
| 名前 | 覇者 |
| 代表的な覇者 | 春秋五覇 |
| コメント | 諸侯同盟の長を指す。 |
覇者と言うのは、諸侯同盟を結成し同盟の長になった者を指します。
春秋時代に活躍した春秋五覇は覇者としての代表格ではないでしょうか。
覇者の代表格である斉の桓公や晋の文公の前には、小覇(小伯)と呼ばれる人物がおり、斉の荘公や僖公、鄭の荘公は覇者の魁として、小覇と呼ばれたりもしています。
尚、覇者体制にも問題点があり、戦争が無くなると中小諸侯は覇者に対して、貢納の義務だけが残る事になり、諸侯同盟は崩壊に向かいます。
今回は覇者体制が出来た流れや問題点などを中心に解説してあります。
春秋戦国時代に覇者に選ばれた春秋五覇に関しては、春秋五覇の記事を読むようにしてください。
西周王朝と諸侯同盟
覇者は諸侯同盟の長を指しますが、最初の問題として諸侯同盟がいつ誕生したのかという問題があります。
西周王朝の時代に周の夷王が斉の哀公を、釜茹でにしてしまった事件があり、西周王朝の無茶ぶりに対抗する為に始まったのではないか?とする話もあります。
しかし、西周時代の諸侯の間で外交の様なものがあったとするならば、その相手は西周王朝、もしくは王畿内に領地を持つ邦君だったと考えられています。
西周王朝の諸侯は基本的に諸侯同士では、外交を行わず、西周王朝や王朝内の実力者を通して、交渉を行いました。
諸侯同盟が存在しない以上は、西周王朝の時代に、覇者がいたという事はあり得ないでしょう。
周王朝の時代には諸侯が西周王朝を飛び越えて同盟するという事もなく、諸侯同士の交流と言えば、婚姻や儀礼的なものが大半だったと考えられています。
ただし、諸侯同士で対立したなどの場合は、諸侯同士の交渉があったとは考えられています。
諸侯が手に負えないような問題が起きた場合も、西周王朝を頼っていました。
しかし、春秋戦国時代に入ると東周王朝に、問題を解決するだけの力が無くなってしまう事になります。
そうなると、諸侯が独自で解決せねばならず、諸侯同盟が必要となりました。
こうした理由から、国を守る意味でも諸侯同盟が必要とされ、覇者が誕生する事になります。
小覇の誕生
覇者は春秋戦国時代に誕生しましたが、最初の覇者と言えば、斉の桓公を想像する人も多いのではないでしょうか。
管仲に補佐された斉の桓公が諸侯を集め、会盟を開き覇者になったイメージです。
実際には、斉の桓公以前から、覇者体制の様なものがあった事が分かっています。
国語の鄭語には、次の言葉があります。
※国語・鄭語より
斉の荘公と僖公が覇者ではありませんが、小伯になったとあります。
小覇と言うのは、覇者の魁という意味であり、覇者の前段階を指します。
国語のいう斉の荘公は斉の桓公の祖父であり、斉の僖公は斉の桓公の父親です。
つまり、斉では斉の桓公の祖父の段階から、諸侯同盟を作り覇者体制の元になるものがあったとみる事が出来ます。
鄭の荘公は春秋五覇の一人に数えられる事もありますが、小覇に位置づけられる事も多いです。
斉の荘公、斉の僖公、鄭の荘公が覇者より1ランク下の小覇になってしまう理由ですが、斉の桓公ほどの強力な権限を発揮できなかった部分もあります。
斉の荘公については実績が分からない部分が多く不明ですが、斉の僖公は同盟内諸侯の対立を止める事が出来なかったりしており、鄭の荘公は中規模の国力しかなく、斉の僖公を長とする諸侯同盟に参加したりもしています。
こうした事情から斉の荘公、僖公、鄭の荘公は覇者ではなく、どうしても小覇となってしまうのでしょう。
覇者の誕生
覇者と言えば斉桓晋文とある様に、斉の桓公と晋の文公を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
春秋五覇は10人以上がエントリーされていますが、必ず選ばれるのが斉の桓公と晋の文公です。
覇者に関して述べると、同盟国同士の戦いを禁止したり、同盟国の内部で問題が起きれば介入し、紛争を解決するなどもします。
さらに、尊王攘夷を掲げて外部の敵と戦い、滅びた国を再興するなどしました。
会盟を開いた時には、多くの諸侯が集まれば、それだけ覇者としての求心力がある事になります。
