陳就は江夏太守である黄祖配下の武将です。
208年に勃発した孫権と黄祖の夏口の戦いでは、黄祖配下として参戦し、水軍の都督になった話があります。
陳就に対し、呉では呂蒙を先陣として戦わせました。
陳就は呂蒙と戦闘になりますが、呂蒙に討ち取られた話があります。
陳就が討ち取れらた事を知ると、黄祖は戦意を失くした話があり、黄祖は陳就の武勇を高く買っていたのでしょう。
黄祖は劉表の配下となりますが、記録に残っていないだけで、黄祖配下として数多くの功績を残した可能性もあります。
今回は正史三国志にも登場し、実在したであろう武将である陳就を解説します。
水軍の都督となる
江夏太守の黄祖は西暦207年に、鄧龍に命じ柴桑に侵入させました。
しかし、鄧龍は周瑜や孫瑜に敗れ捕虜となります。
江夏太守の黄祖は孫権や孫策の父親である孫堅の仇でもあり、西暦208年になると黄祖を滅ぼすべく攻めて来たわけです。
ここにおいて夏口の戦いが勃発します
孫権陣営が動いた事を知ると、黄祖は陳就を水軍の都督に任命し迎撃させる事にしました。
三國志演義では陳就は鄧龍と共に出撃した事になっていますが、史実では既に鄧龍は先の戦いで捕虜となり、呉に護送された話があります。
それらを考えると、史実の歴史では陳就と鄧龍は一緒に出撃をしたわけではないのでしょう。
尚、陳就は黄祖軍の水軍を指揮しましたが、黄祖軍に陸軍の都督は甘寧とも関係がある蘇飛だったと思われます。
蘇飛も陳就と同様に、黄祖の都督だった記載があるからです。
陳就の最後
陳就が水軍の都督となった呉軍と戦いのですが、先陣の張碩が淩統に斬られるなど苦しいスタートとなります。
さらに董襲の決死の襲撃もあり、陳就の軍と呂蒙の軍がぶつかる事となります。
陳就と呂蒙の戦いは、正史三国志の呂蒙伝に記述があり、史実だと考えられるはずです。
正史三国志によれば、下記の記述が存在します。
「呂蒙は先陣となり、自ら陳就の斬首した。呉の将兵は勝ちに乗じて黄祖の城に攻めかかった。」
正史三国志には簡略な記述しかありませんが、陳就が呂蒙に討たれた事が分かります。
ただし、正史三国志の記述からは、どの様にして陳就が呂蒙に討たれたのかは不明です。
陳就が斬られた影響
正史三国志によれば、陳就が亡くなった事を聞いた黄祖は、城を棄てて逃亡したとあります。
これを考えると、黄祖にとって陳就が如何に大きかったかが分かるはずです。
陳就は黄祖陣営にとって1,2を争う程の武勇を誇り、黄祖も多いに認めていたのでしょう。
黄祖の期待が大きかった陳就が呆気なく呂蒙に斬られた事で、黄祖の衝撃も大きかったはずです。
黄祖は逃亡しますが、結局は呉軍の騎兵である馮則により、最後を迎える事となりました。
黄祖討伐が終わると、孫権は呂蒙に対して、次の様に述べた話があります。
孫権「黄祖討伐が上手く行ったのは、陳就を真っ先に始末する事が出来たからだ」
孫権の言葉からも、陳就の名が呉まで鳴り響いていた事が分かるはずです。
孫権は陳就を討った呂蒙を高く評価し、横野中郎将に任じ、銭千万を賜わった話があります。
個人的な意見なのですが、陳就は袁紹軍でいう所の顔良や文醜に近い様な武力一辺倒の軍人かなとも感じました。
陳就の能力値
三国志14 | 統率58 | 武力65 | 知力32 | 政治28 | 魅力35 |