室町時代

足利直冬は幕府分裂を戦い生き抜いた

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宮下悠史

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名前足利直冬
生没年1327年?~1400年?
時代鎌倉時代、南北朝時代、室町時代
一族父:足利尊氏 母:越前局 義父:直義 
異母弟:義詮、基氏 子:冬氏など
年表1348年 紀伊征伐
1349年 長門探題就任
1351年 鎮西探題就任
1355年 東寺合戦
コメント足利尊氏の子にして最後の相手

足利直冬は足利尊氏の子であり、後に足利直義の養子となった人物です。

足利直冬は足利尊氏の最後の敵とも呼べる人物でもあります。

一般的には足利尊氏は足利直冬を嫌っており、足利直冬も尊氏との戦いを選択したとされていますが、尊氏が直冬を冷遇した記録が太平記にしかありません。

近年の研究では、尊氏はそれほど直冬の事を嫌ってはおらず、直冬も足利尊氏と敵対する意思はなかったのではないかとも考えられる様になってきました。

ただし、直冬と尊氏の間にすれ違いはあり、さらに武士たちの欲望も重なり最終的に戦いになったのではないかとも考えられる様になってきたわけです。

尚、松井優征先生が描く北条時行を主人公とした『逃げ上手の若君』なる漫画やアニメがありますが、この中で吹雪なる人物がおり正体は足利直冬だとする説がありました。

しかし、逃げ若の内容が進むにつれて、吹雪と足利直冬の同一人物説は、現在では考えられなくなってきています。

足利直冬のゆっくり解説動画も作成してあり、記事の最下部から読む事が出来ます。

謎の半生

足利直冬は足利尊氏が若い頃に関係を持った越前局なる女生との間に出来た子だとされています。

直冬の母親である越前局は謎の女性であり、素性も良く分かっていません。

足利直冬は1327年に生まれたと考えられており、足利義詮よりも年齢は三つ程上だと考えられています。

足利直冬は尊氏の母親である上杉清子からも可愛がられていた話もありますが、尊氏は認知しなかったともされています。

尊氏の正室である赤橋登子は我が子である義詮や基氏を可愛がり、直冬を讒言した事で尊氏は直冬を嫌っていたとする説もあります。

幼少期は鎌倉の東勝寺で過ごし、1333年の鎌倉幕府の滅亡では、上手く鎌倉を抜け出す事が出来たのではないかと考えられているわけです。

貞和年間に直冬は尊氏との対面を望みますが、尊氏は許しませんでした。

足利直義は直冬を不憫に思い自らの養子にしています。

尚、尊氏は弟の直義と苦楽を共にし、愛着があった事も分かっており、そもそも尊氏が本気で直冬を嫌っているのであれば、直義への養子を許さなかったのではないかとする見解もあります。

