騰(とう)はキングダムでも独特な風貌があり魅力的に描かれています。
特に髭はチャームポイントだと個人的には思っています。
当り前ですが、史実の騰が「ファルファル」口ずさんでいたなども記録もありません。
あくまでも漫画内の脚色だと思った方がよいでしょう。
今回は、騰の史実での活躍を紹介します。
尚、騰と言うのは姓なのか名なのかもはっきりしません。
史実では功績の記録も少なくよく分からない事が多いです。
史記では内史騰と書かれていて、わずかな記録しか残っていません。
ただし、最後は左遷された説もあります・・。
新資料である睡虎地秦簡(すいこちしんかん)内の騰の記述と合わせて解説します。
尚、騰の最後は、どの様になったのかは記録がなく不明です。
秦の統一後に蒙恬が内史になっている事を考慮すると、騰は秦の天下統一前に亡くなった可能性もあるでしょう。
キングダムの騰の活躍は虚構
キングダムだと騰は大活躍しています。
キングダムでは6大将軍の生き残りともいえる王騎の副官という設定です。
さらに、王騎が死ぬと王騎の軍勢を引き継いでいます。
李牧や春申君が合従軍を画策した函谷関の戦いでは、楚将である臨武君を討ち取るなど圧倒的な強さをみせているわけです。
他にも、奢雍(ちょよう)の戦いで功績を挙げた事で大将軍に任命されていますが、騰が将軍に任命された記述も史実にはないのです。
ただし、騰は戦国七雄の韓を滅ぼした記述が史記にあるので、物語的に面白く構成するために、騰は大将軍に任命されたのかも知れません。
因みに、キングダムでは秦の将軍の中でも最高位であり戦争の自由が与えられる六大将軍にも騰は任命されています。
この記事を書いている時点では、秦の六代将軍の最後の一席は空席となっています。
史実の騰は文官だった?
史記などにはわずかではありますが、騰の記録があるわけです。
そこには「内史騰」と書かれています。
内史というのは、苗字ではなく周の時代からある官位の一つです。
内史は一般的には首都近郊の県を統治する役職となっています。
それを考えると内史は文官にも感じますが、秦が戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一後に蒙恬が内史の役職に就任しています。
蒙恬は万里の長城を建設したり、軍事力を発揮し北方の匈奴を駆逐した事を考えると根っからの文官でもなく軍事も兼任していたはずです。
尚、秦の統一後に蒙恬が始皇帝に重用されて内史になった事を考えると、騰は秦の中でもかなりの高位にいたのではないかと思われます。
騰が韓を滅ぼす
騰の史実の実績ですが、紀元前231年に韓は南陽の地を秦に割譲しています。
南陽において仮の太守となったのが騰です。
ここで初めて歴史上に騰が登場します。
南陽というには、現在では河南省に位置します。
韓の首都である新鄭も河南省にある事から、秦は韓の土地の大部分を切り取ってしまい韓は滅亡寸前だと言う事がわかります。
翌年の紀元前230年に騰は韓を攻めて新鄭を陥落させる事に成功しました。
これにより韓は滅亡したわけです。
戦国七雄の最初の国を滅ぼしたのは騰の功績と言えます。
騰は名将と呼べるのか?
騰はキングダムでは明らかに功績も上げていて実績もあります。
しかし、史実では名将とは呼べないのではないかと個人的には思うわけです。
当時の韓ですが、秦にかなり圧迫されていて弱体化していました。
騰が韓を滅ぼす前年に南陽の地を割譲しています。
南陽は現在の河南省にありますが、韓の首都である新鄭も河南省にあるわけです。
これは韓が首都の近郊まで秦に領土を奪われてしまった事を指しています。
さらに、韓は秦の属国のような扱いだったわけですが、秦に奉仕するお金がなくて、後宮の女性を秦に売り、そのお金で秦に奉仕したという話まで残っているのです。
韓は国にも関わらず、後宮の女性もほとんどいないという既に、国として終わっているような状態です。
秦は既に天下の半分は手中に収めていますし、韓とは国力が20倍以上離れている事になります。
さらに、韓の公子である韓非子は紀元前233年に亡くなっていますので、ブレーンもいない状態です。
この滅亡寸前の韓を滅ぼしたと言っても名将は言えないのではないでしょうか?
私が勝手に思っているのですが、韓は余りにも弱体化していたので、将軍を送るまでもないと判断された事で騰が討伐軍の将に選ばれたのではないかと考えています。
ちなみに、騰は韓を滅ぼしたのを最後に史記からは消えてしまいます。
この後に、どんな功績があったのかもよく分かりません。
私は王賁も名将と呼ぶには史実でインパクトが薄いとお話ししたのですが、それ以上に騰はインパクトがありません。
そのため良将ではあるかも知れませんが、名将とは呼べないと考えています。
キングダムの大将軍に選ばれたシーンを騰が見たら「俺、大将軍になるほど活躍してねえよ・・・。」となるのではないかと思います・・・。
記録に残らない功績があるのかも知れませんが、白起、王翦、蒙恬らと肩を並べる事は出来ませんし、秦末期の名将である章邯と比べても将才があったのかは未知数です。
騰は最後に左遷されていた?
1975年に中国で睡虎地秦簡という秦の記録が残っています。
睡虎地秦簡は秦の時代に記録された貴重な一次資料です。
秦の官吏だった喜という人物の所有物だとされています。
そこの語書に南郡の郡守として騰の名前が記録されています。
ただし、韓を滅ぼした内史騰と睡虎地秦簡に書かれた騰が同一人物かどうかは分かりません。
尚、秦の南郡というのは、秦の昭王の時代に白起を使い楚の都を陥落させました。
その時に、占領した郢の地に秦は南郡においたわけです。
韓の首都新鄭は交通の要所でもありますし、中原の真ん中に位置する重要な都市です。
新鄭は魏や趙を滅ぼすのにも重要な都市なわけですから、旧楚都に移されたと言っても左遷とも取れるわけです。
史実の騰は何らかの原因により左遷された可能性もあります。
尚、睡虎地秦簡によれば紀元前227年に騰は、楚の風習を改めようとし、秦の法令を徹底させようとした話があります。
想像になりますが、騰が楚の旧都である郢で過酷な治世を行い郢で民衆が不穏な動きを見せ、郢の人々の不満をそらす為に秦の首脳部は楚の王族に一人である昌平君を郢に向かわせた可能性も残っています。
ただし、後述しますが昌平君は出奔した説もありますし、真実は不明です。
騰と韓の反乱について
ここから先は史書には載っていない事なので、想像も入る話をします。
韓は紀元前230年に滅びるわけですが、紀元前226年に新鄭において韓の元貴族たちが大規模な反乱を起こしています。
もしかしてですが、騰は韓を滅ぼした後に韓の地の統治を命じられたが、失敗して大規模な反乱が起きてしまった。
その結果、左遷されて南郡に移された可能性もあるでしょう。
それか、大規模な反乱軍に不意を突かれて命を落としたのかも知れません。
これらはあくまで想像に過ぎませんが、同じ年に昌文君は死んでいますし、昌平君も秦を出奔して去っています(郢に移っただけの説もある)。
それらとも騰は関係しているのかも知れません。
尚、昌平君は楚の項燕に擁立され最後の楚王となり、秦と戦いますが、昌平君が秦から出奔するきっかけを騰が作った可能性もあります。
ただし、これらは想像の域を出ず先にも述べた様に真実は闇の中です。
騰や昌平君に関しては、新たなる資料の登場を待ちたい所だと感じております。