三国志

厳顔の史実・張飛を叱ったのは事実。だが、忠臣とは言えるのか?

2021年4月6日

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宮下悠史

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厳顔を三国志の史実を中心に紹介します。

厳顔は、劉焉劉璋の親子二代に仕えていました。

しかし、劉璋が劉備を蜀に招き寄せようとすると、反対した家臣でもあります。

正史三国志では、老将とは一言も書かれていませんが、三国志演義では老人にされてしまいました。

黄忠との老将タッグは「老いてますます、盛んな人」という感じがして、非常によい役柄だとも感じています。

張飛に敗れた時に、叱りつける様子も様になっています。

今回は、史実の厳顔がどのような実績があるのか?を中心に紹介します。

ただし、正史三国志には厳顔伝は残念ながらありません。

尚、上記の画像は横山光輝さんの漫画三国志で厳顔と黄忠が作戦を話し合っている時です。

何故かこの二人を見ていると、ほのぼのとしてしまいます。

黄忠、厳顔や春秋戦国時代の廉頗は老将軍としてのイメージが強いとも言えます。

三国志演義の厳顔

三国志演義の厳顔ですが、劉備の入蜀に対して反対しています。

張飛が攻めてくると、対峙するわけですが、厳顔は張飛の事を「暴れん坊の単細胞の馬鹿」と舐めていた所がありました。

しかし、張飛はこの時は珍しく計略を用いて厳顔を見事に捕らえているわけです。

この時に、張飛は厳顔に跪けと命令するわけですが、厳顔は張飛を一喝します

それに感じ入った張飛が自ら詫びて、厳顔も感じ入る所があり張飛に降伏したわけです。

さらに、厳顔は劉璋の本拠地である成都に行くための城を次々に降伏させています。

これにより張飛は難なく入蜀を成功させています。

黄忠と老将軍タッグを結成

劉備は、蜀の国を手に入れると次のターゲットを漢中に定めています。

魏の武将である張郃(ちょうこう)と対峙する武将を選ぶ時に、老将である黄忠が自薦したわけです。

しかし、諸葛亮は「黄忠では歯が立たない」と言います。

これに発奮した黄忠は諸葛亮に、まだまだ自分は健在だと言う事をアピールして出陣の許可を得ています。

この時に、黄忠は副将として厳顔を選んでいます。

同じく老将である厳顔を推薦したのは、老人扱いされた事への意地とも言えるでしょう。

ただし、この時に冷静沈着な趙雲からも「大丈夫なのか?」と心配がられています。

黄忠と厳顔の老将タッグは任地に行くわけですが、味方からも「この老人たちはなんだ?」と侮られてしまい。

張郃や夏侯尚などの敵からも「老人」と馬鹿にされてしまい、侮られてしまうわけです。

しかし、戦争がはじまると黄忠と厳顔は大活躍し、張郃を撃破しています。

さらに、黄忠は定軍山の戦いでは、敵将である夏侯淵まで斬ってしまったわけです。

黄忠は、この後に五虎将軍になりますが、厳顔はどうなったのか記載がなく分かりません。

関羽が孫権配下の呂蒙の策に嵌ってしまい死亡すると、劉備は関羽の敵討ちの為に呉に出兵しています。

三国志演義では、ここで陸遜と劉備の間で夷陵の戦いが起きますが、黄忠は戦死しています。

厳顔と黄忠の老将軍タッグが健在であれば、厳顔も夷陵の戦いに登場してもおかしくはないでしょう。

しかし、厳顔は夷陵の戦いで参戦した記録もありませんし、最後がどうなったのかも一切分かっていません。

それを考えると、老将タッグは解散したのかも知れません。

