韓倉は戦国策に名前がある人物で、趙の幽穆王に取り入り李牧を死に追いやった人物です。
史記では郭開が李牧を讒言し、趙の幽穆王が処刑した話が掲載されていますが、戦国策だと韓倉の讒言で李牧は命を落としています。
史記よりも戦国策の方が李牧の死は、生々しく描かれており韓倉の佞臣ぶりも際立っています。
尚、李牧が亡くなり五カ月後に趙の首都邯鄲が王翦により、落城した話がありますが、この時に韓倉がどの様な動きをしたのかは記録がなく不明です。
当時の秦では李斯や尉繚の献策により、秦王政は他国の大臣への買収を大いに行っていた話があります。
それを考えると、韓倉は趙の滅亡後には、秦の大臣のポストが用意されていたのかも知れません。
因みに、史記に登場する佞臣である郭開と韓倉は行いが非常に似ている事から、同一人物の可能性もあるのかも知れません。
春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムでは、郭開と韓倉は別人として描かれていますが、どちらも佞臣だと言えるでしょう。
趙の幽穆王に信任される
戦国策の秦策に趙の滅亡に関する記述があり、趙の仮の宰相である司空馬が趙の幽穆王に進言した話があります。
しかし、司空馬の言葉は現実的ではないと判断したのか、趙の幽穆王は却下しました。
司空馬は趙の幽穆王に別れを告げますが、趙から出国する時に、平原の令に次の様に述べています。
司空馬「趙王様の臣下に韓倉なるものがおり、曲がった方法で趙王様に気に入られ、親しい間柄となっています。
韓倉は賢臣や功臣を妬む性質でもあります。
現在の趙は滅亡寸前ですが、趙王様は必ずや韓倉の言葉を信じ、用いられるに違いありません。
武安君(李牧)は韓倉により命を落とす事になるでしょう。」
ここでいう武安君は李牧を指します。
司空馬の言葉を見ると、韓倉は明らかに佞臣であり、李牧一人で持っている様な状態である趙を滅亡に導く危険性がある人物だと分かります。
司空馬は秦では、呂不韋の下で役人をしていた事もあり、趙だけではなく秦の事情にも詳しく、趙の滅亡を予言する事となります。
そして、司空馬の予言の通りの展開となっていくわけです。
李牧を自刃に追い込む
李牧は肥下の戦い、宜安の戦い、番吾の戦いなどで秦軍を大いに破り、趙を救った名将です。
李牧は過去に、匈奴の大軍を大破した事もあり、春秋戦国時代において最強クラスの名将だとも言えます。
韓倉は李牧を讒言し、趙の幽穆王は李牧の将軍職を解任した事で、趙葱、顔聚が将軍にとなりました。
韓倉が李牧の取り調べを行う事となり、韓倉は次の様に李牧を責めます。
韓倉「過去に将軍(李牧)が戦いに勝利し、趙王様は盃を賜わった。
その時に将軍は自ら寿を述べられたが、短剣を弓籠手としており、これは死罪に当たる。」
韓倉は李牧の過去の態度を問題視し、李牧に死罪を申し渡しますが、李牧は次の様に答えます。
李牧「手前は体が悪く王様の前で不格好な様子を見せては、礼に欠き死罪に値すると考え恐懼していました。
そこで指物師に木の棒を用意させ、手を固定したのでございます。
疑いになるのであれば、ご覧になって頂きたい。」
李牧は言葉の通りだと、韓倉に体を見せたわけです。
さらに、李牧は韓倉に趙の幽穆王への釈明を依頼しました。
しかし、韓倉は次の様に述べています。
韓倉「趙王様からの命令で、其方に死を賜わっているのだ。
許される事はないし、私には趙王様に意見する事が出来ない」
李牧は韓倉の言葉を聞くと、自刃しようとしますが韓倉は次の様に述べます。
韓倉「人臣は宮中で自害してはならない。」
李牧は門を出ると自刃しようとしますが、体が悪く自刃する事が出来なかったわけです。
李牧は匈奴や秦、燕などの軍と激闘を繰り広げた過去があり、戦場を走り回っていた事から、体はボロボロの状態だったのでしょう。
そこで李牧は剣を口に咥えた状態で、柱にぶつけ命を絶ちました。
これが李牧の最後であり、戦国策では李牧の最後に韓倉が大きく関わっている事が分かります。
戦国策によれば李牧が亡くなってから五カ月後に、趙は滅亡しました。
秦の将軍の名前が書かれていませんが、王翦、楊端和、羌瘣の三将が邯鄲を陥落させ、趙の幽穆王を捕虜にした事を指すのでしょう。
尚、趙の幽穆王の兄である趙嘉が代王嘉として代で即位しますが、6年後に王賁に攻められ、趙は完全に滅亡しています。
韓倉の評価
韓倉ですが、戦国策の話が本当であれば、かなりの佞臣だと言えるでしょう。
しかし、趙の幽穆王の周りでよからぬ事を考えるのは、韓倉だけではなく母親の悼倡后、趙の悼襄王時代からの佞臣である郭開、春平君などを確認する事が出来ます。
それを考えると悼倡后、韓倉、郭開、春平君など、趙の幽穆王の周りには、佞臣が多くいたと考えるべきなのかも知れません。
佞臣がいる限りは趙に廉頗、藺相如、趙奢、李牧、司馬尚などが揃っていたとしても、滅亡は逃れらなかった様にも思いました。
尚、戦国策では李牧と韓倉の後に、司空馬の予言が的中した事を述べ「国が滅びるのは賢人がいないからではない。賢人がいても用いる事が出来ないからだ。」と述べて結びとしています。
趙の幽穆王は賢臣の李牧を用いずに、郭開を用いてしまった事で、趙は破滅に向かったと言えるのかも知れません。
因みに、最初に述べた様に韓倉が趙の滅亡後に、どの様になったのかは不明です。
しかし、韓倉が秦の大臣になった可能性も十分にある様に思います。
秦は天下統一しますが、始皇帝死後に胡亥と趙高の暴政もあり、短期間で滅んでいます。
もしかしてですが、秦の滅亡は李斯や尉繚の献策で佞臣を大量に買収したが、そのまま秦の大臣にしてしまい、秦が天下統一した時には他国の佞臣の多くが秦の大臣になっていた可能性もあるのかも知れません。
秦が買収した佞臣たちが、その後にどうなったのかは興味深いと感じます。