韓嵩は劉表や劉琮、曹操に仕えた人物です。
官渡の戦いの時に、韓嵩は曹操に味方する様に進言しました。
劉表は偵察の為に韓嵩を都に派遣しようとしますが、韓嵩は「都に行ったら劉表様の臣下としていられなくなる可能性がある」と述べてから出発しています。
韓嵩は都では官職を授けられ帰国しますが、劉表は韓嵩が裏切ったとし、処刑しようとした話があります。
史実の韓嵩を見ると正論は述べていますが、投獄されてしまった不幸な人物とも言えるでしょう。
ただし、韓嵩は荊州の名の通った名士だったようで、蔡氏の言葉に助けられています。
尚、正史三国志蜀書向朗伝を見ると、向朗は若い頃に司馬徽に師事し徐庶、龐統、韓嵩と親しかったとあります。
その事から、韓嵩も司馬徽の弟子だったとも考えられています。
ただし、同じく司馬徽に師事した諸葛亮と韓嵩に、どれほどの親交があったのかは不明です。
劉表を諫める
西暦200年に曹操と袁紹の間で、官渡の戦いが勃発しました。
この時に劉表は袁紹に味方する約束をしておきながら兵も出さず、曹操の援助もしないなど中立を保ち傍観しようとしています。
劉表配下の韓嵩と劉先は、中立を決め込めば曹操にも袁紹にも恨まれるから、得策ではないと進言しました。
韓嵩と劉先は劉表に「官渡の戦いで勝利するのは曹操に違いない」と述べ、曹操を援助する様に述べます。
しかし、劉表は優柔不断であり韓嵩や劉先の言葉を聞いても決断が出来ませんでした。
この時に、蒯越も劉表に曹操に味方する様に進言しますが。ここでも劉表は決断出来なかったわけです。
曹操への使者となる
劉表は決断はしませんでしたが、韓嵩に命じて曹操の様子を探らせる事にしました。
傅子によれば、韓嵩は次の様に述べた話があります。
韓嵩「聖人は時代の変化に従った柔軟な生き方をわきまえています。
それに次ぐ者は、かたくなに自分の信条を守り抜く者だと聞いております。
私は自分の信条を守る人間であり、主君に仕えれば主君の為に動くのが原則です。
今の私は劉表様の臣下として名を連ね、劉表様の命令に従うのが原則だと考えます。
私が見るに曹公(曹操)は英邁な方であり、天下を救う方だと感じております。
劉表様が天子(献帝)に帰順され、曹操に帰服するのであれば、百代先までの利益を享受する事が出来るに違いありませぬ。
その様な事を考えて、私を都に派遣するのであれば、何の問題もありません。
しかし、劉表様の策が定まっていないのであれば、私を使者とするのは相応しくないと考えます。
私が都に登り天子様が官職を授与したのであれば、私は天子様の家来となり劉表様の旧臣に過ぎなくなってしまいます。
そうすれば、私は天子様の命令を守り抜くのが信条となり、劉表様の為に死ぬことが出来なくなってしまうのです。
劉表様は、この事についてしっかりと考えた上で、私を都に派遣し、私の気持を裏切らない様にして頂きたい」
韓嵩は自分が都に登れば、後漢王朝の献帝から官位を与えられ、劉表の家臣ではいられないと述べたわけです。
さらに、韓嵩としても都から帰った時に、劉表の怒りを買わない為の保険を掛けた事になるのでしょう。
韓嵩の言葉に対し、劉表な何と言って答えたのかは記録がありませんが、この後に韓嵩が都に行った事を考えれば、劉表は韓嵩の言葉を承諾したはずです。
韓嵩が都に行くと献帝は侍中に任命し、零陵太守に昇進させました。
劉表の怒りを買う
韓嵩は劉表の元に帰還すると、朝廷と曹操の恩徳を賞賛したわけです。
しかし、劉表は韓嵩が曹操に寝返り、曹操の為の発言を行っていると考え不快に思います。
劉表は軍兵など数百人を集め韓嵩と会見を行い、激怒し韓嵩を斬る構えをし、次の様に述べています。
劉表「韓嵩よ。よくも儂を裏切ってくれたな」
韓嵩はこうなる事を都に上る前に、劉表に伝えていたにも関わらず、劉表は激怒し韓嵩を処刑しようとしたわけです。
劉表は韓嵩に危害を加えようとしますが、大臣達は韓嵩に謝罪させようと促しました。
しかし、韓嵩は劉表に対し気概を見せ、次の様に述べています。
韓嵩「劉表様が私を裏切ったのであり、私が劉表様を裏切ったわけではありません」
この時の韓嵩は「身動き一つしなかった」とあり、堂々とした態度で劉表に意見を述べたのでしょう。
韓嵩の言う事は正論だとも感じました。
しかし、劉表の怒りは収まらず、韓嵩を処刑しようとします。
ここで劉表の妻である蔡氏が、次の様に劉表を諫めました。
蔡氏「韓嵩は祖国の名門の出です。韓嵩の言葉は率直であり死罪にする事は出来ませぬ」
蔡氏の言葉を聞いた劉表は韓嵩の処刑は取りやめますが、韓嵩の身柄を拘禁した話があります。
韓嵩は正論を言ったにも関わらず、劉表により牢に入れられてしまったのでしょう。
劉表と言えば、三国志演義などの優柔不断なイメージが強いですが、史実の劉表は時として粗ぶった態度を見せるわけです。
韓嵩は牢に入れられてしまったわけですが、何処かのタイミングで牢を出る事が出来た様です。
蔡氏の一族である蔡瑁が取りなしたか蒯越、韓嵩、鄧義、劉先ら新曹操派の者達が取りなしたのでしょう。
西暦207年に劉表が亡くなり、劉琮が後継者になると韓嵩が劉琮を諫めた話があり、それまでには出獄していたのでしょう。
劉琮に降伏を勧める
劉表の後継者には蔡瑁や張允が強く後押しした事で、劉琮と決まりました。
劉琮は次子であり、長男の劉琦とは敵対関係になった話があります。
袁氏を滅ぼした曹操は南下を始めますが、劉琮は情勢を傍観しようと考えました。
劉琮は劉備を頼りにしたのではないか?とする話もあります。
ここで蒯越、韓嵩、傅巽らは劉琮を諫め、降伏を勧めました。
劉琮も降伏を決断した事で、荊州は曹操の領土となり、劉備は孫権の助けを求め江陵を目指す事になります。
荊州が降伏すると曹操は劉琮を青州刺史に任命し厚遇したわけです。
さらに曹操は、韓嵩には大鴻臚、蒯越は光禄勲、鄧義は侍中、文聘には江夏太守と荊州の人材を優遇しています。
韓嵩は曹操により大鴻臚に任命されますが、この時の韓嵩は病身であり、自宅で大鴻臚の印綬を拝領した話があります。
韓嵩は大鴻臚をなったのを最後に記録が終わる事を考えると、大鴻臚になった直後に病死し、最後を迎えた可能性がある様に思いました。
韓嵩の能力値
三国志14 | 統率25 | 武力15 | 知力70 | 政治75 | 魅力60 |