エジプト新王国 古代エジプト

アイ(エジプト第18王朝)は宰相からファラオになった

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宮下悠史

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名前アイ
生没年生年不明ー前1319年頃
在位前1323年頃ー前1319年頃
時代エジプト新王国
一族父:ユヤ? 母:チュウヤ 配偶者:ティイ
妹:ティイ?(アメンホテプ3世の妻)
コメント宰相からファラオになった老臣

アイはエジプト第18王朝のファラオであり、ツタンカーメンが亡くなると即位しました。

アイは異色のファラオであり、アメンホテプ3世の妻のティイの一族であり、王家の直系とは外れています。

しかし、ツタンカーメンが亡くなると後継者がおらず、ツタンカーメンの妻のアンケセナーメンを妻として迎えファラオとなりました。

この時のアイはかなりの老齢だったとも考えられています。

アイに関しては野心家でアンケセナーメンと結婚したとする説もありますが、エジプト第18王朝の後継者がいなくなり、仕方がなくファラオになったとする説があります。

それでも、アイは宰相からファラオになってしまった珍しい人物だったと言えるでしょう。

アイが亡くなると大将軍だったホルエムヘブがファラオとなり、ホルエムヘブを最後にエジプト第18王朝は幕を降ろしました。

アイはエジプト文明の全盛期でもあるアメンホテプ3世の時代から、王家に仕えていたと考えられており、長生きしたのは確実でしょう。

尚、エジプト第13王朝にもアイというファラオがいますが、今回紹介するのはエジプト第18王朝のファラオのアイです。

アイの出自

アイはアクミームの出身だと考えられており、アメンホテプ3世の妻のティイと出身地は同じです。

ティイとアイの関係は兄妹とも考えられており、アイはアメンホテプ3世の義兄だとも見られています。

こうした事情から、アイの父親はユヤで、母親はチュウヤだともされています。

これが本当であれば、アイは外戚として権力を握る様になったとも考えられます。

ただし、別説もありネフェルティティとムトネジュメトの父親とする説もありますが、この辺りもはっきりとしない状態です。

ネフェルティティにしても、知名度はありますが、ミタンニ王国の出身などの説もあり謎が多いと言えます。

余談ですが、アイの妻の名前もティイであり、アメンホテプ3世に嫁いだティイとは別人です。

尚、アイの墓には妻のティイの姿は描かれていますが、ファラオになる為に結婚したアンケセナーメンの姿がありません。

宰相からファラオへ

エジプト第18王朝では、アクエンアテンが亡くなるとネフェルネフェルウアテンの単独統治があり、ツタンカーメンが即位しました。

ツタンカーメンはこの時にまだ8歳ほどだったと考えられており、宰相のアイや大将軍のホルエムヘブが中心となり政治を行う事になります。

しかし、ツタンカーメンも子孫を残さず、若くして世を去る事になります。

ツタンカーメンが亡くなると最有力の後継者候補が、妻のアンケセナーメンだったとされています。

ここで宰相のアイがアンケセナーメンと結婚し、ファラオとなりました。

エジプト第18王朝の初代ファラオからの男系での血統は絶たれたと言えるでしょう。

イアフメス1世からの男系での血統は絶たれました。

エジプト文明では男系の王統が絶たれた時点で、新王朝の樹立とみなし王朝交替がされたとみなされる事もありますが、アイとホルエムヘブは治世が短かった事もあり、新王朝樹立とはみなされなかったのでしょう。

尚、ヒッタイトの記録でエジプトの王女が「自分には息子がおらず、家臣を夫にしたくない」とシュッピルリウマ1世に訴え「ヒッタイトの王子の一人を夫にしたいから送って欲しい」とする書簡がみつかっています。

