名前 | 里克(りこく) |
生没年 | 生年不明ー紀元前650年 |
時代 | 春秋時代 |
主君 | 晋の献公→晋の恵公 |
コメント | 驪姫の乱での最大の功労者 |
里克は晋の大臣の一人であり、晋の献公に仕えた人物です。
里克の名前が史書に登場するのは、驪姫が奚斉を生んでからとなります。
里克は晋の献公の時代は、忠誠を誓いつつも太子の申生や驪姫に対し、多くの迷いが見える状態でした。
しかし、晋の献公が亡くなり奚斉が即位すると、一気に行動を起こし奚斉や卓子を殺害し、夷吾を晋公に即位させています。
ただし、晋の恵公は里克の権限を奪い、最後には自刃を命じています。
今回は晋の名臣とも言える里克の解説をします。
晋の献公と驪姫
里克が仕えた晋の献公は、多くの諸侯を滅ぼした英雄的な君主でもあります。
しかし、驪戎討伐で驪姫を得て、驪姫が奚斉を生むと、後継者を奚斉にしようと考える様になります。
こうした状況の中で、史蘇が里克、士蔿、郭偃の前で「晋が滅ぶのではないか?」と述べます。
この時は、まだ状況の改善が期待出来た段階でもあり、それぞれが自らの意見を言っただけとなりました。
里克にしてみれば、この後に驪姫を討ち果たすのが自分になるとは、思いもよらなかったはずです。
三者三様の考え
晋の献公が太子の申生を廃し、奚斉を後継者にしようと本格的に考える様になると、晋の大臣である里克、丕鄭、荀息が相談する事になります。
里克は丕鄭と荀息に意見を求めました。
荀息は「君命には逆らわずに、晋の献公に従う」と述べ、晋の献公が奚斉を後継者にするなら、奚斉に忠誠を誓うと述べます。
それに対し、丕鄭は「義に従うべきで、惑いに追従するべきではない」と述べ申生を支持し、奚斉を後継者にしてはならないと言い放ちまました。
荀息や丕鄭に対し、里克は次の様に述べています。
里克「私には才能も見識も不足しているが、惑いには従おうとは思わない。静観しよう思う」
李克は丕鄭に近い考えを持ちながらも、場の様子を見極めたいと考えました。
この時の里克の心には、まだ迷いがありましたし、かといって「申生を支持する」とも言えなかったのでしょう。
里克、丕鄭、荀息は三者三様の考えを持っていたわけです。
この三名が後にキーマンとなります。
申生の東山討伐
晋の献公は紀元前660年に、赤狄の一種である東山皋落氏の討伐を申生に命じました。
里克は申生が将となり、東山を討伐するのに反対であり、晋の献公に次の様に述べています。
里克「太子は冢祀、社稷に供える供物を奉じ、朝夕に主君の膳部を監督なされるのが役目です。
それ故に、冢子と申します。
君主が親征を行えば、太子は国に留まるのが役目ですし、太子に代わり国を守る者がいれば、太子も君主と共に出征するのです。
太子が君に従う時は撫軍と言い、国を護る時は監国と言うのが古代の制でもあります。
軍を率いるのは、謀を決め号令を行う事であり、君主と正卿が行うべき事で、太子が行うべき事ではありません。
軍事の肝は、命令を専行させる一点に掛かっており、外からの命令を受ければ威厳が乏しくなり、命令を勝手に行えば不孝となります。
それ故に、太子に軍勢を率いさせてはならないのです。
我が君(晋の献公)は、人の用い方が誤っております。
軍を率いるのに威厳がなければ、どうして任用する事ができましょうか」
里克は太子の申生が軍を率いるのは間違っていると、晋の献公に諫言したわけです。
しかし、晋の献公は奚斉を太子にしたいと考え「自分の子は何人もいるし、誰を太子にするのか決まっていない」と言い返しました。
里克は晋の献公の言葉を聞くと、答えないで退出したとあります。
晋の献公は、かなり感情的になっており、里克は「聞く耳を持っていない」と判断し、何も言わずに引き下がったのでしょう。
申生への言葉
里克は退出しましたが、この後に太子申生に会うと、申生は「自分は廃嫡されるのか」と問います。
それに対して、里克は次の様に述べました。
里克「太子は励むべきです。
太子は軍を率いて討伐を命じられたわけですから、任務を達成できない事だけを恐れればよいのです。
任務をちゃんとこなしたにも関わらず、廃せられる事はないでしょう。
子として親に対し孝でない事を恐れ、位に就けない事を恐れてはなりませぬ。
自分自身を律する事に務め、人を責める事が無ければ難を逃れる事が出来ましょうぞ」
里克も迷いの中にあったと思いますが、里克に出来る精一杯の励ましを申生にしたのでしょう。
ただし、里克も思う所はあった様で、申生の東山征伐には病と称して従軍しませんでした。
尚、申生は狐突や先友らと共に東山討伐を実行し、見事に敵を打ち破り任務を達成しました。
