その他 三国志

劉磐(りゅうはん)は勇猛で知れ渡った人物

2022年3月20日

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名前劉磐(りゅうはん)
生没年不明
時代後漢末期
勢力劉表
コメント勇猛な人物だった記録がある
画像三国志14(能力値は最下部)

劉磐は正史三国志に劉表の従子だとする記述があります。

それらの記述から劉磐は劉表の一族であり劉琦劉琮、劉脩、劉虎などは、従弟になるのでしょう。

劉磐は正史三国志の太史慈伝や黄忠伝に記録があり、長沙を守備する勇猛な人物だった事が分かっています。

具体的な武勇などの逸話は記載されていませんが、当時の長沙の近辺では名が通っていたのでしょう。

劉表配下と言えば、江夏太守の黄祖が有名ですが、劉磐も劉表の一族として長沙を守り、黄祖や陳就文聘くらいの戦上手としての定評があった様に思います。

今回は正史三国志に登場し、実在したであろう人物である劉磐を解説します。

尚、劉磐は三国志演義にも黄忠と共に登場するシーンがあります。

黄忠の武勇は劉磐譲りだった可能性もあるでしょう。

太史慈との戦い

勇猛で名が知れた人物

劉磐の名は正史三国志の太史慈伝に見られ、次の記述が存在します。

「劉表の従子である劉磐は勇猛であり、何度も艾・西安などの県を攻撃し荒らしまわっていた」

上記の記述から、劉磐は武芸を得意とした勇猛な人物であり、何度も呉の領地を荒しまわっていた事が分かります。

劉磐も己の武勇を頼りに、呉の領地から略奪などを行っていたのでしょう。

当時の呉は孫策の時代であり、孫策は太史慈に海昬や建昌に近い六県を割き与え、建昌都尉に任命しました。

太史慈は過去に劉繇の武将でしたが、孫策と一騎打ちを史実でも繰り広げ、孫策から高い評価を得ていた武将です。

孫策が太史慈を劉磐にぶつけてくる辺りは、孫策が如何にして劉磐に頭を悩ませていたかが、分かる様な気がします。

侵攻を控える様になる

太史慈は孫策から建昌都尉に任命されると、海昬を本拠地にした話があります。

これにより、劉磐と太史慈が対峙する事になったわけです。

劉磐は太史慈が建昌都尉になった後も、呉の領地を荒そうと侵攻しました。

しかし、太史慈がよく守り、劉磐は侵攻を食い止められた話があります。

劉磐は太史慈が手ごわいと判断すると、姿をひそめ呉への侵入を控える様になった話があります。

世間一般的には太史慈の有能さを示す逸話となっていますが、相手が手ごわいと判断すれば「戦わない判断」をした劉磐も賢明だと言えるでしょう。

西暦200年に孫策は暗殺されてしまいますが、後継者となった孫権は太史慈を引き続き、劉磐の備えとして配置した話があります。

孫権の中では、劉磐は手ごわく太史慈でないと、抑える事が出来ないと判断したのかも知れません。

尚、太史慈は西暦206年に亡くなりますが、太史慈が亡くなった後に、劉磐が呉への攻撃を行ったのかは不明です。

黄忠と長沙を守る

正史三国志の黄忠伝に、下記の記述があります。

「荊州牧の劉表は、黄忠を中郎将に任命し、劉表の従子の劉磐と共に長沙の攸県を守らせた」

上記の記述から、劉表が一族の劉磐と黄忠にタッグを組ませ、攸県を守備させた事が分かります。

劉磐が劉表の一族である事から、劉磐の部下に黄忠を配置したと言う事なのでしょう。

尚、劉磐と黄忠が、どこで功績を挙げたのか?などに関しては、記載がなく分からない状態です。

もしかしてですが、劉磐と黄忠の二将で、呉の領地を荒しまわっていたのかも知れません。

そして、孫策が太史慈を出して来た所で、劉磐も黄忠も呉への侵攻を止めた可能性もあるでしょう。

三國志演義では、劉磐が黄忠の推挙により劉備に仕え、長沙太守になった話がありますが、正史三国志を見る限りでは、その様な記述は存在しません。

劉磐が劉表よりも長く生きたのかも分からない状態です。

劉磐の能力値

三国志14統率68武力78知力47政治43魅力53

この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

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