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何顒(かぎょう)は多くの人脈を築き評価は高かった

2023年2月1日

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宮下悠史

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名前何顒(かぎょう) 字:伯求
生没年不明
時代後漢末期、三国志
画像亶夏王朝

何顒は正史三国志に名前が登場し、後漢書の党錮列伝には何顒伝が存在します。

何顒は南陽郡襄郷県の出身であり、家柄も良かった名士です。

何顒に関しては、正史三国志の荀攸伝の注釈・漢紀にも詳しく書かれています。

何顒は後漢書の党錮列伝に記録がある事からも、清流派の名士となるでしょう。

何顒は袁紹とは相性が良かったのか奔走の友となりますが、その事で袁術には恨まれました。

他にも、曹操荀彧を高く評価した話があります。

董卓が実権を握ると、何顒は荀攸らと董卓暗殺計画を考えますが、事が露見した事で捕らわれ自刃しています。

何顒は人脈が豊富で賢かったイメージもありますが、忍耐力は少し足りなかったのかな?とも感じました。

今回は清流派の名士である何顒を解説します。

名が通った者達と交わる

後漢書や漢紀によると、若い時の何顒は郭泰や賈彪らと洛陽で遊学をしたとあります。

賈彪と郭泰らとは似たような気質を持っており、当時の朝廷で権勢があった陳蕃と李膺らも何顒と深く付き合ったと言います。

何顒は友人の虞偉高の仇を討った人でもあり、任侠の人としても名が通っていたのかも知れません。

何顒は朝廷の臣下ともパイプがあり、将来を約束された様な人だったはずです。

しかし、党錮の禁が起きると、何顒もまた弾圧対象となりました。

陳蕃、李膺らが弾圧対象になった事で、何顒もまた弾圧対象となってしまったのでしょう。

何顒は党錮の禁の時には、姓名を変えて汝南に逃亡した話があります。

ここでも何顒は多くの者達と交わったと伝わっています。

才能ある者を評価

何顒は既に曹操の事を知っており、鄭玄や王儁らと同じく曹操を高く評価した話があります。

何顒は曹操を次の様に評価しました。

※後漢書より

何顒「漢は正に滅びようとしている。天下を安んじるのは、この人(曹操)だろう」

さらに、何顒は荀彧を王佐の才があると評価し、袁紹とは奔走の友となりました。

袁紹の奔走の友として許攸伍瓊らもおり、彼らとも何顒は仲良くやっていたと考える事が出来ます。

後に天下に名が通る曹操、袁紹、荀彧を高く評価した何顒には、人を見る目があったというべきでしょう。

官渡の戦いで袁紹から曹操に寝返った許攸とも、何顒は親しくしていた話があります。

さらに、何顒は党錮の禁により、弾圧対象になった者を救うなど献身的な活動を行いました。

しかし、桓帝の時代からの党錮の禁を何顒は、苦々しく見ていた様でもあり、袁紹と共に計画を練ったとあります。

何顒は一年に数回洛陽に潜伏した話もあります。

袁術に恨まれる

何顒は袁紹と親しくしていましたが、同じく汝南袁氏の袁術とは距離を取っていた様です。

袁術としては何顒が袁紹とばかり親しくするのは不快であり、何顒を憎んだ話があります。

漢末名士録には、袁術が大勢の人々がいる席上で、何顒の三つの罪をあげた話があります。

※漢末名士録より

袁術「王徳弥は見識が高い大先輩なのに、高名明徳の人なのに伯求(何顒)は挨拶にも行かない。

これが第一の罪だ。

許子遠(許攸)は貪欲で不純な行動をしているが、伯球は許子遠と親しく付き合っている。

これが第二の罪だ。

郭泰や賈彪は清貧を貫いているのに、伯球は太った馬にのり最上級の着物を着て道を闊歩している。

これが第三の罪だ。」

袁術としては何顒の事を嫌っており、言い掛かりとも取れる発言と見る事も出来るでしょう。

ここで、陶丘洪が王徳弥許攸の性格を分析し、フォローを入れますが、袁術の気持は収まらなかったわけです。

後に袁術は宗承と会った時に、何顒の事を悪く言い宗承に宥められて漸く収まった話もあります。

何顒は多くの名士や天下の豪傑と交わっており、それらと比べると袁術の能力が物足りなく感じ近づかなかったのかも知れません。

董卓政権

党錮の禁が解除されると、何顒は司空府から招聘を受け会議があると、何顒の意見は皆を圧倒しました。

この辺りは、何顒が才能豊かだとする証となるでしょう。

何顒は北軍中侯に栄転しますが、ここで董卓政権が勃発しました。

党錮の禁は解除されましたが、その後も外戚と宦官の政争は続き、大将軍の何進と宦官が共倒れとなり、少帝や陳留王を保護した董卓が実権を握ったわけです。

董卓は何顒を長史に任命しました。

しかし、何顒は名士層の人間であり、董卓に対しての反感が大きかったわけです。

因みに、袁紹曹操が反董卓連合を結成すると、何顒、伍瓊周毖らは董卓に信頼されながらも、袁紹に内通していた話があります。

何顒の最後

荀攸伝によると議郎になった何顒は、荀攸鄭泰、伍瓊、种輯らと董卓を暗殺する計画を立てる事になります。

何顒らは董卓の無道は夏の桀王や殷の紂王よりも酷く、董卓を誅殺し春秋五覇の斉の桓公や晋の文公の様に王室を補佐しようと考えたわけです。

しかし、直前になって計画が董卓の知られる所となってしまい、鄭泰らは逃げますが、何顒と荀攸は捕らえられ獄に入れられました。

何顒は投獄された事で絶望してしまい自ら命を絶った事が、正史三国志に記録されています。

これにより何顒は最後を迎えました。

尚、後に董卓が呂布王允により殺害され、荀攸は釈放された事を考えると、何顒ももう少し耐えても良かったのではないか?とも感じています。

何顒は多くの人と交わり弁もたったはずなのに、忍耐力が足りなかったとも感じています。

因みに、荀彧が尚書令となると、叔父の荀爽の遺体を引き取りますが、合わせて何顒の遺体を引き取り、荀爽の墓の側に埋葬した話があります。

荀彧に取って見れば、自分に「王佐の才」があると言ってくれた何顒に対し、感謝の気持ちもあったように思いました。

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