傅巽の字は公悌であり、涼州北地郡泥陽県の出身です。
しかし、傅巽は戦乱を避けてか荊州に流れ着く事になります。
正史三国志の注釈にある傅子によれば、傅巽は優れた外見を持ち、博学で人物評価の能力に長けていた記録があります。
実際に傅巽は龐統や裴潜、魏諷などを評価した話が残っています。
傅巽は学があるだけではなく、魏では曹丕の時代になると機転を利かせ蘇則をフォローした話もあります。
傅巽には、同僚思いの部分も多々あったのでしょう。
尚、傅巽が何年に亡くなったかの記述はありませんが、太和年間(227年ー233年)に死去したと記載があります。
それを考えると、傅巽は曹叡の時代まで生きた事になるはずです。
因みに、傅巽の甥として傅嘏がおり、曹爽と司馬懿の権力争いでは司馬懿に近しき人間だった話があります。
傅巽の人物鑑定
龐統を不完全な英雄と評す
傅巽は荊州にいた時に、龐統の事を人物鑑定した話があります。
龐統は龐徳公や司馬徽などは鳳雛とも呼び評価していましたが、龐統を評価したのは、あくまでも一部の人間だけでした。
傅巽は龐統を「不完全な英雄」と評価したわけです。
傅巽がどの様な事を考えて龐統を「不完全な英雄」と評価したのは、記載がなく分かっていません。
ただし、傅巽が龐統を英雄として評価した事は間違いなく、龐統が劉備の元では諸葛亮に次ぐ待遇を受けた事が記載されています。
しかし、龐統は劉備の入蜀時に劉循と張任が守る雒城を攻略する事が出来ず、流れ矢に当たり命を落としています。
それを考えると、傅巽は龐統の事を英雄になれる資質は持ち合わせているが「性格的な問題で不慮の事故で命を落とす」と考えたのかも知れません。
裴潜が清廉潔白な役人になると予言
傅巽は裴潜に対しては、「清潔な品行によって名を上げる」と述べた話があります。
しかも、傅巽は裴潜が清廉な役人になる事を、保証したとまで記載があるわけです。
裴潜は若い頃に礼を疎かにした話がありますが、役人になってからは民衆に喜ばれる政治を行い、北方に赴いた時は烏桓との友好を深めた話があります。
裴潜は尚書にまで出世し、名声と徳行を具えた人物だったと傅子に記載があります。
裴潜は傅巽が予言した通りの人材に育ったと言えるでしょう。
尚、裴潜は劉備の事を「中央にいれば混乱を引き起こす事は出来ても治める事は出来ない。しかし、要害を守れば地方の主にはなれる」と評した話が残っています。
劉備が後に蜀の皇帝になった事を考えれば、裴潜には先見の明があり、優れた人物だという事が分かるはずです。
魏諷の謀反を予言
魏諷は評判の人物であり、多くの人々が評価していました。
しかし、傅巽は魏諷に関しては「必ず謀反を起こす」と予言していたわけです。
219年に荊州の関羽が北上し、曹仁や満寵が守る樊城を包囲しました。
この時に、魏諷は謀反を企みました。
魏諷は曹丕に察知され未然に防がれていますが、傅巽が言った様に魏諷は本当に謀反を起こそうとしたわけです。
劉琮を諫める
劉表が亡くなると、次子の劉琮が後継者となりました。
劉琮が劉表の後継者になったのは、劉表の後妻である蔡氏や蔡瑁、張允などの思惑があったとされています。
この時に、袁氏を滅ぼした曹操は南下を始め荊州に迫っていました。
劉琮は気概を見せ、楚国(荊州)を纏め上げ地方の群雄として割拠しようとも考えた話があります。
しかし、劉琮の考えが無謀だと思ったのか、傅巽は次の様に諫めました。
傅巽「物事には道理があり、強弱は情勢により決まるものです。
臣下が主君に逆らうのは道理に反しておりますし、新興の楚国が天子に逆らうのも道理に反しています。
それに、情勢から判断してみると、楚国の力で国家に抵抗するのは無理があります。
劉備を任用し曹操に敵対しようと思っても、抵抗できるものではありません。
天子様の軍勢に戦いを挑むのは、必然的に滅亡へと足を進めるものです。」