紀伊征伐

1348年の正月に高師直が四条畷の戦いで、楠木正行の軍を破り吉野を焼き払うなど南朝に大打撃を与えました。

これにより室町幕府内で高師直の権勢が高まりました。

当時の幕府の実質的な権力者は足利直義でしたが、高師直は直義の存在を脅かす程になってきたわけです。

こうした中で紀伊で叛乱が勃発し、足利直義は討伐軍の大将として直冬を指名しました。

高師直が南朝の総本山を焼き討ちするなどもあり、北朝に勢いが増し南朝が苦しい状況の中で、直冬を総大将にしたと言えます。

足利直義としては、自分の養子である直冬には最高の状態で初陣を飾らせ、高師直への牽制としておきたかった思惑があったとも考えられています。

足利直義が自ら後方支援を行い直冬は出陣しました。

直冬は西国の武士たちを引き連れて紀伊に向かう事になります。

ここで直冬は「両方の死人その数知らず」と言われる程の激戦を制し、阿瀬河城を陥落させ帰京する事になります。

足利直冬は紀伊の反乱を鎮圧し、功績を挙げたと言えるでしょう。

尊氏は本当に直冬を嫌っていたのか

足利尊氏が直冬を嫌っていたとされる逸話の一つに、紀伊征伐で活躍した足利直冬を喜ばなかった話があります。

尊氏邸への出入りは渋々許した様な話しもありますが、尊氏は直冬への扱いが冷淡だったとも伝わっています。

太平記では足利一門の中でも家格が低い細川や仁木らと同等の扱いをした事も書かれており、直冬を足利一門の末端の扱いしかしなかったと言うものです。

ここでポイントになって来るのが、細川、仁木と直冬を同列にしたという部分でしょう。

当時の細川や仁木は室町幕府の中で重用されており、斯波氏や吉良氏に続く家格を持っていました。

細川や仁木の多くの人物が幕府内の主要なポストに就任しており、直冬も幕府の主要人物になったと考える事が出来ます。

これらの事を考えれば、足利尊氏は決して直冬を冷遇したわけではないと見る事が出来るわけです。

長門探題就任

足利直冬は紀伊征伐の翌年である1349年には中国地方の八カ国を管轄する長門探題に就任しました。

直冬の長門探題就任は、鎌倉府の足利義詮のポストに比肩する程の役目であり、直冬が幕府内で大きな力を持った事も意味するはずです。

長門探題の様な重要なポストに直冬が就任するに辺り、義父の足利直義の後押しがあった事は間違いないでしょう。

それと同時に幕府の征夷大将軍である足利尊氏の許可はあったのではないかとも考えられています。

長門探題の様な大きな権限を持つ組織の長に直冬が就任するのであれば、足利尊氏の承認が必要だと考えられるからです。

直冬は紀伊征伐においての活躍を尊氏にも認められ、幕府内での地位を築き始め中国地方の顔になったとみる事も出来ます。

行き違い

足利直冬は長門探題になりましたが、室町幕府の中では足利直義と高師直の対立が頂点に達しました。

1349年6月に足利直義が高師直の執事の職務を解任しています。

執事を解任された高師直や高師泰は軍勢を率いて足利尊氏と直義がいる将軍御所を包囲する事になります。

ここで足利尊氏が騒動を纏め上げますが、この時に足利直義の出家と高師直の執事職の復帰を認めました。

太平記で高師直を讒言したとされる妙吉が、足利直冬の元に下向した話があり、高師直の排除には足利直冬も関係していたとも考えられています。

足利直冬は兵を集めていましたが、自らが討伐される話を聞くと九州に逃亡しています。

直冬は肥後国で「京都の御命令」と偽り兵を集めますが、尊氏の方では九州の諸将に「直冬には出家を命じた」と通達しました。

京都では足利直義のポジションには鎌倉にいた足利義詮が就任し、足利直義は出家する事になります。

直義の側近である上杉重能、畠山直宗らも配流されています。

これらの一連の出来事を見ると尊氏は直冬も出家させ、幕府内の対立を収めたかったのでしょう。

足利尊氏や高師直は出家した直義に危害を加える様な事は無く、ここで直冬が出家していれば、尊氏は直冬にも危害を加えなかったと考える事が出来ます。

直冬は尊氏や直義の名を使って軍勢を集め続けています。

直冬としては最大の後ろ盾である足利直義が失脚した事で、身の危険を感じ京都に戻る事が出来なかったのでしょう。

九州で奮戦

1350年2月に北朝は貞和から観応に元号を変えました。

しかし、直冬は貞和の元号を使い続けており、足利尊氏や高師直に対し反抗的な態度を取っています。

この時に足利直冬は南朝の懐良親王、幕府の鎮西管領の一色道猷と並び立つ存在であり、九州では三つ巴の戦いを繰り広げる事になります。

