楊弘は袁術配下の武将であり、正史三国志の孫策伝に名前が登場する人物です。
楊弘の正史三国志の記述としては、袁術の死後に、孫策の元に向かうも、劉勲の捕虜になった事くらいしか記述がありません。
しかし、三国志演義では楊大将なる人物が登場し、楊弘がモデルとされています。
三國志演義では楊弘が、楊大将なる名前になった由来などは、明らかにされていません。
今回は正史三国志にも一回しか名前が挙がらず、不明な点が多い楊弘の解説をします。
尚、三国志演義の楊大将に関しては、別ページで紹介する事とします。
袁術の死
西暦197年に袁術は閻象の反対がありながらも、張炯の説を採用し仲王朝を開きました。
この時点で袁術は僭称と言われながらも、皇帝となったわけです。
袁術が皇帝となり仲王朝を設立するのに、楊弘がどの様な立場を取ったのかは記録がなく分かっていません。
しかし、ここからが袁術の転落の始まりであり、呂布や劉備との戦いで苦戦を強いられ、曹操に敗れるなどもありました。
こうしている内に袁術の勢力は弱体化し、袁術自身も袁紹と合流しようとしますが、199年に亡くなっています。
正史三国志の注釈・江表伝の記述によれば、袁術の棺を袁胤や黄猗が担ぎ、劉勲を頼ったとありますが、正史三国志には次の記述があります。
「袁術が亡くなると、長史であった楊弘や大将の張勲らは、部下を引き連れて孫策の元に身を寄せようとした」
上記が楊弘における正史三国志の記述です。
これを考えると、旧袁術軍には袁胤や黄猗の様に劉勲を頼ろうとする者もいれば、楊弘や張勲の様に孫策を頼ろうとした者がいたのかも知れません。
お分かりかと思いますが、正史三国志には袁術の死後に楊弘が張勲と共に、孫策に身を寄せたとする記述以外にはないわけです。
袁術配下の橋蕤や張勲が孫策を高く評価していた話があり、楊弘も孫策を高く評価し、張勲と共に孫策の元に向かった様にも感じました。
楊弘が捕らえられる
楊弘や張勲は、孫策の元を目指しますが、劉勲が待ち構えていました。
劉勲は楊弘や張勲の情報を、袁胤や黄猗らから得ていたのかも知れません。
この後に、劉勲の勢力は食糧不足に陥った事実があり、楊弘らから食料を奪いたかった可能性もあるでしょう。
劉勲に襲撃された楊弘らに対し、次の記述が存在します。
「みなこれを捕虜とし、珍宝を奪い取り引き上げた」
劉勲の襲撃により、楊弘らは身ぐるみを剥がされてしまったのでしょう。
この後に、楊弘が劉勲により連れ去られてしまったのかは、記述が無く不明です。
後に孫策は周瑜と共に劉勲を破り大喬、小橋の美女だけではなく、旧袁術軍を配下に組み込んだ話があります。
楊弘と行動を共にした張勲は、劉勲が孫策に敗れた後に、北方に行き曹操に仕えた話(※)があります。
※ちくま学芸文庫では張勲となっているが、正史三国志の原文からすれば劉勲であり、張勲のその後の同行は不明
しかし、楊弘に関しての記録はなく、どうなったのかは不明です。
楊弘は孫策か曹操のどちらかに仕えた可能性もある様に思いました。
ただし、記録がなくはっきりとしません。
楊弘がいつ亡くなったのかも不明です。
劉勲に襲撃された時に、亡くなってしまった可能性もあるでしょう。
楊弘の能力値
三国志14 | 統率23 | 武力15 | 知力76 | 政治60 | 魅力48 |