
| 名前 | 赫居世(かくきょせい) |
| 生没年 | 前64年?ー後4年 |
| 国 | 新羅 |
| 一族 | 配偶者:閼英 子:南解次次雄 |
| コメント | 卵から生まれた新羅の開祖 |
赫居世は新羅の始祖として考えられている人物です。
卵から生まれたなどの話もあり、神話の中の人物ではないかとも考えられています。
それでも、新羅本紀では最初の新羅王として、描かれている状態です。
赫居世の時代に前漢の楽浪郡や倭人の軍が攻めてきた記録もありますが、赫居世は難局を乗り切りました。
妻には閼英を迎え、新羅の開祖らしく聖人として描かれています。
赫居世の誕生
三国史記によると、新羅の始祖の姓は朴氏であり、諱は赫居世だとあります。
辰韓には六村があり、この中に高墟村がありました。
高墟村の蘇伐公が楊山(南山)の麓をみると、蘿井の近くの林の中で馬が跪く様に嘶いていました。
不思議がり付近に行ってみると、突如として馬の姿が見えなくなり、大きな卵があったわけです。
その卵を割ると中から幼児が現れ、出てきた幼児を育てる事になります。
尚、三国遺事では卵から幼児が誕生した後に、東泉で浴し、身、光彩を生ず。鳥獣が舞い天地が振動し日月清明となり、これ故に赫居世と名付けたと言います。
この文章から赫居世は「光」とも関係しており、光明神としての神格も付与されている事が分かるはずです。
こうした事情から赫居世の「赫」の文字は「輝く」の意味があり、光から連想されたのでしょう。
後に赫居世は新羅を建国しますが、国号を徐那伐で王号が居西干だと記録されています。
居西干は辰韓では王者の事を指しました。
赫居世の「居世」と居西干の「居西」の読み方が一致しており、重ねて表記したとみられています。
ただし、卵から人間が生まれるわけもなく、赫居世はあくまでも新羅の伝説上の王であり、本当に実在したのかは不明です。
仮に実在しなかった場合ですが、赫居世を始祖とする系譜が、いつ頃誕生したのかも分かっていません。
辰韓では瓢(ひさご)のことを朴と呼び、始めて赫居世が姿を現した時の大きな卵が瓢のようだったので、朴を姓としたとあります。
赫居世はなぜ卵から生まれたのか
赫居世の誕生の話を聞いて「人間が卵から生まれるわけがない」と感じたのではないでしょうか。
普通で考えれば卵から人間が生まれるのは異常事態ですが、神話の世界では卵から人間が生まれるのは、それほど不思議な話ではありません。
卵生神話を研究すると、どうやら南方のインドネシアなどの東南アジアに多い事が分かっています。
さらに言えば、卵生神話の分布は海岸沿いに北に向かって拡がり、新羅まで到達したと言えるでしょう。
内陸部になると卵生神話は、見られなくなります。
後に新羅王になった脱解や金官国の始祖の首露王、高句麗の朱蒙も卵から生まれた事になっています。
尚、卵生神話は南方系の神話であり、新羅は南方系の文化圏に属していたとも見られている状態です。
新羅の建国
その子が10余歳になると聡明で老成だったと言います。
辰韓の六村の人々は、赫居世の出生が神秘的であり、これを尊び君主に擁立したと言います。
三国史記には前漢の孝宣帝の五鳳元年甲子の年に即位し、これを西暦に直すと紀元前57年であり、文献上では高句麗や百済よりも新羅の方が建国が早い事になっています。
ただし、高句麗、百済、新羅の順に建国されたと考える専門家も多いです。
赫居世は妻に閼英を迎え、二人合わせて二聖と呼びます。
威徳で倭人が撤退
三国史記によると、紀元前50年に倭人が兵を出し新羅の辺境に攻め込もうとしたとあります。
この倭人は日本列島の倭人なのか弁韓の辺りにいた倭人なのか、伽耶の人々なのかは不明です。
倭人は赫居世には神のような威徳があると知り引き返したとあります。
