
魏の武侯は春秋戦国時代の魏の君主です。
史記には子撃(魏の武侯)と田子方との逸話も掲載されています。
魏の武侯は晋の君主を奉り、父親である魏の文侯と同様に覇者体制の強化に向けて動きました。
しかし、魏では秦、斉、楚の脅威が亡くなると、趙や韓と対立して行く事になります。
魏の武侯は紀元前370年に亡くなりましたが、この後に後継者争いが勃発し晋の孝公は屯留に遷されました。
これにより晋の君主や周王の権威を利用する者がいなくなり、魏の武侯の死を以て覇者体制は終焉したと言えるでしょう。
魏の武侯が立つ
魏の文侯が亡くなると、魏の武侯が立ちました。
この時に三晋では趙の烈侯が在位13年目であり、韓の烈侯は在位4年目であり、年数で考えれば、趙の烈公が晋の正卿の最優先の立場でした。
しかし、魏は父の文侯の時代に、晋の烈公と親密な関係を築いており、魏が最も勢力が大きかったわけです。
魏の本拠地の安邑は晋の首都である新絳とも近く、魏の武侯が正卿になったと考えられています。
晋の文侯が擁立した晋の烈公も存命中であり、晋の正卿には魏の武侯が適任と考えられてもおかしくはないでしょう。
大梁を得る
史記の楚世家の楚の悼王の十一年(紀元前391年)に、三晋が楚を討ち楚を大梁と楡関で破った記録があります。
紀元前391年は魏の武侯の時代であり、魏が楚から大梁を奪い取ったと言えるでしょう。
楚は黄河の南岸からの撤退を余儀なくされました。
大梁は魏の恵王の時代に、魏の首都となります。
魏と斉が有効を深める
紀元前389年に魏は斉と講和が成立しています。
斉の康公の宰相だった田和が紀元前386年に諸侯として認められました。
これにより田斉の始まりますが、斉の田氏が諸侯になれる様に魏が斡旋した記録があり、魏の武公が周の安王に働きかけを行ったのでしょう。
魏は既に秦から河西の地を奪い大人しくなっており、魏は斉との講和が成立し、楚も南方に追いやりました。
しかし、魏、韓、趙の三晋は共通の敵を失った事で、覇者体制は解体に向かう事になります。
覇者体制の解体
魏における楚や斉との戦いに韓や趙が参戦したのは、自国を優位にする為だったとも考えられています。
この時期に趙は衛を狙っており、韓は鄭を討とうと考えていました。
趙や韓が衛や鄭を滅ぼす為には、斉や楚は邪魔な存在であり、晋公を擁立する魏に協力したと考えられています。
しかし、先にも述べた様に魏の武侯の時代に斉、楚、秦の脅威が薄くなっており、三晋の覇者体制は解体に向かったと言えるでしょう。
魏と趙の紛争
魏の武侯が趙の公位継承に介入
紀元前387年に趙の烈侯が亡くなり、趙の敬侯が立ちました。
趙は中牟から邯鄲に遷都しますが、公子朝が乱を起こしますが、失敗し魏に亡命しています。
史記の魏世家の記録によると、魏は公子朝と共に邯鄲を襲ったが敗れたとあります。
魏の武侯は趙の正卿であり、趙の公位継承に介入したと見られますが、上手くは行かなかったのでしょう。
当然ながら、趙と魏は対立する事になりました。
魏・趙対立の背景
魏と趙は必然的に対立する運命にあったと考えられています。
斉や楚などの共通の敵がいた時代は、協力してやってこれました。
しかし、斉や楚、秦などの脅威が去れば、魏が鄴と朝歌を領有し、趙が中牟と邯鄲を領有し城邑が入り乱れていました。

さらに、邯鄲の北には魏の遠隔地である中山があったわけです。
魏は公子朝を支援する事で趙への影響力を強め中山の地も上手く経営するつもりだったのでしょう。
しかし、邯鄲の戦いで敗れた事で、魏の武侯の目論見は失敗に終わりました。
趙は魏の武侯の時代である紀元前377年に中山と戦った記録もあり、中山は最終的に独立しています。
この頃の趙は衛を支配下に収めたいと考えており、韓は鄭を支配下に収めたいと思っていました。
諸国との対立が深まる
紀元前386年に魏の武侯は趙との開戦したわけですが、このタイミングで韓は鄭や宋に侵攻しました。
韓は陽城を奪い彭城にまで侵攻しています。
韓は宋の休公を捕虜にするなど大戦果を挙げました。
さらに、魏の武侯が趙に構っている隙に、斉は魯に侵攻しました。
斉に危機感を覚えたのか魏の武侯は趙と和睦する事になります、
しかし、紀元前384年に斉が魏を攻めると、趙は斉に協力し和睦は直ぐに破綻に向かいました。
趙も衛の慎公が亡くなったタイミングで、衛に侵攻しています。
魏の方では衛や鄭を覇者体制に組み込んだままにしたいと考えており、趙は衛を征服したいと考えており、韓は鄭を征服したいと考えていました。
こうした事情もあり、魏は必然的に趙や韓と対立する事になります。
韓を支援
魏は斉とも開戦し紀元前378年には、呉起が率いる軍が霊丘にまで進出しました。
魏は同盟国である魯や衛と共に斉と戦い、さらには魏とも戦闘を継続する事になります。
こうした中で趙の要請もあり楚が北上しました。
韓は鄭を滅ぼしたいと考えており、楚の北上は迷惑極まりなく魏に接近する事になります。
魏の武侯は韓を積極的に支持し、韓の哀侯は紀元前375年に鄭を滅ぼしました。
魏の武侯は晋の孝公に働きかけ、韓の新鄭の領有を認めさせています。
魏の武侯の最後
魏の武侯の時代の魏は最強国ではありましたが、勢力拡大には停滞していたと言えるでしょう。
中山も既に魏の手を離れました。
こうした中で魏の武侯が紀元前370年に亡くなっています。
魏の武侯は突然死だったのか、後継者問題が発生しました。
後継者になった魏の恵王と公子仲緩の間で後継者問題が勃発しています。
公子仲緩は魏の武侯の弟(子とする説もある)です。
魏の武侯の時代は最後まで晋公と周王を奉っていましたが、竹書紀年によると魏の後継者争いの隙をつき趙と韓は晋の孝公を屯留に遷してしまいました。
周も東周と西周に分裂してしまい魏では、晋公や周王の権威を利用する事が出来なくなったわけです。
魏の武侯の死は覇者体制の終焉だったとも言えるでしょう。
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