室町時代

石塔義房は奥州総大将となるも解任され各地を転戦した

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宮下悠史

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名前石塔義房
生没年不明
時代南北朝時代
一族父:石塔頼茂 子:頼房、義憲、範家
年表1337年 奥州総大将に就任
1345年 奥州総大将を解任
コメント奥州を席巻するも奥州総大将の位を剥奪された。

石塔義房は南北朝時代に活躍した人物です。

石塔氏は足利一門ではありますが、家格が低すぎて鎌倉時代に何をやっていたのかもイマイチ分からない状態です。

しかし、中先代の乱で活躍したなどもあり、奥州総大将に任命され常陸合戦でも戦いを勝利に導いています。

ここで石塔義房は飛躍するかに思われましたが、奥州総大将の位を剥奪されました。

観応の擾乱では鎌倉公方の足利基氏高師冬から取り戻す活躍を見せています。

その後も各地を転戦しますが、駿河大津城の戦いを最後に行方が分からなくなります。

尚、石塔氏に関しては資料が非常に少なく右京大夫政元氏の動画を元に記載しました。

動画に関しては記事の最下部にありますので、視聴してみてください。

石塔義房の登場

家格が低すぎる為か、石塔義房が鎌倉時代に何をしていたのかは、いまいちよく分かっていません。

石塔義房の資料上での初登場は建武元年(1334年)8月の「宮内少輔四郎入道」が、足利尊氏の代官として伊豆及び駿河国の所領を引き渡す様に命じた事が始りとなります。

足利尊氏の代わりに所領に引き渡しを命じており、駿河・伊豆の守護代もしくは、さらにその下の目代だったのではないかとされています。

足利一門の中でも家格が高い斯波高経などは、建武政権では守護に就いていますが、石塔義房は下のランクだったと言えるでしょう。

尚、1334年の時点で既に「入道」を名乗っており出家していたと考えられ、石塔義房は本来なら僧にでもなる予定の子だったのではないかとする説もあります。

石塔義房の生年も不明ですが、入道を名乗っている事から、この時点でそれなりの年齢だったともされています。

矢作川の戦いに参戦

1335年に北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が勃発しました。

中先代の乱で渋川義季や岩松経家が戦死しています。

足利直義が敗れ鎌倉まで北条時行に占拠されてしまいますが、足利尊氏が近畿から救援に来ると北条軍を打ち破りました。

この後に勝手に論功行賞を始めてしまいますが、後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞を討伐軍の長として派遣しています。

