文醜と言えば、三国志の袁紹軍の中では顔良と並ぶ猛将として期待されていた人物です。
三国志演義などでは、洛陽にいて献帝を擁する董卓に対して、反董卓連合軍が結成された事がありました。
その時に、連合軍の名だたる名将が華雄の前に、歯が立たずに次々に討たれてしまったわけです。
この時に、袁紹は思わず「顔良と文醜を連れてくればよかった」と嘆いた事で有名になっています。
しかし、官渡の戦いでも顔良が討たれた後に奮戦しますが、結局は関羽に斬られてしまうわけです。
文醜の実績を考えてみると、関羽に討たれた位しか印象が無いかと思います。
そこで、今回は文醜の史実での実績を調べてみました。
あと、「文醜=ブサメン」という説もありますが、そこも名誉挽回したいと考えた次第です。
ちなみに、上記の画像は横山光輝さんの漫画三国志の文醜ですが、とてもイケメンとは呼べませんよね・・・。
正史にブサメンだとする記述はない
文醜ですが、陳寿が書いた正史三国志によれば「ブサメン」だという記述はありません。
もちろん、裴松之の注であっても、外見に関する記述はないわけです。
なぜ文醜がブサメンにされてしまうかと言えば、袁紹軍のナンバーワンの猛将とされる顔良がいるからでしょう。
顔良という名前が「かおヨシ!」と読める為に、「顔良=イケメン」というイメージが付いてしまったからではないかと思います。
それに対して、相棒みたいな感じの文醜は、三国志演義の著者である羅貫中が対になるように「ブサメン設定」にしてしまったと思われます。
ちなみに、三国志演義では文醜が獬豸(かいち)と呼ばれている、伝説の化け物のような容貌だったとする記述があります。
もはや文醜の外見は人間ではなくなっているわけです。
しかし、文醜がブサメンだという話は正史三国志にはないので、羅貫中の捏造とも言えるでしょう。
尚、文醜は名前が「醜(みにくい)」という文字を使っているため、親がこんな名前を付けるのか?と考える人もいます。
さらに、顔良が「かおよし」の為、出来過ぎていると考えて文醜や顔良は架空の人物だと考える人もいるようです。
しかし、顔良も文醜もちゃんと正史三国志に記述があります。
当時の中国人の感覚は分かりませんが、たまに変な名前を付ける場合があるわけです。
西周王朝末期や東周王朝初期に活躍した晋の文侯の名前は「仇」となっています。
姫が苗字で「仇(かたき)」が名前です。
このように親は何を考えているんだろう?と考えてしまうような事も起きているわけです。
ちなみに、晋の文侯は名前は「仇」ですが、名君であり周が平王派と携王派に分かれた時は、平王のグループに属し携王を滅ぼしています。
ただし、晋の文侯の子孫は、弟である成師の子孫に滅ぼされているわけです。
それを考えると、名前というのは、どこか因果があるような気がしてなりません。
話を戻しますが、文醜がブサメンだとする記述は、正史の記述にはどこにもないわけです。
これで、文醜の名誉挽回の大半は終わったと言えるでしょう。
関羽に斬られてはいない
文醜ですが、三国志演義の世界では関羽に斬られた事になっています。
文醜は、兄貴分である顔良が関羽に討たれてしまった事で、復讐に燃えていたわけです。
曹操軍を蹴散らしてある程度は、善戦をしますが、結局は関羽に簡単に斬られてしまいます。
単なる関羽の引き立て役としてのイメージが強いです。
ただし、三国志演義には顔良にないような活躍があります。
公孫瓚と袁紹が戦った時に、文醜は趙雲と一騎打ちになっているわけです。
趙雲と言えば、関羽・張飛・馬超・黄忠などと蜀の五虎将軍として活躍していますし、長坂の戦いでも一騎掛けをしたりと大活躍している武将です。
その趙雲と互角に渡り合っているわけです。
さらに、官渡の戦いにおいても、曹操軍の猛将として名高い張遼や徐晃を追い払ったりと、凄まじい活躍を見せています。
しかし、なぜか関羽が現れると簡単に敵わないと思って逃げた所を、討たれてしまうわけですが・・・。
名誉挽回するとすれば、文醜は、張遼や徐晃などと戦っているわけで、関羽と戦う頃にはHP(体力)が1のヘロヘロ状態だったのではないでしょうか?
