虞は周の太伯や仲雍の子孫の国だとされています。
(上記の地図はウィキペディ(春秋時代)より)
周王朝とも血縁があり、国の規模としては小さかったと思われますが、諸侯としては最上位の爵位である公爵を授けられました。
虞国は春秋左氏伝や史記に記録がある事から、実在した事は間違いないでしょう。
虞の滅亡は兵法三十六計における仮道伐虢の元ネタにもなっています。
仮道伐虢は一旦相手と同盟をしておいて、敵を滅ぼした後に、同盟した相手も滅ぼす各個撃破の策でもあります。
尚、虞の君主に関しての記録は貧しく、春秋左氏伝にも虞公として記録がある程度であり、君主名が分からない状態です。
今回は春秋時代に晋の献公に滅ぼされた虞国を解説します。
余談ですが、列子に「愚公山を移す」の話がありますが、「虞」と「愚」の文字は読み方は同じですが、違う文字となります。
虞と「愚公山を移す」の話は、関係のない別の話だと考えるべきです。
上記はゆっくり解説動画となっており、ユーチューブの動画で虞の成立と滅亡が分かる様になっています。
興味があれば、ご視聴してみてください。
虞の成立
周を出奔
虞は周王朝とも血縁がある一族であり、周の文王の父親である季歴の二人の兄(太伯、仲雍)と関係があるとされています。
周の文王の祖父にあたる古公亶父は、後に周の文王となる姫昌に聖人となる瑞祥が出ており、周の後継者にしたいと考える様になります。
姫昌を周の後継者にするには、兄の太伯と仲雍ではなく、三男の季歴を後継者にする必要がありました。
しかし、古公亶父は兄の太伯と虞仲を差し置いて、弟の季歴を後継者にすれば、国が乱れるのではないか?と心配したわけです。
古公亶父が季歴を後継者に指名し姫昌に周を継がせたいと考えている事を知った、太白と虞仲は自分達が周にいれば季歴が後継者になれないと考えます。
太伯と虞仲は相談し、自ら周を出奔する事としました。
太伯と虞仲が周を出て行った先が、呉であり春秋時代末期に活躍した呉の先祖となった話があります。
太伯と虞仲は断髪と入れ墨を行い、周には帰らない態度を見せた事で、周では季歴が後継者となったわけです。
太伯と仲雍の国譲りの話ですが、司馬遷の書いた史記では諸侯の歴史である世家の最初が呉太伯世家となっており、列伝の最初も同じ様に国を譲った伯夷伝となっています。
太伯・仲雍や伯夷・叔斉を列伝の最初に置くのは、司馬遷の思想の表れだと考える人もいます。
虞国の誕生
周では季歴が亡くなると、姫昌が後継者となり、姫発、周公旦、呂尚、召公奭が補佐した事で、大きく躍進する事になります。
姫昌の子である周の武王(姫発)の時代になると、殷の紂王を牧野の戦いで破り、周は天下の主となったわけです。
周の武王は殷を滅ぼすと、諸侯を封じようと考え、太白や虞仲の子孫がいれば、どこかに封じたいと考える様になります。
この時に太公望が呉の太伯が亡くなると、弟の仲雍が後継者となり、仲雍の子孫に周章がおり、呉を治めていると述べます。
太公望は改めて周章を呉に封じ、周章の弟に虞仲がいる事を知り、虞仲を虞の地に封じる事となります。
周の武王が虞仲を虞国に封じた事で、虞が成立しました。
太伯と仲雍の子孫が治める国は、呉と虞の二国となります。
太伯と仲雍が後継者になるのを辞退した事で、周の武王は周王になれたと考えたのか、虞を諸侯の中で最上位の公爵としたのでしょう。
西周王朝の時代に関しては、虞国で何があったのかは記録がなく分からない状態です。
春秋時代を考えると、ある程度の国力はあったが、大諸侯と呼べる様な存在ではなかった様に思います。
西周王朝は、周の幽王の時代に申公や犬戎に攻められた事で滅び、周の東遷が起こり群雄割拠である、春秋戦国時代に突入しました。
人の欲望には限りがない
虞国に関しては、春秋左氏伝に逸話が残っているので紹介します。
