名前 | 里鳧須(りふす) |
生没年 | 不明 |
主君 | 重耳 |
里鳧須は重耳に仕えた臣下です。
ただし、里鳧須の名は史記や春秋左氏伝にあるわけではなく、登場するのは前漢の韓嬰が書いたとされる韓詩外伝や劉向の新序などです。
里鳧須は亡命時代の重耳に従いますが、重耳を裏切り盗みを働き逃走しました。
重耳らは飢えに苦しみ、介子推の股の肉を食べて飢えを凌ぐ事になります。
しかし、重耳が楚や秦の援助により帰国し、晋の文公となるや里鳧須が面会を望み、罪を許された話が伝わっています。
個人的には里鳧須の話は創作ではないか?とも考えております。
司馬遷も話が出来過ぎていると考え、史記では採用しなかったのではないか?とも感じました。
亡命公子から食料を盗む
晋の献公は驪姫を娶り、奚斉が生まれると驪姫が奚斉を後継者にしようと暗躍し国が乱れました。
驪姫の乱により、重耳と夷吾は国外に亡命し申生は自害しています。
重耳の亡命に付き従ったのが、里鳧須です。
ただし、里鳧須に関しては、重耳に仕えた経緯や出身地などは分かってはいません。
亡命中の重耳が曹の国を通りますが、曹の国で里鳧須が重耳を裏切り、食料や財物を持ち出し逃走しました。
これにより重耳らは、食料が無くなってしまい窮地に陥ってしまいます。
この時は、従者の一人である介子推が股の肉を重耳に差し出した事で、飢えを凌ぐ事が出来たと伝わっています。
しかし、常識的に考えて股を差し出しても、飢えを凌げるとは思えませんし、介子推の忠烈ぶりを持ち上げた様なフィクションだと感じました。
尚、史記に重耳が衛で食料が尽きた時に、野人に食料の援助を依頼したが、野人は土を盛って出し重耳は怒りましたが、趙衰が有難く受け取った話があります。
こちらであれば、里鳧須が食料を盗み重耳の一行が食料が尽き、野人に食料を依頼したとなり、話の辻褄が合う様に感じました。
ただし、重耳が食料が尽き飢えに苦しんだのは衛であり、里鳧須が食料を盗んだのは曹である事から、ずれが生じてしまいます。
髪を洗う者
重耳の亡命は19年に及びましたが、楚の成王や秦の穆公の後援を得た事で、国に戻り晋公として即位する事になります。
重耳が晋君となるや里鳧須が面会を望んで来ました。
普通に考えれば重耳は里鳧須を恨んでいるはずであり、面会も許されなかった事でしょう。
しかし、里鳧須は「晋国を安定させる方法がある」と述べ、謁見を望みました。
里鳧須は面会を望みますが、重耳は会おうとせず人を代わりに派遣し、次の様に述べさせています。
重耳「お前(里鳧須)はどの面を下げて、儂に謁見を望んだのだ」
晋の文公・重耳は里鳧須に金品・食料を盗まれた事を覚えており、謁見を拒否したわけです。
ここで、里鳧須は次の様に述べました。
里鳧須「重耳様は沐浴をしているのでしょうか」
これに対し使者が「沐浴をしているわけではない」と答えました。
里鳧須「沐浴をして頭を洗っている者は、考えが逆さになると聞いております。
心が逆さになれば、言う事も逆さになるはずです。
重耳様は沐浴もしていないのに、何故、反対の言葉を言われるのでしょうか」
使者が里鳧須の言葉を重耳に伝えると、重耳は里鳧須に興味を持ったのか謁見する事にしました。
里鳧須の沐浴の話で、重耳に興味を持たせる事に成功したわけです。
許される
里鳧須は重耳に会うと、次の様に述べました。
里鳧須「貴方様(重耳)が国を離れてから長く、臣民の者が多く主君と敵対する事になりました。
貴方様は晋公になる事が出来ましたが、多くの臣民は、貴方様を恐れているのです。
私も過去に貴方様の財物を盗み、山に隠れ住んでいました。
この時は、主君(重耳)は飢えに苦しみ、介子推が股を差し出したと聞いております。
天下でこの話を知らない者はいません。
私の罪は最も大きく十族が罰せられても、文句は言えない立場です。
しかし、主君が私と共に国内を巡遊すれば、民衆は「主君は旧怨を気にする人ではない」と安心する事でしょう]
里鳧須は自分を許した姿を、民に見せる事で国は安定すると述べたわけです。
調子のいい話の様に聞こえますが、重耳は里鳧須を許しました。
晋は献公が驪姫に惑わされて国が乱れて依頼、太子の申生が亡くなり奚斉が君主となり、卓子、晋の恵公、晋の懐公と国主が次々に変わって安定しなかったわけです。
重耳は晋の懐公から君主の座を奪いましたが、国内には晋の懐公に味方する者も、重耳に恨みを晴らさせると考え恐れた者も多かったのでしょう。
こうした中で里鳧須の言葉は、重耳の耳に届いたとも言えます。
尚、重耳は里鳧須の罪を許し、一緒に車に乗っている所を見せると、民は次の様に述べた話があります。
「里鳧須でも誅される事が無かった。主君と共に車に乗っているではないか。
我々が恐れる事はないだろう」
晋国は安定したと伝わっています。
この話がどこまで本当なのかは不明ですが、重耳が国内を纏め楚を城濮の戦いで破り、春秋五覇の一人にまで数えられる事になったのは事実です。