名前 | 一大卒(いちだいそつ) |
場所 | 伊都国 |
コメント | 倭国の統治機構 |
一大卒は中国の刺史の様な役目を担っていたとあり、監察官の様な存在だったと考える事が出来ます。
正史三国志の記述を見る限りでは、一大卒の詳細な役割に関しては記載されておらず不明です。
しかし、倭国の国々では一大卒を畏れていたとする記述があり、強い権限を持った統治機構でもあったのでしょう。
一大卒に関しては、責任者の名前など分からない事が非常に多いのですが、倭国の交易を管理していたのではないか?とする説もあります。
魏志倭人伝の記録
魏志倭人伝には倭人の風習や生活などに関しても記載があり、その中で次の様な記述があります。
※魏志倭人伝より
女王国より北の地域には特別な官が置かれ一大卒と言う。
一大卒は国々を監視し、倭の国々は一大卒を畏れている。
一大卒の役所は伊都国にあり、国々の間で中国の刺史の様な権限を持っている。
上記が正史三国志にある一大卒の記述であり、伊都国に役所が置かれている事が分かるはずです。
伊都国は通説であれば北九州の糸島市だと考えられています。
一大卒は倭の国々に恐れられていたと言いますが、国々を監視する役目であり、逆らうと何かしらの措置を取らされ畏れられていたのでしょう。
一大卒に関しての詳細は書かれておらず不明です。
尚、一大卒の役所があった伊都国は「女王国に属している」と記載があり、邪馬台国の傘下の国という事になります。
邪馬台国の北九州を支配する為の統治機構が一大卒だと考えればよいでしょう。
一大卒と交易
魏との朝貢貿易
一大卒が倭国の交易や外交において役割を担ったとする説があります。
邪馬台国の女王である卑弥呼は遼東半島に割拠する公孫淵が滅んだ事で、魏に朝貢出来る様になりました。
卑弥呼は親魏倭王に柵方されています。
魏の使節団は帯方郡から狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国の順番で九州に入る事になります。
一大卒は魏の使者が来日した時に、末盧国まで行き出迎えたのではないか?とも考えられています。
魏志倭人伝に伊都国で魏の使者が留まったとする記述があり、一大卒が魏が卑弥呼に下賜された贈答品などの点検も行っていたと考える事も出来ます。
邪馬台国では魏からの献上物を一大卒に受け取らせ管理させ、邪馬台国の本国までもって来させたのではないか?ともされているわけです。
邪馬台国は魏から下賜された銅鏡や宝物を倭国の国々に配ったと考えられ、魏の朝貢を独占していたのではないか?とも考えられています。
倭国の盟主としての地位を邪馬台国が保つために、一大卒に監視させたとする説です。
交易の管理
一大卒は魏と邪馬台国の朝貢貿易の管理だけではなく、民間での交易管理の役割を行っていたとする説もあります。
魏志倭人伝の記述によれば末盧国、伊都国、奴国の順番で記述されています。
奴国は現在の福岡平野にあったと考えられ、倭国では邪馬台国、投馬国に次ぐ、2万戸の人口を誇る大国です。
現在の福岡市には西新町遺跡があり、三世紀頃から大発展し国債交易都市として発展していきました。
奴国のあった福岡では近畿、山陰、吉備、北部九州や、朝鮮半島の渡来系の人々が混在し、鉄の交易をしていた事が確実視されています。
博多湾岸の地域では交易拠点として発展していったと言えるでしょう。
一大卒があった伊都国は九州の玄関口とも言える末盧国と、大発展している福岡平野との中間に位置しています。
それを考えると、一大卒のいう諸国の監察と言うのは、北部九州の国々や港に集まる諸国の人々に対し、外交と国際交易の管理が任務だったとも考えられるはずです。
それでも、一大卒は魏との交易のみを管理し、朝鮮半島と倭人の交易は独占しなかったともされています。
邪馬台国の首脳部は一大卒を設置し、北部九州の湾岸地帯の秩序を整える事で、国を治め発展しようと考えたとみる事ができます。
一大卒は諸国を畏れさせる様な存在でもあり、秩序の維持は絶対にやっていた事になるでしょう。
北九州の沿岸地域には、交易の為に様々な国の人が訪れ、一大卒が管理し、一大卒に睨まれれば何かしらのペナルティがあり畏れられたのかも知れません。
尚、卑弥呼の使者として朝貢に向かったのが難升米と都市牛利ですが、都市牛利の「都市」は官職名だった可能性があります。
都市牛利の都市を考えれば「一大卒」の高官となるのかも知れません。