足利尊氏が引き籠った事で足利直義が高師泰らと共に朝廷軍を迎え撃ちますが、石塔義房及び石塔頼房の親子も従軍していました。

石塔義房は駿河や伊豆の守護代をしており、東海道に敵が進軍してきた事で、真っ先に武士団を率いて合流したのでしょう。

尚、矢作川の戦いは敗れますが、足利尊氏が自ら出陣して来ると箱根竹ノ下の戦いで、新田義貞及び脇屋義介の軍を破り勝利しています。

近畿に残る

足利尊氏は軍を率いて近畿に入りますが、奥州からやってきた北畠顕家の軍に敗れました。

石塔義房は三河の辺りで戦っていた記録も残っています

足利尊氏は赤松円心の進言により九州に落ち延びますが、息子の石塔頼房が同道し、石塔義房は近畿に残ったと考えられています。

足利尊氏が九州に逃れてから一カ月後に、石塔義房が熊野神社に領地を安堵する奉書を出しており、石塔義房が近畿に残ったとするのが妥当でしょう。

この翌月に足利尊氏は九州の多々良浜の戦い菊池武敏に勝利する事になります。

尚、太平記に「石塔(名前不明)」が九州に向かった事が書かれていますが、こちらは息子の石塔頼房だとされています。

駿河・遠江守護

足利尊氏は九州で復活すると上洛軍を起こしますが、この軍の中には息子の石塔頼房もいました。

足利軍は湊川の戦いで楠木正成を自害に追い込み、新田義貞を敗走させています。

後醍醐天皇は比叡山に籠りますが、足利尊氏に包囲されました。

この時に石塔義房は駿河や遠江の辺りで戦っていたようです。

後に和睦が成立しますが、後醍醐天皇は京都の花山院に幽閉されました。

足利尊氏は石塔義房の功績を評価し、1337年1月に駿河及び遠江の守護に任じる事になります。

石塔義房は守護にまで成り上がったわけです。

関宗祐との戦い

1337年2月に石塔義房及び石塔頼房は、常陸の関城攻撃に向かう事になります。

関城の城主の関宗祐はバリバリの南朝派であり、幕府の中枢は警戒し討伐を命じたのでしょう。

石塔義房は奥州相馬氏の相馬親胤を率いて関宗祐と戦う事になります。

奥州相馬氏は室町幕府に属して戦う事になりました。

石塔義房は相馬親胤と共に、関宗祐の勢力を後退させる事に成功しました。

尚、この時期に桃井直常も東国戦線(下野)に派遣された事が分かっています。

地頭職の引き渡し

建武四年(1337年)3月に足利尊氏が佐竹貞義に陸奥国雅楽地頭職を与えました。

佐竹貞義は中先代の乱で足利尊氏に味方し、新田義貞が鎌倉に攻め上って来ると、佐竹貞義の子である佐竹義篤が足利方として戦っています。

こうした功績もあり、佐竹貞義に足利尊氏は恩賞を与えたのでしょう。

足利尊氏は石塔義房に地頭職の引き渡しを命じています。

こうした事柄から、足利尊氏及び室町幕府の中枢が、石塔義房を奥州の責任者にしようと考えていた事が分かるはずです。

奥州総大将に就任

1337年4月には石塔義房が大将となり、南奥磐城にある三箱・湯本を攻撃しました。

さらに、石塔義房は相馬氏を率いて南朝の軍と戦った事も分かっています。

この頃に石塔義房が奥州総大将に就任したのではないかと考えられています。

室町幕府では東国の抑えとして若年の斯波家長や斯波兼頼に任せていましたが、斯波氏だけでは任務に耐える事が難しいと判断し、石塔義房を奥州総大将に任命する事にしたのでしょう。