虞叔の美玉
虞の君主は虞公と呼ばれ、虞叔なる弟がいました。
尚、虞叔は名前ではなく、「叔」が三番目の子を指す字である事から、虞家の三男という意味だと考えた方がよいでしょう。
虞叔は美玉を持っており、兄である虞公が要求しますが、虞叔は兄の要求を拒絶しました。
一度は虞叔は兄の虞公の要求を断わりますが、後に「周の諺で匹夫は例え罪が無くても、璧を抱けば罪になる。」という言葉を思い出します。
虞叔は自分が美玉を持っている事は、禍を招くと考え、兄である虞公に美玉を献上したわけです。
虞叔は兄の虞公が美玉を手に入れたいが為に、自分を害する事を恐れたとも言えます。
兄に反旗を翻す
虞公は虞叔の美玉を手に入れ気分をよくしたのか、今度は虞叔の宝剣を要求したわけです。
虞叔は虞公の要求を保留しました。
虞叔は虞公に対して、次の様に考えた話があります。
虞叔「兄の虞公の欲望には限度がない。
限度が無ければ、最後には私の命までを欲しがる事になるだろう。」
虞叔は虞公がいずれは、自分を害すると悟り、兵を起こして虞公を攻撃しました。
不意を衝かれたせいか、虞公は虞叔に敗れて共池に出奔した話があります。
春秋左氏伝には、この後の虞公と虞叔の記録がなく、どうなったのかは分かりません。
しかし、人の欲望には限りがない事を教えてくれる教訓として、虞公と虞叔の話は伝わっています。
虞叔の虞公への態度は正当防衛として見る事も出来るはずです。
虞の滅亡
晋に道を貸す
春秋左氏伝によれば魯の僖公の2年(紀元前658年)に、晋の献公は宿敵である虢の討伐を考える様になります。
この時に、晋の献公の配下である荀息は、虞に屈地の馬と垂棘の璧を贈り、道を借りる様に求めます。
晋の献公は荀息の策を採用し、荀息を虞に派遣し、虞公に屈地の馬と垂棘の璧を贈り道を貸して欲しいと願いました。
この時に、虞公は晋の献公の宝物である屈地の馬と垂棘の璧が手に入った事で気分をよくし、自らも軍隊を出し虢を共に攻撃すると宣言しました。
虞の賢臣と呼ばれた宮之奇は猛反対しますが、虞公は宮之奇の意見を却下しています。
紀元前658年に虞は晋と共に、虢を攻撃し虢の副都である下陽を占拠しました。
晋軍が虞を急襲
紀元前655年になると、晋は再び虢を攻める事を理由に、虞に道を借りたいと述べます。
ここでも宮之奇は「唇が滅びれば歯は寒い」の諺を引用し反対しますが、虞公が聞き入れる事はありませんでした。
宮之奇は虞が滅びると考えて、虞から出奔した話があります。
晋の献公は里克や荀息らと共に虢の上陽を攻撃し、虢を滅ぼす事に成功しました。
虢を滅ぼした晋軍は、国に帰る途中に虞に駐留した話があります。
晋軍は突如として、虞を攻撃し、虢だけに留まらず虞まで滅ぼしてしまいました。
虢は周の文王の兄弟の家柄であり、虞も太伯や仲雍の子孫の国であり、晋は立て続けに姫姓の国を二つ滅ぼしてしまったと言えます。
虞の晋に道を貸した為に滅んだ話は、兵法三十六計にも記載があり、仮道伐虢の元になった話でもあります。
敵軍を領内に入れる事の危険さを物語っている話でもあるのでしょう。
虞公のその後
尚、史記によれば虞が滅んだ時に晋軍は、虞公、井伯、百里奚を捕え、晋の献公の娘である穆姫の付添人として使ったとする話があります。
史記の記述を信じるのであれば、虞公は虞が滅んだ後は、秦の穆姫の付添人として生きたのかも知れません。
他にも、虞公は愚かな人であり生かしておいても害にはならないと判断し、殺されなかったともされています。
虞公と共に捕らえられた百里奚は、その後に秦の穆公の元で宰相となった話があります。
百里奚は秦では名宰相と讃えられた人物であり、虞公は宮之奇だけではなく、百里奚も使いこなす事が出来なかったと言えるでしょう。
尚、百里奚は楚の出身だと考える専門家もおり、本当に虞にいたのかは不明です。