますが、荊州の劉表配下の腹心としては、蔡瑁が一番重用されていたのでしょう。

劉備暗殺計画

西暦200年頃に袁紹と曹操は官渡の戦いで争いますが、この頃に袁紹陣営にいた劉備が荊州の劉表の元を訪れています。

正史三国志の注釈『世語』によれば、劉表は劉備を樊城に駐屯させ、手厚く厚遇はしたが信用はしなかったとあります。

劉表が劉備を宴席に招いた時に、世語では蔡瑁と蒯越が劉備を暗殺しようとした話が掲載されています。

劉備は自分の命の危険が迫っている事を察知し、宴席会場から脱出し愛馬の的盧の活躍もあり、無事に逃げ通す事に成功しました。

この話は三国志演義でも近しい話が採用され、善玉の劉備を暗殺しようと企てた蔡瑁が、悪役にされる原因の一つにもなっています。

尚、三国志演義では伊籍の活躍も絡めて話が進みますが、正史三国志では蔡瑁と蒯越の名前は出て来ますが、伊籍の名は見えません。

蔡瑁と蒯越による劉備暗殺計画で裴松之は、孫盛の次の言葉を残しています。

「これはあり得ない話である。劉備はこの時に居候でしかなく、主人側と客側では勢いが違うはずである。

この話は世俗のいい加減な作り話でしかない」

孫盛は荊州の大勢力である蔡瑁、蒯越と客将に過ぎない劉備とでは、勢力の差が段違いであり、蔡瑁や蒯越が劉備を暗殺するだけのメリットがないと述べたわけです。

ただし、劉備は反曹操派であり、蔡瑁は曹操と旧知の間柄であった事を考えると、蔡瑁にとっては劉備は邪魔な存在に見えたのかも知れません。

三國志演義にある様な蔡瑁の劉備暗殺計画があった可能性は低いとも言えますが、可能性がゼロではない様にも思いました。

後に劉備が荊州を席捲する存在だと考え、劉備の暗殺を考えたとしたら、蔡瑁の先見の明は凄まじいとも言えます。

当時の劉備は、劉表の元にいた時に左将軍には任命されていましたが、客将に過ぎなかったからです。

劉琮を後継者に立てようと画策

劉表は最初は劉琦を寵愛し、後継者にしようと考えていた話しもありますが、後妻である蔡氏の意向もあり劉琮を後継者にしようと考える様になります。

蔡氏は蔡瑁の一族であり、蔡瑁は張允と共に劉琮を後継者にしようと、劉表に働き掛けています。

後に身の危険を感じた劉琦は、江夏太守を志願し襄陽から離れますが、これには諸葛亮のアドバイスもあったとされています。

ただし、正史三国志には蔡瑁と張允が劉琮を後継者にしようと画策した事で、劉琦と劉琮は「仇敵に間からとなった」とも記述されていました。

蔡瑁や張允が劉琮を後継者にしようとした事で、劉琦と劉琮の兄弟間にヒビが入ってしまったとも言えそうです。

因みに、劉琦が襄陽を去った事で、劉琮は劉表の後継者として大きく前進したとも言えます。

劉表の死

西暦208年になると劉表の病が重くなり、重体に陥ってしまいます。

江夏にいた劉琦は孝の精神が強い部分があり、劉表の見舞いにやってきました。

蔡瑁や張允は、明日をも知れぬ命である劉表と長子の劉琦が面会する事で、劉表が心変わりし、後継者に劉琦を指名するのではないか?と不安になります。

この時に蔡瑁と張允は理由を付け、劉表と劉琦を合わせない様に取り計らい、劉琦は涙を流して去った話があります。

蔡瑁が物語で悪役にされてしまう理由は、劉琦の見舞いを妨害した行動にもあると感じています。

曹操に降伏

劉琮は劉表の後継者となりますが、曹操の大軍が南下してくると王粲らに進言もあり、降伏を決断しました。

三國志演義では新野にいた劉備が南下を始め、襄陽の城内では魏延文聘が一騎打ちをする話もありますが、これは史実ではありません。

曹操は襄陽に到着すると蒯越、韓嵩劉先鄧義を重用し、蔡瑁の屋敷を訪れた話があります。

曹操が自ら蔡瑁の屋敷を訪問する辺りは、曹操と蔡瑁の仲がよかった証なのでしょう。

曹操は蔡瑁に昔二人で梁鵠に会いに行った時に、面会して貰えなかった話をしたと伝わっています。

因みに、曹操は荊州に梁鵠がいる事を知っており、曹操は賞金を懸けて梁鵠を捜索し、梁鵠は逃げられぬと判断し自ら出頭しました。

これらを考慮すると、曹操と蔡瑁は久しぶりに会った時に、昔話に花を添えたのでしょう。

曹操は荊州の名士である蔡瑁を重用し、従事中郎・司馬、長水校尉を歴任し、漢陽亭侯に封じました。

蔡瑁は列侯となったわけです。

尚、三国志演義では蔡瑁は張允と共に水軍を率いますが周瑜の計略により処刑されています。

しかし、先にも述べた様に蔡瑁が赤壁の戦いで曹操に斬られた話も、水軍を率いた話しもありません。

ただし、蔡瑁が赤壁の戦いで騎兵を率いた記録はあります。

それを考えると蔡瑁は水軍の将ではなく、陸軍の将校の一人だったのでしょう。

曹操に降伏してからの蔡瑁の記録ですが、重用されたこと位しか分かっている事がなく、どの様な活躍や進言をしたのかも不明です。

蔡瑁の最後も記録がなく分かっている事は皆無と言えます。

蔡瑁が悪役になってしまう理由

曹丕が蔡瑁を批判した話が残っています。

曹丕は曹操は蔡瑁を厚遇したが、世間の人々は蔡瑁を蔑んだとあります。

世間の人が蔡瑁を嫌ったのは、長子の劉琦を讒言し次子の劉琮を後継者にしようと企んだからだと伝わっています。

曹丕の言葉ですが、曹丕自信が曹植と後継者争いを繰り広げており、劉琦と劉琮の姿を自分と照らし合わせたからだと感じました。

さらに言えば、蔡瑁が悪役になってしまうのは世語の劉備暗殺事件の話や、劉表の死に際に劉琦を合わせなかった事などの話が拡がってしまったなどもあるのでしょう。

しかし、史実の蔡瑁を見れば人生の勝ち組を謳歌した人物であり、三国志でも屈指の幸運な人物とも言えそうです。

蔡瑁が失敗した様な話も伝わっていません。

蔡瑁の能力値

三国志14統率77武力68知力77政治73魅力59

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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