ただし、別説として石塔義房が奥州総大将になったのは、斯波家長の戦死後だったとする説もあります。

奥州戦線

北畠親房の常陸入り

1338年に結城宗広の策で後醍醐天皇は大船団を組織し、南朝の重臣たちを地方に派遣しました。

こうした事情により北畠親房が常陸に入り、小田治久に迎え入れられています。

伊達行朝も常陸に入りました。

後に春日顕国も後に小田城に入る事になります。

奥州の南部政長も南朝に与し、曽我貞光を攻撃しました。

北畠親房が常陸に入った事で東国の南朝方の動きが活発になり、石塔義房も対応せねばならなくなります。

室町幕府の中央では高師冬を援軍として派遣しました。

石塔義房は高師冬と共に幕府軍として、南朝勢と対峙する事になります。

三迫合戦

北畠親房春日顕国が奮戦する中で、南朝では多賀城奪還を任務とする北畠顕信や興良親王も奥州に下向してきました。

北畠顕信は葛西清貞の日和山城に入り南部政長と合流し南下して、北畠親房らと挟み撃ちにして石塔義房を破る作戦を立てます。

こうした動きに対し石塔義房も三迫の近辺に布陣しており、三迫合戦が勃発しました。

石塔義房としては、南部政長の参戦を防ぐ狙いがあり、安東高季らに命じて根城を攻撃しています。

これが功を奏し南部政長は本国に戻りました。

三迫合戦では石塔義房が勝利し、北畠顕信を退ける事に成功しています。

さらに、結城親朝や小田治久も幕府方に寝返り、石塔義房は常陸合戦の勝利にも貢献しました。

奥州の権力者

常陸合戦は南朝の藤氏一揆など団結に欠ける部分もあり、北の石塔義房、南の高師冬の活躍により幕府軍の勝利が決まりました。

北畠親房は吉野に戻りますが、春日顕国は東国に残る事になります。

常陸合戦が終わってから間もない時期に、春日顕国は源信世と共に沼城を攻撃するなどし、大宝城を奪還するなど動き出しました。

1344年は春日顕国だけではなく、宇津峰城、霊山城が幕府に対し反旗を翻した年でもあります。

田村氏、伊達氏、広橋経泰らが反旗を翻しました。

石塔義房は奥州相馬氏に反乱鎮圧の命令を出しています。

春日顕国も結城直光により捕虜となりました。

石塔義房の活躍もあり、奥州の南朝勢は壊滅的な打撃を受けたわけです。

高師冬は常陸の南朝勢を打ち破るのが目的で、常陸合戦が終わると近畿に戻りました。

この時の石塔義房は奥州で大基盤を作れる可能性もあり、絶頂期だったと言えるでしょう。

石塔義房は幕府の奥州総大将であり、奥州で最も権限がある人物でした。

奥州総大将の解任

石塔義房は奥州の権力者と言える立場となりますが、足利尊氏により上洛を命じられました。

石塔義房は石塔義元と共に上洛しますが、奥州総大将を解任され、代わりに畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命されています。

奥州管領は二人制の体制となりました。

石塔義房が奥州総大将を解任されてしまった理由は不明ですが、足利尊氏が石塔義房が奥州総大将として力を持ちすぎるのを危惧したなどの説があります。

石塔義房は所領安堵の文書が増加しており、この独自の動きが足利本家にとって気に障る行為だったとも考えられています。

当然ながら、解任されてしまった石塔義房の心は穏やかではなく、足利尊氏を恨んだ事でしょう。

石塔義房は石塔義憲と共に奥州を離れますが、後に石塔義憲は奥州に戻り復権を望むべく戦う事になります。

観応の擾乱

楠木正行との四條畷の戦いが終わると、室町幕府の内部で足利直義高師直の派閥争いが激化し、観応の擾乱に突入する事になります。

こうした時期に石塔氏は直義派に属する事を決めました。

石塔氏は奥州総大将の位を足利尊氏から剥奪されており、根に持っていたとも考えられています。

桃井直常が生粋の直義派として名が通っていますが、石塔氏もまた足利直義を支持し続ける事になります。

息子の石塔頼房は石清水八幡宮を占拠したりと、近畿の直義派として活躍しますが、石塔義房は関東で戦いました。

東国は鎌倉公方の足利基氏を頂点としていましたが、この頃はまだ幼く、実際には直義派の上杉憲顕と尊氏派の高師冬の戦いとなります。

高師冬は足利基氏を抑え素早く鎌倉を出ました。

この時に、石塔義房は高師直らを襲撃し、足利基氏を取り返す大功を挙げています。

石塔義房に足利基氏を奪われてしまった高師冬は甲斐に逃亡しました。

高師冬は甲斐で最後を迎える事になります。

直義派の関東でも戦いで石塔義房は大きな功績を挙げたと言えるでしょう。

ただし、足利直義は最終的に足利尊氏に降伏しており、石塔氏は敗者となってしまいました。

尚、観応の擾乱後に武蔵野合戦が勃発しており、石塔義房は子の石塔義憲に足利尊氏暗殺を持ち掛けますが、断られた話があります。

ここから先は、石塔義房は南朝を支持し、石塔義憲が北朝を支持しており、石塔氏は二つに分裂してしまいました。

駿河大津城の戦いと石塔義房の最後

足利尊氏は観応の擾乱で直義に勝利する為に、南朝に降伏しており、これにより朝廷が一つになり正平一統が成されました。

しかし、南朝は正平一統を破棄し、後村上天皇や楠木正儀により、足利義詮を敗走させ京都を占拠してしまったわけです。

足利義詮は光厳上皇ら皇族を置き去りとしてしまいますが、後に奪還し南朝を京都から撤退に追い込んでいます。

こうした中で石塔頼房は近畿で赤松氏の軍と戦うなどしました。

石塔義房は駿河大津城におり、南朝として活動する事になります。

石塔義房が駿河で幕府軍に抵抗する事が出来たのは、過去に駿河守護をしており、義房を支持する何らかの勢力があったからだと考えられています。

南朝の武将になった山名時氏や石塔頼房も足利直冬を総大将に立てるなどし、京都を奪うなどしました。

しかし、京都はその度に室町幕府の軍勢により奪還され、大津城に籠城していた石塔義房も1年ほどで戦いに敗れています。

石塔義房の活動は1355年以降に見られなくなり、この頃に亡くなったとも考えられています。

石塔氏の動画

右京大夫政元氏の論文を読もうシリーズの動画となっています。

ご視聴してみてください。

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