室町時代

伊達行朝は奥州伊達氏の礎を築く

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宮下悠史

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名前伊達行朝(だてゆきとも)
別名伊達行宗
時代南北朝時代
一族父:伊達基宗、子:宗遠、行資、宗政、万寿丸
生没年不明
コメント奥州伊達氏の礎を築いた人物

伊達行朝は伊達氏の礎を築いたとも言われる人物であり南北朝時代の武将です。

建武の新政が始まると陸奥将軍府の重鎮となり北畠顕家を補佐する立場となりました。

奥州軍の第一時上洛の後に北畠顕家は本拠地を多賀城から伊達霊山城に移しており、伊達行朝の信頼度の高さを現わしているのでしょう。

石津の戦いで北畠顕家が戦死すると常陸の伊佐城に入り奮戦しました。

ただし、この辺りから記録が少なくなり分からない部分が多くなります。

伊達行朝は多くの歌も残しており教養も高い人物だと考えられています。

伊達行朝のゆっくり解説動画を作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。

伊達行朝の誕生

伊達行朝の誕生は鎌倉時代の1291年だと考えられています。

後醍醐天皇が生まれたのが1288年だと分かっており、伊達行朝の方が少し年下となります。

鎌倉大地震や永仁の徳政令が伊達行朝の幼少の頃に起きた事件だと言えるでしょう。

伊達氏の系譜に関しては江戸時代の仙台藩主伊達宗村により編纂された『伊達出自正統世次考』があります。

伊達行朝の父親は伊達基宗であり、伊達出自正統世次考では伊達行朝が「伊達行宗」の名で伝わっています。

しかし、同時代の一時資料を見る限りでは、伊達行宗という名前は確認する事が出来ません。

後の伊達家の当主は「宗」の文字が通字となっており、それに合わせて伊達行宗の名が誕生したのではないかとも考えられています。

鎌倉幕府の滅亡

1331年に後醍醐天皇が護良親王と共謀し笠置山で籠城を行いました。

鎌倉幕府では大軍を近畿に差し向けますが、この時に「伊達入道」なる人物がおり、伊達氏は最初は鎌倉幕府に味方していたと考えられています。

伊達入道の正体は不明ですが、伊達行朝とする説や行朝の父親だったのではないかともされています。

伊達入道の記述から伊達氏は鎌倉幕府の主要な御家人だったと考える事が出来るはずです。

伊達行朝は建武の新政において厚遇されており、何処かのタイミングで後醍醐天皇に味方し鎌倉幕府の滅亡に協力したのでしょう。

後に伊達氏と領地争いを繰り広げる結城宗広、親朝、親光ら白河結城氏も朝廷軍に寝返り、鎌倉幕府を滅ぼすのに一役買っています。

ただし、伊達氏及び伊達行朝が鎌倉幕府の滅亡の混乱の中で具体的に、どの様な行動を起こしたのかは不明です。

尚、この頃の伊達行朝は40代位になっており伊達氏の惣領になっていたとも考えられています。

後醍醐天皇は結城氏の惣領に結城宗広を指名した様に、記録が残っていないだけで伊達氏の惣領を伊達行朝にしたとも考えられるわけです。

式評定衆に選ばれる

後醍醐天皇は京都に入ると建武の新政を始めました。

建武政権での地方統治の一環として、北畠顕家を陸奥守とし陸奥将軍府を任せました。

陸奥将軍府は義良親王を権威として北畠顕家が中核となる組織です。

陸奥将軍府では式評定衆があり、その下に引付・諸奉行が設置され奥州小幕府とも呼ばれています。

式評定衆が陸奥将軍府の最高機関であり、8人が選出されましたが、その中に伊達行朝が含まれています。

陸奥将軍府の設立に北畠親房は深く関わっており、式評定衆の人選は北畠親房が考えたのではないかとされています。

伊達行朝が倒幕の戦いにおいて功績が大きかったとされる理由の一つが、陸奥将軍府で厚遇されている事が挙げられるわけです。

名前コメント
冷泉家房北畠氏の縁者
藤原英房北畠氏の縁者
内蔵権頭入道元覚北畠氏の縁者
二階堂行珍元鎌倉幕府官僚
二階堂顕行元鎌倉幕府官僚
結城宗広奥州の武士
結城親朝奥州の武士
伊達行朝奥州の武士