羅貫中の書いた三国志演義では、厳顔と黄忠の裏設定で、二人の頑固な性格が災いして解散したとか、そういうのがあるのかも知れませんが・・・。

しかし、これが三国志演義での厳顔の記述です。

正史三国志の厳顔

ここから先は、正史三国志の厳顔の働きを見ていきたいと思います。

非常に残念に感じるかも知れませんが、厳顔と黄忠で老将タッグを組んだという事もありません。

ただし、張飛を叱りつけた事などは史実です。

劉備の入蜀に反対する

曹操袁紹官渡の戦いで破り、さらに袁譚や袁尚、袁煕などを破り北方を安定させると南下を始めています。

ここで周瑜魯粛の活躍もあり赤壁の戦いで、孫権に敗れ天下統一はお預けとなりました。

しかし、西方の張魯馬超を破ったりしているうちに、益州にいる劉璋は不安を覚えます。

そこで、劉備からの誘いもあり劉備を蜀に入れて、共に曹操を防ごうという計画が持ち上がったわけです。

この時に、法正や張松などは既に劉璋に見切りをつけていて、劉備を蜀の主にしようと考えていました。

しかし、劉璋の配下である王累(おうるい)は、「狼(曹操)の声を恐れて、虎(劉備)を招き入れる様なものだ」と言い反対しています。

さらに、法正や張松を斬り捨てるように進言し、逆さ吊りとなり諫めたわけです。

これにも劉璋は聞かずに、王累は自殺してしまいます。

厳顔も劉備の入蜀には反対して「自分の身を守ると称して、猛虎を家に入れる様なものだ」と言っています。

厳顔は、王累ほどの過激なパフォーマンスはしませんでしたが、劉備の入蜀に反対組だったわけです。

張飛を一喝する

劉備が国を乗っ取ろうとしている事は、劉璋にばれてしまいます。

ここにおいて、劉備と劉璋の全面戦争が始まる事になります。

龐統が戦死してしまったのもありますが、諸葛亮や張飛も蜀に向けて出発したわけです。

張飛が巴郡を通過する時に、対峙したのが厳顔です。

厳顔は、奮戦したようですが、結局は張飛に捕らえられてしまう事になります。

どの様にして、厳顔が張飛に捕らえられたのかは、陳寿の書いた正史三国志には記載がなく分かっていません。

ただ、分かっている事は、張飛と厳顔のやりとりです。

厳顔は、捕らえられて張飛の前に出されるわけですが、跪ずくことをしません。

張飛「捕虜になったのだから、さっさと跪け!この無礼者!」

厳顔「無礼なのはどっちだ!人の土地を勝手に奪おうとする奴の方がよっぽど無礼だ。我が軍には首を斬られる将はいても、降伏する将は一人もいないのだ」

この厳顔の言葉に対して、張飛は腹を立てて、さらに怒ったとされています。

しかし、厳顔は言葉を緩める事をしません。

厳顔「殺すつもりでいるなら、さっさと殺せ!なぜ、お前は怒ってなどいるのだ!」

この言葉を聞くと、なぜか張飛は怒りを解いて自ら厳顔の縄を解いたとされています。

さらに、次のセリフを言い厳顔に謝罪しています。

張飛「ご無礼申し訳ございませんでした。平らにご容赦くだされ」

上記のセリフは、三国志演義の劉備なら普通に言いそうですが、張飛が言うのは意外な気もします。

張飛は、陳寿の正史三国志によれば名士に対しては、恭しく接するとあるので、厳顔が名士だと感じたのかも知れません。

張飛はさらに厳顔を手厚くもてなしています。

厳顔の方も張飛の態度に感じ入ったのか、劉備の配下となっています。

これが正史の厳顔の実績です。

先にも行ったように黄忠との老将タッグもありませんし、漢中で活躍した記録もないわけです。

厳顔は張飛に敗れた以降の記述はなく、最後も分かっていません。

案外、気が変わった張飛に殺されていたら、泣けてしまいますが・・・・。

厳顔は忠臣なのか?