傅巽は反曹操派閥の劉備を使い、曹操に戦いを挑んでも、勝利は出来ないと述べたわけです。
さらに、傅巽は劉琮に次の様の問います。
傅巽「自分と劉備を比べてみて、どう思うでしょうか?」
これに対し、劉琮は次の様に答え傅巽と問答を行っています。
劉琮「儂の方が及ばぬ」
傅巽「劉備が曹操に対抗できぬなら、例え楚の地を抑えていても自分の力で立つ事は出来ませぬ。
劉備が曹操に対抗できるとしたら、劉備はご主君(劉琮)の下位にいるはずがございません。
ご主君には迷わない様にして頂きたい」
傅巽は劉琮に劉備が曹操に対抗できぬなら、荊州(楚)を保つ事は出来ないと述べ、劉備が曹操に対抗出来たとしても、劉備は劉琮の下にいるわけがないと述べたわけです。
劉琮は、さらに蒯越、王粲などに降伏を勧められた事から、曹操が襄陽に到着すると荊州をあげて降伏しました。
劉琮は曹操に青洲刺史を希望し、曹操は劉琮の願いを叶え青州刺史に任命し列侯にしています。
さらに、劉琮配下の蒯越、劉先、韓嵩、鄧義、文聘ら皆が曹操から重用されたわけです。
尚、傅巽は尚書にもなっています。
曹家の為に尽くす
傅巽は曹操の配下となりますが、関内侯に任命されました。
曹操は213年に魏公に就任しますが、魏公に賛同した群臣の中に、傅巽の名前も見えます。
曹丕が文帝として皇帝になった時にも、傅巽が賛同した話があります。
傅巽は曹操に降伏してからは、曹家の権勢が上がる様に協力したと言うべきでしょう。
尚、曹操への魏公就任を受諾する様に要請したメンバーは下記の通りです。
何夔に警告
正史三国志の何夔伝の注釈(魏書)に、傅巽が何夔を諫めた話があります。
何夔伝によれば、丁儀の兄弟が重用され目を掛けられますが、何夔と丁儀の仲はよくはありませんでした。
当時、尚書をしていた傅巽は何夔に対し、次の様に述べた話があります。
傅巽「丁儀は貴方(何夔)の事を酷く憎んでいます。
貴方と毛玠は親交を結んでいますが、毛玠は丁儀により、既に酷い目にあっています。
何夔殿は少し、丁儀を立てて上げて方がよいのではないでしょうか。」
これに対し、何夔は次の様に述べています。
何夔「道義に外れた行いをすれば、我が身を損なうのは目に見えています。
どうして、他人を損なう事が出来ましょうか。
さらに、邪な考えがあり、朝廷の席にいれば長持ちするはずもありません」
傅巽は何夔に丁儀と親交を結ぶ様に述べましたが、何夔は丁儀が自滅すると述べたわけです。
丁儀は曹植に近しい人物であり、曹操も曹植を可愛がりましたが、曹操の後継者には賈詡の進言もあり、曹丕を太子に指名しています。
曹丕が後継者になると、丁儀は処刑されました。
結果を見れば、何夔の言葉が的中したと言えるでしょう。
ただし、曹操が後継者に曹植を選んでいたとしたら、丁儀は朝廷で幅を利かせ、傅巽の言った言葉が正しかった事になったはずです。
蘇則を庇う
これにより後漢王朝は滅亡しますが、正史三国志の蘇則伝によれば、曹植や蘇則が涙を流した話があります。
曹丕は後漢王朝の滅亡を聞いて、曹植が涙を流した話は聞いていましたが、蘇則が涙を流した話は耳に入ってはいませんでした。
曹丕は傅巽や蘇則がいる前で「儂は天命により禅譲を受けたのだが、大声をあげ泣いた奴がいるそうだが、なぜだろうか」と問います。
蘇則は「曹丕が自分の事を言っているのだ」と考え、論理正しく弁明しようとしました。
この時に、傅巽が気付き、蘇則に次の様に耳打ちしています。
傅巽「君の事を言っているのではないぞ」
傅巽の言葉を聞いた蘇則は弁明するのをやめた話があります。
傅巽は見事に蘇則を助けたと言えるでしょう。
因みに、魏書の注釈では、蘇則が弁明しようとした所で、傅巽が目配せの合図を行い助けた事になっています。
どちらにしろ、傅巽が蘇則を救った事は間違いないのでしょう。
傅巽の能力値
三国志14 | 統率14 | 武力10 | 知力69 | 政治71 | 魅力45 |