奥州の武士としては結城氏と共に伊達氏が重用されている事が分かるはずです。

尚、伊達行朝は引付の三番にも抜擢された事が分かっています。

伊達氏は奥州では白河結城氏の次に後醍醐天皇からの信任を受けていたとみる事も出来ます。

北畠親房と伊達行朝

先に伊達行朝を奥州将軍府の式評定衆の一人として北畠親房が抜擢したとする話をしました。

そうなると何処かで北畠親房と伊達行朝の接点が必要という事になります。

奥州将軍府が開府される時に北畠親房は北畠顕家の奥州入りに同行しており、その道中で伊達行朝と知り合ったのではないかとする考えもあります。

別の説としては六波羅探題が足利尊氏により陥落した時に、伊達一族の有力武将として伊達行朝がおり北畠親房と面会し意気投合したのではないかともされています。

糠部七戸領

(画像:水土の礎

1334年の7月に伊達行朝は陸奥国糠部七戸内工藤右近将監跡を宛て行われています。

伊達行朝は七戸にある工藤氏の所領を知行地として認められた事になるでしょう。

これが伊達行朝に対する倒幕での活躍による褒美だと考えられています。

糠部は馬の産地でもあり鎌倉時代は得宗家の所領でした。

七戸が伊達行朝の所領だと認められたわけですが、「本主の子孫」を名乗る者により妨害を受けた話があります。

奥州は近畿からは遠く建武政権の命令が行き届かない部分もあったのでしょう。

所領に関する問題は奥州の各地で起きています。

中先代の乱

1335年の7月に信濃で北条時行が諏訪頼重に担がれて挙兵しました。

これが中先代の乱です。

北条時行の影響力は強く奥州にも飛び火する事になります。

奥州は北条得宗家の所領が多くあり、中先代の乱と連動して混乱が拡がりました。

伊達行朝は伊達郡長倉(福島県伊達氏)の合戦で活躍し、褒美として奥州高野郡北の地を宛行われています。

奥州高野郡北の地が後に白河結城氏との間で揉める事になるわけです。

伊達行朝は中先代の乱で奥州の平定に活躍し、北条時行は一時は足利直義を破り鎌倉を占拠しますが、援軍に来た足利尊氏に敗れました。

中先代の乱は足利尊氏により平定されたと言えるでしょう。

奥州軍の上洛

後醍醐天皇は足利尊氏に京都に戻る様に命令しますが、足利尊氏は論功行賞を始めました。

この論功行賞が問題となり、朝敵認定され建武政権では新田義貞を討伐軍として派遣しています。

新田義貞は足利直義を破りますが、援軍に来た足利尊氏に箱根竹の下の戦いで敗れました。

足利尊氏は近畿を転戦しますが、陸奥将軍府の北畠顕家は奥州軍を率いて上洛する事になります。

太平記の記述で、この時の奥州軍の中に「伊達、信夫の者ども」の名前があり、結城宗広南部師行らと共に伊達行朝もいたと考えられています。

後醍醐天皇は比叡山に退去し、足利尊氏に京都を占領させ、後で新田義貞、楠木正成、北畠顕家らが逆襲し勝利を得ました。

足利尊氏は赤松円心の進言により弟の直義や高師直らを連れて九州に退去する事になります。

伊達霊山城

足利尊氏が九州に去った事で奥州軍の武名は天下に知れ渡り北畠顕家らは東北地方に凱旋する事になります。

北畠顕家らが留守の間に奥州では、足利尊氏に靡く諸将が多く出ており、混乱が拡がっていました。

奥州軍は敵と戦いながらの帰路となり、常陸国では相馬氏が守る奥州行方郡小高城を陥落させています。

北畠顕家や伊達行朝らも奮戦しますが、佐竹義篤らにより重要拠点である瓜連城が抜かれてしまいました。

陸奥将軍府の国府は多賀城でしたが、国府を伊達霊山城に移しています。

奥州の混乱を考えれば仙台平野にある多賀城よりも、守りやすい伊達霊山城に本拠地を移した方がよいと判断したのでしょう。

当然ながら伊達霊山城は伊達郡にあり、伊達行朝の本拠地だったと考えられています。

陸奥将軍府では伊達霊山城を本拠地とし、足利尊氏に味方する勢力と戦っていく事になります。

安達郡五百河で伊達や田村の軍勢が足利方と戦っている資料も見つかっています。

奥州軍の再上洛

九州に逃れた足利尊氏少弐頼尚の助力もあり、多々良浜の戦いで勝利しました。

足利尊氏は九州で復活し大軍で近畿に向かい湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を打ち破っています。