覇者体制の問題点
宋の華元や向戌が晋と楚の講和である弭兵の会を成し遂げました。
これにより、晋と楚が和睦し中華の世界は平和になったかに思われました。
しかし、覇者体制は小国が強大な敵国から、国を守って貰う代わりに、莫大な上納金を支払う仕組みでもあったわけです。
弭兵の会で晋と楚が講和してしまえば、攻めて来る国もないのに、上納金だけは支払う仕組みになってしまいました。
さらに言えば、中小の国は覇者の晋だけではなく、楚にも貢納の義務が生じ苦しんだと言えます。
春秋左氏伝に鄭が晋への貢納が多額であり、苦しんだ話もあります。
上納金だけを支払う仕組みにより、覇者の求心力が低下し、覇者体制は崩壊に向かう事になります。
代表的な覇者の国と言えば晋ですが、覇者として中原諸国と同盟してしまえば、戦争によって領土を拡げる事も困難でした。
晋が同盟国を攻撃すれば、覇者としての意義を失いますし、覇者体制では領土の拡張が難しかったわけです。
覇者となった国の君主が勢力を伸ばすには、他国から領土を奪い自分に近しい人物に与える必要がありますが、覇者体制の構造上の問題として君主が勢力を伸長させにくい仕組みになっていと言えるでしょう。
さらに、晋では六卿と呼ばれる大臣が外交も担当しており、小国は晋の世族の大臣に賄賂を贈り有利に取り計らって貰うようにしていました。
六卿では中小国の上納金にも手を付ける様になり、覇者となった君主は勢力を伸ばす事が出来なかったわけです。
晋の霊公や厲公が世族の大臣に殺害されているのも、晋の君主に力が無くなって行く原因となりました。
覇者であるはずの晋の君主の力が弱まり、六卿が中小諸侯に匹敵するだけの軍事力を持つ様になります。
諸侯同盟による平和が次の戦争を引き起こすとも言えるでしょう。
晋では范氏・中行氏の乱もあり、会盟も行う事が出来なくなり、晋の覇者体制は終焉に向かいました。
戦国時代の覇者体制
覇者体制は春秋五覇の言葉もある様に、春秋時代だけのものと思うかも知れません。
しかし、実際には戦国時代にも覇者はいました。
魏の文侯は晋の公室や東周王朝の権威を利用し、三晋(韓、魏、趙)を纏め上げ戦争も行っています。
魏の武侯の時代までは、まだ形の上での覇者体制が機能していた部分もありますが、この後に晋の孝公が屯留に遷され、東周王朝が東西に分裂すると魏は晋や東周の権威を利用する事が出来ず、覇者体制は行えなくなりました。
東周王朝は秦の孝公に胙を送るなど覇者として認め後援者としての立場を期待しますが、紀元前334年に魏の恵王と斉の威王が互いを王と呼び合い、東周王朝の枠組みから離脱しており、覇者とは無関係の世界に行ってしまったと言えるでしょう。
東周王朝では秦を覇者としていましたが、紀元前325年に秦の恵文王が王を名乗りました。
秦の恵王は覇者の座を捨て秦王になっており、紀元前325年に覇者の時代は完全に終焉したとみる事が出来ます。
覇者体制が崩壊する時
覇者体制を維持する為には、敵がある程度の強さを持っている必要があります。
春秋五覇の一人に数えられる宋の襄公は会盟を主催したりもしており、覇者の一人として数えられる事があります。
しかし、宋の軍事力は中程度の国であり、敵である楚は超大国でした。
宋の襄公は楚の成王との間で、泓水の戦いが勃発しますが、大敗北を喫しています。
泓水の戦いでは宋の襄公の采配に問題があったなどはいわれている所ですが、敵国である楚が強すぎて相手の軍事力により、覇者体制が崩壊した例となります。
逆にいえば敵が弱すぎても、同盟国は覇者に貢納するだけの存在になってしまい覇者体制は崩壊します。
古代ギリシャではアテネを盟主とするデロス同盟やスパルタを盟主とするペロポネソス同盟がありました。
しかし、アケメネス朝ペルシアの脅威が薄れると、同盟国は盟主であるアテネの貢納するだけの存在になってしまい、アテネの覇者体制が揺らぐ事になります。
敵が弱ければ、貢納するだけの存在になってしまう所が、覇者体制の問題点でもあります。
他にも、同盟国中の問題国が勝手に戦争を始めてしまい、条約により覇者となった国は望まない戦争を行った例もあり、同盟国内に問題児がいる場合も、覇者体制の欠点が出やすいと言えるでしょう。