足利直冬が最初にターゲットにしたのは、一色道猷であり自ら兵を率いて鹿子木城を攻撃しました。

1350年の9月に少弐頼尚が直冬に味方した事で、一色道猷は戦線を維持する事が出来なくなり、九州を去り長門に向かいました。

直冬は積極的に所領安堵や恩賞を武士たちに与えており、迅速に褒美を与えた事で九州において短期間で勢力を拡大したわけです。

建武の新政は武士たちへの恩賞で失敗した話がありますが、直冬は尊氏の様に武士たちに迅速に恩賞を与えた事で求心力を得たと言えるでしょう。

直冬の幕府への帰順

足利直冬が九州で勢力を拡大すると、近畿にいる足利尊氏は高師直を連れて九州遠征を実行しました。

足利尊氏が京都から離れると、足利直義が密かに京都を脱出し南朝の後村上天皇に降伏しています。

幕府重鎮だった直義の南朝降服は衝撃であり、多くの武士が直義を味方とする結果になりました。

尊氏は備前で九州遠征を断念し、直義派の軍隊と打出浜で戦いとなります。

打出浜の戦いでは直義が大勝し、尊氏と直義の間で和睦が結ばれました。

この時に足利直義の幕政復帰が決まっただけではなく、直冬の鎮西探題への就任も決まりました。

高師直は上杉能憲に殺害され、高師泰も殺害されるなど高家は一気に没落する事になります。

観応の擾乱の前半戦は足利直義の勝利で終わりました。

直冬の方でも観応の元号を使う様になっており、幕府に帰順したのでしょう。

幻に終わった直冬の義詮救援

近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝に鞍替えしたとする話があり、足利義詮が播磨に出陣し、足利尊氏は近江に出陣しました。

この時に尊氏が九州の直冬に書状を発行し「赤松則祐が摂津に攻めて来るので急いで加勢せよ」と足利義詮の救援を命じています。

この文章を見る限りでは、足利尊氏は直冬の事を頼りにしていたとみる事が出来るはずです。

直冬の方でも尊氏の命令に従い義詮を助ける為に配下の川尻幸俊に「将軍(足利尊氏)の命令で出陣するから、肥前国の地頭御家人を動員せよ」と命令した記録があります。

直冬の方では尊氏の命令により、義詮を救う為に軍勢を用意しようと準備したわけです。

しかし、ここで別の思惑が動く事になります。

足利直義は義詮と不和になっており、尊氏と義詮の出陣は自分を挟み撃ちにする為だと思い京都を脱出しました。

足利直義が北陸に移動すると直義派が形成されていく事になります。

直冬は義詮を救う為に九州を出発しますが、足利尊氏は「直冬は直義を助ける為に兵を出した」と誤解しました。

ここで足利尊氏は突如として「直冬を討伐せよ」と命令を出しています。

足利直冬は弟の義詮を救う為に出陣したはずが、一転して謀反人扱いされてしまったわけです。

尊氏は直冬の力を期待しましたが、直義の養子という事もあり、心の底から信じていたわけでもないのでしょう。

九州を追われる

足利直冬は室町幕府の鎮西探題に就任した当初は、南朝の懐良親王との戦いが勃発しました。

しかし、一度は直冬に敗れた一色道猷に「直冬追討命令」が幕府から出されています。

足利直冬は懐良親王の勢力と一色道猷の勢力に挟まれ窮地に立たされました。

直冬は幕府の鎮西探題でしたが、こうなっては鎮西探題の看板が役目を果たさず、九州の武士らは直冬から離れていきます。

さらに、観応の擾乱では足利尊氏が南朝に降伏し、尊氏は東国遠征を行い直義を降伏させています。

直冬は幽閉されてから直ぐに亡くなっており、直冬は幕府内で完全に居場所を失いました。

後ろ盾を失った直冬は九州の戦線を維持する事が出来ず、長門の豊田城に拠点を移す事になります。

降伏を願う

長門に逃れた直冬の心境を知る上での重要な手掛かりが一色範光の書状です。

一色範光の書状によれば「直冬は中国地方に逃れた後に降伏を願い出たが許されなかった」とある。

この頃の直冬の書状を見ると無元号になっている事が分かっています。

北朝では元号が観応から文和に変わっており、南朝では正平が使用されていました。

尊氏への帰順を認められていない直冬が文和の元号を使う訳にも行かず、観応を使い続ければ叛意がある事になり、かといって南朝の正平も使う事が出来なかったのでしょう。

直冬は尊氏との講和を望んでおり、結果として無元号の書状を発行するしかなかったと言えます。

尊氏としても直冬が幕府の一因となったとしても、直義の様に離脱されたりされては困るわけであり、尊氏は観応の擾乱の時に直冬に出家を促したが、拒否された過去もあります。