足利尊氏は光厳上皇の院宣を獲得しており、弟の光明天皇を即位させています。

後醍醐天皇は足利尊氏に幽閉されますが、脱出し吉野で南朝を開きました。

これにより南北朝時代が始まります。

当時の奥州は混乱していましたが、後醍醐天皇は奥州軍の実力を信じており、再三に及ぶ上洛命令を出しています。

北畠顕家は伊達霊山城を1337年8月11日に出発し近畿を目指す事になります。

この奥州軍の中に伊達行朝、結城宗広南部師行らもいました。

奥州軍の伊達・信夫が下野国の芳賀禅可を攻撃した記録もあり、伊達行朝の活躍もあったのでしょう。

第一時の上洛の時に比べると奥州軍の進軍スピードは遅かったわけですが、鎌倉では斯波家長を破り、青野原の戦いでも勝利を得ています。

高師泰の援軍が到着した事で、奥州軍は京都に攻め込む事は出来ませんでしたが、伊勢を通り吉野を目指す事になります。

鈴鹿関

奥州軍は鈴鹿関を超える事になりますが、この時に伊達行朝が次の歌を詠んでいます。

※南北朝武将列伝(戎光祥出版)61頁より引用

鈴鹿山 いさ関超えて 思ふこと 成りもならすも 神に祈らむ

この歌は新千載集に掲載されており、鈴鹿山を越えた時の伊達行朝の心情を語っているとされています。

伊達行朝は幕府軍を破りはしましたが、この先はどうなるのかがが分からず「神に祈るしかない」という心境だったのでしょう。

奥州軍の中で伊達行朝がどの様な活動をしていたのかは謎が多く、この歌だけが残っている状態です。

伊達行朝は他にも歌を残しており、歌人としての一面もあり教養の戦い人物だった事は間違いありません。

奥州軍は近畿に入りますが、苦難の道が待っており高師直に般若坂の戦いで敗れ、石津の戦いでは総大将の北畠顕家や南部師行が戦死してしまいました。

幕府軍の高師直に敗れてからの伊達行朝の動向は不明ですが、石津の戦いで戦死しなかった事は確かであり、吉野に逃れたと考えられています。

因みに、北畠顕家戦死後の数カ月後には新田義貞も亡くなっており南朝は危機に陥りました。

伊佐城を拠点とする

南朝は危機に立たされますが、ここで結城宗広が親王や南朝の重臣を各地に派遣し地方から挽回する策を提案しました。

南朝は大船団を組織し各地を目指す事になったわけです。

懐良親王らは九州を目指す事になりますが、義良親王、北畠親房、伊達行朝、結城宗広らは奥州を目指す事となりました。

しかし、嵐により大船団が壊滅し何とか北畠親房が常陸に辿り着き小田治久の小田城に入る事になります。

伊達行朝は小田城に北にある伊佐城に入りました。

義良親王や結城宗広は奥州まで辿り着く事が出来ず吉野に戻る事になります。

伊佐城ですが、伊達氏の祖ともされる念西が拠点とした場所であり、伊達行朝の代になっても強い繋がりがあり、伊達行朝は伊佐城を活動拠点にしたのでしょう。

故郷への想い

新拾遺集に伊佐城時代の伊達行朝が読んだとされる歌が掲載されています。

※南北朝武将列伝(戎光祥出版)62頁

かりそめと 思ひし程に つくはねの すそわの田ゐも 住馴にけり

上記の歌は伊達行朝は短期間だけ伊佐城にいるだけだと考えていましたが、予想以上に長くいる事になってしまったとする心情を現わしていると考えられています。

伊達行朝としては本拠地の伊達霊山城を恋しくも思ったのでしょう。

奥州の混乱は続き、とても伊達郡に戻れる状況ではなかったはずです。

陸奥国高野郡北方の地

過去に北条時行による中先代の乱が奥州まで拡がり、長倉合戦で手柄を挙げた伊達行朝が陸奥国高野郡北方の地を与えられました。

建武政権により領地は伊達行朝のものとなりましたが、結城親朝が領地を明渡さなかったわけです。