これが真実なら、倭人は戦わずに撤退したのでしょう。
尚、紀元前50年の倭人の戦いが三国史記で見られる、最初の倭と新羅の戦いの話となります。
新羅の発展
三国史記には前49年と前44年にほうき星が現れた記述があります。
前41年に赫居世は王妃の閼英と共に、六部(六村)をみてまわり、農業や養蚕を奨励し土地の生産量向上を目指しました。
前39年には弁韓が国をあげて服属したとあります。
前37年に赫居世は王都を築き、これが金城と呼ぶ様になりました。
この年に高句麗の始祖の東明王が即位したとあります。
前34年に日食が起き、前32年に金城に宮殿を造営したとあります。
前28年にも日食が起こったとあります。
これらの記述を見ると、赫居世の元で新羅は首都が出来上がり、国が発展している様に見えるのではないでしょうか。
徳で楽浪の軍を撤退させる
前28年に日食が起きただけではなく、楽浪の軍隊が侵入して来たと三国史記にあります。
楽浪というのは、朝鮮半島北部の前漢の直轄地である楽浪郡の事なのでしょう。
当時の前漢の皇帝は成帝であり、前漢も終わりが見えてきた頃です。
この時に、楽浪の人々は新羅に攻め寄せたわけですが、新羅は辺境の人々であっても夜戸締りをせず、生産物を野積みにしていたと言います。
中国の歴史書の記述に国がよく治まっている例として「道に物が落ちていても拾う者がいない」などの話がありますが、同様に新羅も国がよく治まっていたと言いたかったのでしょう。
新羅の様子を見た楽浪の軍隊は「この地方の人々は盗みをしない。道義が行われている国なのだろう。それにも関わらず、我々は軍隊を使って密かに襲撃しようとしている。これでは盗賊ではないか。恥じないわけにはいかない」と述べたと言います。
こうした楽浪の将兵らは新羅の侵攻を止め、撤退したと言います。
聖人である赫居世のよく国を治めた話にもなっていますが、本当にこのような事が起きたのかは不明です。
馬韓王の死
瓠公は馬韓王に文句を言われますが、赫居世と閼英の徳を語り、新羅の統治を称賛しました。
馬韓王は怒り瓠公は殺されそうになりますが、新羅に無事に帰還しています。
この翌年である前19年に馬韓王が亡くなっています。
ここである人が「西方の馬韓王は我が国の使者を辱めました。喪中の馬韓を攻撃すれば、その国を平定するまでもなく我が国に従う事でしょう」と進言しました。
馬韓王の死に付け込み、馬韓を攻撃すれば、その国を取れると進言した事になります。
しかし、赫居世は「人の不幸に付け込むのは、人間のすることではない」とし却下しました。
赫居世の徳の高さが分かる話にもなっているのでしょう。
討伐する代わりに赫居世は馬韓に弔問の使者を派遣しています。
尚、馬韓王が亡くなった翌年である前18年に百済の温祚王が即位した事になっています。
三国史記では、これが百済の建国となっている状態です。
東沃沮との交流
三国史記によると前5年に東沃沮の使者が訪れたとあります。
東沃沮は新羅に良馬20匹を献上しました。
使者は「我が国の王は、南韓に聖人が現れたと聞き、私を派遣し貢物を献上したのです」と述べています。
聖人は当然ながら赫居世の事であり、ここでも徳の高さを表す話となっています。
赫居世の最期
西暦3年の秋9月に、二匹の龍が金城の井戸の中に現れ、激しい雷雨が起こり、城南の門に雷が落ちたと言います。
翌年である西暦4年の春3月に赫居世がお隠れになったと、三国史記は記録しました。
新羅は赫居世の遺体を虵陵に葬り、虵陵は曇巌寺の北にあると記述しました。
赫居世の後継者は南解次次雄となり、2代目新羅王となっています。
赫居世の陵墓は現在の五陵の一つだとされています。
| 建国者:赫居世 | 次代:南解次次雄 |