南宋の末期に亡宋三傑の一人に文天祥という人物がいます。

南宋末期にクビライハンの侵攻から宋を最後まで支えた忠臣です。

尚、クビライは南宋を征伐した後に、日本にも攻めて来て元寇を引き起こした人物としても有名です。

文天祥は、正気の歌(せいきのうた)を詠んでいますが、その中で忠臣義士として厳顔の名前を挙げています。

この一つの張飛とのやり取りが後世に繋がり、厳顔は忠臣となったわけです。

しかし、厳顔は張飛を一喝した事実はありますが、結論で言えば張飛に降伏して劉備の配下になっています。

同僚の王累が命がけで諫めたのに比べると、どうしても忠臣として見劣りがしてしまうわけです。

正気の歌を詠んだ文天祥は、非常に素晴らしい人物で忠臣だと思っています。

文天祥は最後までクビライの配下とならずに、死ぬときも南宋の方向を向いて死んだとされています。

これを考えると、厳顔以上に文天祥の方が忠臣として感じてしまうわけです。

何をもって忠臣と言うのかは、非常に難しい所があります。

例えば、主君の命令を徹底的に聞き入れて滅びる時も主君と滅びるのが忠臣と言うのかも知れませんし、3度諫言して聞き入られなければ去るのもまた、忠臣の姿なのかも知れません。

それを考えると、人によっては厳顔の行動は忠臣とは呼べないと考える人がいてもおかしくはないでしょう。

尚、自分は文天祥にも厳顔にもなれそうにはありません。

そもそも忠臣になれるかと言えば、かなり微妙な人物だと思われます。

張飛みたいな凶暴な人を一喝するのも無理だと思いますし、文天祥のように南宋に最後まで忠誠を誓い死ぬことも出来ないでしょう・・・。

それを考えれば、私のような人が厳顔の事をあれこれ言ってはいけない可能性も大いにあるのかも知れません。。。

三国志のゲームの厳顔の能力値に異議あり

尚、三国志のゲームなどでは武力や統率力などの能力値が普通に80を超えていますが、戦いの実績としては張飛に敗れたくらいしかありません。

それでいて、この能力値は高すぎるのではないか?と思えてしまいます。

三国志演義の黄忠とのタッグで魏を破るなどを考慮しても、もう少し能力値が低くてもいいような気がするわけです。

それに比べて、明らかに功績があるのに能力値を低く見積もられてしまう呉の武将は気の毒にも感じました。

厳顔が老人になってしまう理由

厳顔は、正史三国志を見る限りでは老人だとする記述はありません。

ただし、劉焉劉璋に仕えている事から、老人だった可能性はもちろんあります。

なぜ、厳顔が勝手に老人にされてしまったのか考えてみました。

多分ですが、最大の原因は厳顔という名前にあるのではないかと思います。

厳顔という名前は「厳しい顔」と書きます。

厳しい顔というと、頑固そうな爺さんを思い浮かべてしまわないでしょうか?

三国志演義を書いた羅貫中は「厳顔」→「厳しそうな顔」→「頑固そうな老人」→「老将」というイメージが湧いたのではないかと感じています。

これはあくまで想像なのですが、名前で勝手にイメージを膨らませられる事は多いのではないかと思います。

尚、余談ではありますが袁紹配下の顔良がいますが、名前が「顔(かお)良(よし)」である事から、勝手にイケメンだったと勘違いする人もいるようです。

逆に、同僚の文醜は「醜」という字が入っている為、ブサイクだったと勘違いされたりする事もあります。

顔良と文醜は三国志演義では、袁紹配下の二大武将と言う事になっていますが、名前が対になっている様にも思えて、そこもユニークに感じるところです。

ちなみに、北斗の拳に「ジャギ」という明らかに極悪人がいますが、この「ジャギ」という名前から想像する名前も明らかに悪人風なはずです。

日本の苗字でも「鬼熊(おにくま)」さんと言う人がいたとすれば、苗字だけみれば怖そうな人に感じる可能性があります。

どんなに実際の鬼熊さんが誠実でいい人であったとしても、名前だけみれば怖そうな感じがする人が多いかと思います。

実際には、会う事が出来ない歴史上の人物であれば、尚更、名前で風貌などを判断されてしまう事が多いと思いました。

その結果として、厳顔も老人というイメージがついてしまったのではないかと感じています。

ちなみに、名前が怖そうで実際にいい人だと、ギャップ萌えされそうで、メリットも多いような気がしますが・・・。

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