この王女がアンケセナーメンだったとする説があり、若いアンケセナーメンが老齢のアイを嫌がったとする説もあります。

ヒッタイトのシュッピルリウマ1世は王子のザナンザをエジプトに派遣しますが、ザナンザは殺害されてしまいました。

これがザナンザ事件ですが、ザナンザを殺害したのはアイだったのではないかとする説もあります。

ただし、シュッピルリウマ1世に書簡を送った王妃は、ネフェルティティだったとする説もあり、はっきりとしない部分が多いです。

それでも、アイがファラオになる前後で、ひと悶着あった可能性もあります。

アイとアンケセナーメン

ベルリンのエジプト博物館にアンケセナーメンとアイが結婚した事を示す指輪があります。

この指輪はアイとアンケセナーメンが共同統治を行った事を示すものとも考えられています。

ただし、これがアンケセナーメンに関する最後の記録であり、この後にどうなったのかは不明です。

ツタンカーメンとアイ

ツタンカーメンの墓にアイが描かれています。

(AI作成図)

右側のヒョウ柄の服装をしたのがアイです。

画像では同じくらいの年齢に見えますが、実際のアイはツタンカーメンの祖父のアメンホテプ3世と同世代とも考えられており、年齢差はかなりあった事でしょう。

アイはミイラとなったツタンカーメンに口開けの儀式を行っており、二人は特別な関係だった事を表しているともされています。

ただし、読み解き方は人それぞれであり「エジプトの国を治める為の決意表明」とする説もあれば、「権威付けの為に描かせた」とするものもあります。

それでも、アイは未完成のツタンカーメンの葬祭殿を完成させ、ツタンカーメンを「息子」と呼びました。

これがアイの王位継承の正統性を示すともされています。

アイは野心家だったのか

ツタンカーメンに仮に子がいたとすれば、アイはファラオになる事が出来なかったはずです。

見方によっては、ツタンカーメンの死で一番得をしたのがアイであり、彼によるツタンカーメンの暗殺説が存在しています。

先に述べた様に、アイの墓には元妻のティイの姿は描かれましたが、アンケセナーメンの姿は描かれておらず、二人は考え方の違いもあり、上手く行ってはいなかった可能性もあるはずです。

さらに言えば、アクエンアテンの時代のアイは熱心に、アテン神を信仰していたはずですが、死後にはアメン神官団と手を結び、アメン信仰を行っています。

これらはアクエンアテンに対する裏切りの様にも見えますが、高官を続けていた事が分かっており、周りの状況を把握し上手く立ち回ったといえるのではないでしょうか。

ツタンカーメンの時代に大将軍だったホルエムヘブの名が消えており、政権の中枢から外れたともみられています。

尚、アイはツタンカーメンの葬祭殿の巨像を自分のものにしてしまいますが、死後にはホルエムヘブのものとなりました。

アイの最期

アイは紀元前1319年頃に亡くなったと考えられています。

老齢でファラオになったアイですが、年齢には勝てなかったのか僅か4年ほどの治世しかありませんでした。

アイの墓は西の谷のアメンホテプ3世の墓の付近にあります。

墓がかなり立派である事から、アクエンアテンがアケトアテンに遷都する前に造営を始めたものを利用したとも考えられている状態です。

他にも、本当はツタンカーメンのお墓にする予定だったなどの説もあります。

アイの墓は肖像や名前が削られており、故意に存在を抹消しようとしたのではないかともされています。

人に恨まれており、結果として墓が荒されたと考える専門家もいるようです。

次のファラオとなるホルエムヘブが抹殺しようとしたなどの話もあります。

尚、アマルナ(アケトアテン)の方にも、アイの墓が見つかっており、こちらはアテンを讃える詩が刻まれています。

因みに、エジプトの王名表ではアクエンアテン、スメンクカーラー、ネフェルネフェルウアテン、アイの名が消されており、アメンホテプ3世の次のファラオがホルエムヘブとなっている状態です。

アクエンアテンが行ったアマルナ革命は、エジプト新王国の様々な人にとって都合が悪くアテン信仰を抹殺しようとしたとも見られています。

王名表ではアメンホテプ3世の次のファラオがホルエムヘブとなっていますが、アイを始めアマルナのファラオは間違いなく存在しました。

因みに、アイはアクミームの縁者である将軍ナクトミンを「摂政」「王の息子」として後継者に考えていたようですが、しかし、アイの死後に後継者になったのは政敵とも考えられるホルエムヘブだったと言えるでしょう。

先代:ツタンカーメンアイ次代:ホルエムヘブ

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