世の中には極端な君主は数多くいます。
特にキングダムでもお馴染みの春秋戦国時代や太古の中国では多いです。
今回はマイナーな君主である衛の懿公を紹介します。
尚、衛の懿公は鶴が余りにも好きすぎて国を滅ぼしました。
常識では考えられない殿様なわけです。
前回紹介した、宋の襄公の「宋襄の仁」も酷い話ですが、それに輪をかけたような酷い話です。
鶴を愛すると言えば名君??
鶴という動物はスタイルもよいですし優雅な感じがして気品があるイメージがあります。
その鶴を愛した君主が春秋戦国時代にいたわけです。
それが衛の懿公という人物です。
普通に考えれば鶴を愛するといえば、さぞかし名君なんだろう!と思うかも知れません。
実際の衛の懿公は困った君主で暗愚といってもよいレベルです・・。
鶴に爵位と車を与える
衛の懿公は淫楽奢侈でしかも鶴が好きで溜まりませんでした。
淫楽奢侈というだけでも大臣や民衆からは嫌われたりする事もあるのですが、さらなる問題は鶴が好きだという事です。
どれ位好きかと言えば、鶴を大夫が乗る車に乗せてみたり、さらには鶴に爵位を与えたという記録があります。
鶴を大夫の車の乗せるだけでも普通ではありませんが、爵位を与えたというのは度を超した異常な行為です。
これらの行為は春秋左氏伝や史記にしっかりと書かれています。
つまり、私が衛の役人であったとしたら、自分の上司が鶴になる事も十分に考えられます。
自分の上司が鶴だったら嫌ですよね。
それを本気でやってしまうのが衛の懿公です。
異民族狄が攻めてくる
当時が平穏な時代であればよかったのですが、この当時は春秋戦国時代の乱世です。
衛の懿公の時代は斉の桓公が管仲を宰相とし、秩序を作り出そうとしていましたが、敵が攻めて来る事もあります。
そうした中で、衛の国に狄と呼ばれる異民族が攻めてきました。
衛の懿公は反撃を試みますが従ってくれた人はほとんどいなかったようです。
大夫たちは次のように言いました。
大夫「鶴に爵位を与えているのであれば鶴に戦わせればいい」
そのように言って懿公の命令を聞こうとしません。
ここで、鶴の恩返し的な事が起きれば「衛の懿公は凄い!」となるわけですが、実際には鶴が戦いに参加した話は出てきません。
鶴は恩返しをするどころか、逃亡した可能性が高いです。
ここでの鶴は恩知らずだったようです。
そして、衛の懿公と狄は戦うわけですが、大敗北を喫し懿公も戦死しました。
敗北の原因は、衛の懿公が旗を立て通し続けたために、そこを集中攻撃されて戦いに敗れたとされています。
衛の懿公はプライドが高く味方が不利だからと言って旗を下げるのは負けを認めるようなもので負けを認めたくないから旗を下げなかったという話もあります。
好意的に解釈すれば、衛の懿公が自分のいる場所を相手に教える事で敵を集中させて、何らかの策を弄していたとなるでしょう。
それか鶴を愛しすぎてしまった事への懺悔のつもりで死を覚悟していたのかも知れません
衛の懿公にも忠臣がいた
衛の懿公は戦死しただけではなく、肝臓以外の部分を全て食べられてしまった話があります。
しかし、衛の懿公の臣下である弘演はそれを憐れみ肝臓を取り戻すと、自分の体を割き肝臓を取り出し、代わりに衛の懿公の肝臓を入れて死んでしまいます。
この臣下は奇跡の外科手術?を行おうとした可能性もありますが、結局は生き返る事もなく、弘演自身も死んでいます。
弘演の行動を斉の桓公が聞き感動し宰相の管仲と話し合い衛を復興させる事にしました。
衛の首都である朝歌は狄に落とされています。
そこで、斉の桓公は最終的に楚丘という場所を衛の首都にするように取り計らってくれました。
弘演のお陰で衛は再興する事が出来たわけです。
衛のその後
衛のその後ですが、懿公の後に戴公が立ちますが1年で没します。
その次に衛の文公た立つわけですが、粗末な衣服を身にまとい人民と苦労を分かち合い国を再興させた記述があります。
即位した年は国は荒れて戦車が30台しかない国でしたが、即位末年(衛の文公25年)には戦車が300台になっていた記述があります。
国力が10倍になった事を指しているのでしょう。
衛の文公は知らない人も多いかも知れませんが名君と呼べそうです。
ただし、全てか完璧だったわけではなく、放浪中の重耳(後の晋の文公)が通りかかった時には冷遇しています。
そのため、重耳が即位すると衛は睨まれた話があります。
その後の衛は、戦国時代は魏などの属国となり最後は秦の2世皇帝胡亥の時代に滅びたと記述があります。
ただ、それだと秦王政(始皇帝)は衛を滅ぼさなかった事になるので、曖昧さがあり分かりにくい部分でもあります。
しかし、衛は戦国時代では超弱小国でしかありません。
尚、衛の君主としては、異民族の差別とかつらが原因で身を滅ぼした衛の荘公もいます。
西周時代と春秋時代の間の様な人物で、衛の武公の様な優れた君主もいましたが、衛は春秋戦国時代を通してパッとしない印象が強いです。