結城親朝の父親である結城宗広は南朝の忠臣として亡くなった人物であり、北畠親房は頼りにしていました。

伊達行朝は高野郡の領地を知行できる様に北畠親房に訴えたわけです。

高野郡に関しては奥州軍が最初に上洛した時に足利軍を破り褒美として、後醍醐天皇の綸旨により結城親朝に与えられた事もあり、白河結城氏にも十分な言い分がありました。

北畠親房は板挟みの様な状態となりますが、行朝が忠臣である事を理由に土地を明渡す様に結城親朝に求めています。

伊達行朝と結城親朝を見ていると、南朝の武将同士であっても領地問題が発生している事が分かるはずです。

尚、奥州の南北朝では南部政長や北畠顕信の奮戦もあり戦いを優位に進めたりもしましたが、結城親朝は南朝に味方する事はありませんでした。

伊達家との高野郡を巡っての問題も尾を引いた可能性があるのでしょう。

高野郡の領地ですが、伊達為景なる人物と結城氏との間で所領交換があり問題解決が図られた話も残っています。

伊達一族の分裂

足利尊氏は懐柔工作も行い伊達政長が北朝に寝返りました。

名前からも分かる様に伊達政長は伊達一族の者です。

伊達一族であっても一枚岩とは行かなかったのでしょう。

伊達政長は足利尊氏の下文により知行地の半分を安堵されています。

奥州の混乱は続きますが、この頃から伊達行朝の足取りが途絶える事になります。

北畠親房の手紙では「伊佐城には伊達行朝が固く守っている」とするものがあり、引き続き伊佐城の防備に専念していた可能性もあります。

他にも、伊達霊山城に伊達行朝が戻ったのではないかと考える専門家もいる状態です。

奥州の戦いの方は結城親朝は最後まで南朝に味方する事は無く、最終的には北朝に味方しました。

北朝の奥州侍大将である石塔義房は勢いにのり南朝の勢力を破り、関東の高師冬が攻勢に出て小田治久も結局は北朝に味方する事になります。

北畠親房は関城に移りますが、耐えきる事は出来ず吉野に落ち延びました。

1347年には伊達行朝の本拠地である霊山城も陥落したとする話があります。

常陸合戦において伊達行朝は影響力の縮小があったと考える専門家もいますが、真意不明な部分もあり完全な結論は出てはいません。

伊達行朝の最後

伊達行朝の最後は1348年だと考えられています。

1343年に伊佐城が陥落したとする軍忠状が発見されています。

この資料が確かであれば、伊達行朝が亡くなる5年前に伊佐城は陥落した事になります。

伊達行朝は、何処かのタイミングで北朝に鞍替えしたのではないかと考えられてきました。

伊達行朝の子である万寿丸も伊達宗政と共に、行朝の死の前後で北朝に降った事も分かっています。

万寿丸が北朝に味方したのは、伊達行朝が亡くなったからだとも考えられているわけです。

ただし、晩年の伊達行朝の足取りは掴めてはおらず、伊達霊山城に戻り南朝として戦い続けたのではないかとも考えられています。

伊達氏の万寿丸は室町幕府の勢力に降りましたが、全ての伊達氏が幕府に屈したわけではなく、伊達行朝の子だとされる伊達宗遠は南朝として奮戦しました。

伊達宗遠は伊達氏の惣領となり、伊達氏を発展させる事になります。

伊達行朝が最後まで南朝して戦ったのであれば、戦いは伊達宗遠に継承されたと言えるでしょう。

伊達行朝の解説動画

伊達行朝のゆっくり解説動画(YouTube)です。

伊達行朝の記事及び動画は南北朝武将列伝南朝編や伊達一族の中世: 「独眼龍」以前 をベースに作成してあります。

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