趙雲と互角に一騎打ちが出来るのであれば、体力がMAXの時ならば関羽とも互角にわたり合う事が出来るでしょう。
尚、戦いには相性があり、じゃんけんで例えると、関羽はじゃんけんの「ぐー」で、趙雲と文醜は「ちょき」だったのかも知れません。
これは勝手な想像になるのですが・・・。
文醜の強さに関しては、これで名誉挽回と思うかも知れません。
しかし、趙雲と互角に戦った事や張遼や徐晃を退けたのは、三国志演義にしかありません。
正史には、そのような記述がないので、名誉挽回したかと言えば、微妙さが残ります・・・。
文醜の正史での活躍
文醜の正史での活躍を見ていきたいと思います。
官渡の戦いの前では、孔融が武勇に優れていると言う評価を顔良と共にされているわけです。
ただし、孔融は禰衡のような悪口大魔王?的な人物を評価したり、太史慈の詐欺的行為を評価しています。
陳寿からは、奇妙な人材を好んだような事まで書かれているわけです。
そのため「武勇に優れている」と孔融に評価されても、微妙と言えば微妙といえるでしょう。
しかし、誰からも評価されないよりはいいかなと感じています。
尚、文醜は官渡の戦いで出陣した事は正史にも記録があり間違いないでしょう。
劉備と共に出陣している
正史の文醜ですが、顔良が討たれた後に、袁紹の命令により出撃しています。
劉備と文醜の二人が曹操軍と対決する事になったわけです。
曹操軍の荀攸が策を立てます。
輜重隊を囮(おとり)にして、文醜が襲い掛かって来たところで、攻撃を仕掛ければ文醜を討ち取る事が出来ると言うわけです。
輜重隊と言うのは、輸送部隊の事で食料や軍馬などの軍需物資を輸送する兵站の役割をします。
輜重隊に対して、文醜が略奪を始めたところで、攻撃を仕掛けようという作戦です。
この作戦に対して、劉備は曹操の用兵の上手さを知っているため、迂闊に手を出しませんでした。
しかし、文醜は輜重隊を見つけると、すぐさま攻撃を初めてしまいます。
それにより曹操が騎兵を率いて攻撃を掛け、文醜を見事に討ち取っているわけです。
官渡の戦いの前に、荀彧は曹操に「文醜は匹夫の勇しかないから、一戦で討ち取れる」と言いましたが、その通りになってしまいました。
これを見てお分かりだと思いますが、文醜は正史三国志では、活躍が特に記載がないわけです。
ただ単に、荀攸の策に引っ掛かり命を落とした事だけが書かれています。
ただし、文醜は秦の白起や蒙恬くらい袁紹は期待していたという話もあるので、公孫瓚との戦いにおいては絶大なる功績を挙げたのかも知れません。
記載がないので分かりませんが・・・。
春秋左氏伝に似たような話がある
文醜は、輸送部隊の罠に気が付かずに戦死したわけですが、似たような話が春秋左氏伝にもありました。
春秋時代初期のお話なのですが、楚の武王が絞を攻めた時のお話です。
楚の武王は、絞をどのように攻めればいいか悩んでいました。
すると、家臣である屈瑕が進言します
「絞の人間は軽率ですから、芝刈りの囮(おとり)を出せば、我先にと芝刈りの人夫を追い回すでしょう。そこを攻撃を掛ければ勝利する事が出来ます」
楚の武王は、絞の城の周りの芝刈りを命じます。
これを見た絞の人間は、人夫に攻撃を掛けて30人を捕らえて、意気揚々と城に戻ったわけです。
翌日も同じことをすると、またもや人夫を捕らえる事に成功します。
これを数日続けると、芝刈りの人夫が現れると、絞の人間は我さきにと夢中になって人夫を追いかけまわしたわけです。
しかし、ここで楚の伏兵が現れて攻撃を掛けると、慌てて城に戻ろうとしますが、結局、絞は楚に大敗していしまいます。
絞は楚に降伏して盟下に入ったわけです。
囮に夢中になっている間に、攻撃を掛けて大敗するやり方は、曹操が実行する遥か昔から行われています。
軽率と呼ばれた絞の人間でさえ、囮に引っ掛かるのに何回か回数が必要だったわけです。
それに比べると、わずか1回で囮に引っ掛かってしまう文醜ってどこまで単純なの?と思ってしまいました。
そこが文醜の良い所なのかも知れませんが・・。
文醜の主君が孫権だったら?
文醜は袁紹に仕えたわけです。
しかし、孫権に仕えたらどうだったか?という事を考えてみました。
文醜と孫権と言うと、まるで接点がないようにも見えます。
しかし、孫権は武辺一辺倒だった呂蒙や蒋欽を知将に変えた実績があるわけです。
孫権であれば文醜に対して、読書をする事を勧めて「春秋左氏伝」を読む事をお勧めしたのかも知れないわけです。
これが何を意味しているかと言えば「囮」に引っ掛からない事を意味します。
春秋左氏伝の武王が絞を攻めたやり方を知ってれば、軽率に動く事はなかったのかも知れません。
これを考えれば、武将であっても読書はしておいた方がよいのかな?と思えてしまうわけです。
腕力が強いだけではなく、賢さも必要だと思いました。