この時の尊氏は直冬を救おうとして手を差し伸べたにも関わらず、直冬に拒絶されており、直冬を討伐する以外に道は無くなってしまったわけです。

直冬としても幕府との講和が許されない以上は、南朝に帰順するしか道は無かったのでしょう。

尊氏との戦い

足利尊氏との講和も赦されず、長門に戻ってからの直冬は無気力状態だったとも考えられます。

しかし、直冬は足利尊氏の子であり、武士たちにとっても権威でもありました。

直冬に目を付けたのが大内弘世や山名時氏であり、直冬を擁立し幕府と対峙しょうと画策したわけです。

足利直冬は1354年の5月に旧直義派の後押しで上洛を開始しました。

足利尊氏は後継者の足利義詮に命じて直冬を迎撃させ仮に敗れてしまえば、義詮の後継者としての立場が揺らぐ事もあり、自ら軍を指揮して戦う事にしました。

桃井直常や斯波高経、石塔頼房らも直冬に呼応し南朝の楠木正儀も加わる事になります。

足利尊氏は後光厳天皇と共に京都を開けた事で、南朝の軍は京都を制圧する事が出来たわけです。

当然の事ながら、足利尊氏は京都奪還の為に動き、比叡山を経て西坂本に布陣し、鴨川の河原にも出撃しました。

直冬は東寺に行きましたが、全く動かず尊氏が六条・七条河原に出ても戦いは起こらなかったわけです。

足利直冬は無気力状態であり、多くの武士が直冬陣営から離脱し、尊氏に降伏する者すらも現れました。

ただし、直冬陣営と尊氏陣営で戦いが全くなかったわけではなく、多くの死傷者が出る戦いもあった事が分かっています。

多くの死傷者が出た戦いがあった事は事実ですが、直冬が尊氏陣営に攻撃を命じたわけではなく、偶然の遭遇戦により戦いが始まり多くの者が犠牲になったと考えられています。

桃井直常は戒光寺にいましたが、尊氏軍は戒光寺を陥落させました。

戒光寺は直冬の本陣がある東寺のすぐ近くにあるのですが、直冬は救援しなかったわけです。

足利尊氏は直冬との決戦の前に「直冬の諸将は自分が面倒を見てやった者達ばかりである」と勝利を確信していた話がありますが、既に直冬事態に戦意が無かったとも考えられています。

戒光寺が陥落すると尊氏の軍は東寺に突入し、直冬は敗走しました。

文和の東寺合戦は尊氏軍が勝利したわけです。

ただし、尊氏は直冬との戦いで負傷しており、これが元で2か月後に亡くなったとされています。

足利直冬の最後

直冬は一般的には尊氏を憎悪していたと考えられています。

しかし、東寺合戦の直冬を見るに無気力さばかりが目立ち尊氏と戦う意思がある様には一切見えません。

尊氏も何度も無気力さが見えましたが、戦場に立てば勇敢に戦いましたが、直冬は無気力が続いたわけです。

直冬は尊氏と講和がしたいと考え正式に室町幕府の一因になりたいと考えていた可能性も多いにあるでしょう。

太平記に石清水八幡宮に撤退した直冬に「親を害する者に味方する事は出来ない」とする託宣が出た話がありますが、個人的には太平記の創作だった様にも感じています。

尊氏と直冬が戦いになってしまったのは、旧直義派が直冬を無理やり担ぎ上げた事が原因だとみるべきでしょう。

直冬はその後も岩見や安芸で活動を続けますが、目立った様な動きはなく勢いは無くなっていました。

しかし、直冬は尊氏や義詮が亡くなっても生き続けており、亡くなったのは足利義満の時代である1400年だとも伝わっています。

直冬は勢いを失くし権勢とは無縁の様な存在になった事もあり、意外と悠々自適の生活を送っていたのかも知れません。

足利直冬は74歳で没したとも言われており、当時としてはかなり長寿だったとも伝わっています。

足利直冬の動画

足利直冬のゆっくり解説動画となっています。

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