因みに、紀元前258年に晋が虞に道を借りて、虢を討伐した話(仮道伐虢)がありますが、この戦いには里克は荀息と共に参陣しています。
中立が悪手
驪姫の息が掛かった芸人の優施が里克の心を試す為に、不思議な事を述べました。
優施に対し、里克は申生を害する事も出来ないし、今まで通りに申生と接する事は出来ないと述べ「中立」を宣言したわけです。
中立を宣言した後に、丕鄭に会い状況を説明しました。
この時に丕鄭は、里克が「中立」を宣言したのは悪手だと述べたわけです。
丕鄭は優施は里克の心を試したのであり「相手にしなければ向こうは決断出来なかった」と意見を言います。
つまり、里克の中立宣言で、驪姫の一味は行動に移す事になると、丕鄭は言ったわけです。
里克が丕鄭に「其方は、どうするつもりだ」と問うと、丕鄭は「君主の心が自分の心だ」と述べます。
丕鄭は、この段階では動きたくはなかったし、動いても晋の献公の心を変える事は出来ないと考えたのでしょう。
動いたとしても、晋の献公が生きている段階では、驪姫に勝ち目がないと考えたのかも知れません。
里克は次の様に述べました。
里克「国君を殺害し太子を守るのは「廉」である。
しかし、廉により驕りが生まれ、驕りにより人の家(晋の献公の父子)を制する事は、自分には出来ない。
意思を曲げて君主に仕える事は出来ないし、太子の廃嫡に協力し自分の利益を得る事も出来ない。
私は隠遁する以外に道はないであろう」
里克は丕鄭が申生を支持すると明確にしなかった事で、動いても成果を挙げる事は出来ないと考え、隠遁の道を選んだのでしょう。
里克は病と称し、朝廷に出なくなります。
尚、この三十日後に申生が亡くなったと伝わっています。
翟を討伐
申生は自害しますが、公子の重耳は翟に逃亡し、夷吾は梁に逃亡しました。
紀元前652年に、里克は重耳がいる翟を攻撃する様に命じられ、梁由靡と虢射を引き連れて、出陣しています。
里克は戦の腕もあったようで、采桑の戦いで翟の軍を破りました。
ここで梁由靡、虢射が追撃を主張しますが、里克は追撃せず晋に引き返しています。
里克は梁由靡らに「打ち破るだけで十分だ」と述べた話があり、里克の心は重耳にあり、翟を攻撃したくはなかったのでしょう。
ただし、里克が追撃を行わなかった事で、翌年に翟は晋の国に侵攻した話があります。
尚、里克と共に戦った梁由靡と虢射は紀元前645年の韓原の戦いでは、韓簡の戦車の御者と車右を務め、もう少しで秦の穆公を捕える所まで行った話があります。
采桑の戦いで里克を補佐した梁由靡と虢射も戦上手だと言うべきでしょう。
驪姫の一族を誅す
晋の献公は紀元前651年に世を去りました。
この時を待っていたかの様に、里克は動き出したわけです。
里克は晋の士の心が驪姫や奚斉になく、申生、重耳、夷吾の三公子にあると気づいていました。
里克は三公子の徒党を集めて、驪姫及び奚斉を討とうと考えます。
里克は荀息に「三公子の徒党が動き出し、晋だけではなく秦も三公子を支持するはずだ」と述べ、荀息の考えを確認しました。
荀息は「死ぬだけだ」と述べますが、里克は「貴方が死んでも奚斉は即位出来ず無駄死にとなる」と告げます。
しかし、荀息の心は固く、晋の献公の遺言を守ると宣言しました。
里克は荀息は仲間にならないと悟り、丕鄭の元に行きます。
丕鄭は里克に荀息の事を聞き、荀息は「死ぬ覚悟でいる」事を告げます
ここにおいて丕鄭は「二人の国士が行動を起こせば失敗する事はない」と述べ、里克に協力すると宣言しました。
丕鄭は里克に、申生に仕えていた七輿大夫を動かす様に促し、自らは秦や翟に援助を要請すると伝えています。
さらに、丕鄭は徳が薄い夷吾を国君にすれば厚い恩賞が手に入り、徳が厚い重耳が国君になれば、我等で国を動かせると述べました。
丕鄭の意見に対し、里克は次の様に述べ戒めています。
里克「それはならぬ事だ。義とは利益の基礎的なものであり、貪欲は怨念の本である。
義を棄ててしまったら利益を得る事は出来ないし、貪欲になれば恨みが誕生するだけだ。
驪姫が晋の献公を惑わし、国人に反した行いをし、公子達を讒言し利益を奪ったのである。
罪のない者を自刃に追い込み、晋は諸侯の笑いものとなった。
民の怒りは酷く、堤防が決壊した時の様な状態だ。
それならば、奚斉の誅殺は民の不信を無くす事を目的としなければならないだろう。
さすれば、外国の者たちも我らに味方してくれる。
諸侯が我らに味方してくれれば、民は義により晋を助けたと思ってくれるだろうし、新君とした立つ者を暖かく迎えてくれるはずである。
我等が利益を求めたなら、義に背く事になり民に恨まれる事になる。
自分の為にもならないし、乱を起こしたと史書にも記録され、富を維持する事も出来ない」
里克は丕鄭に自分の利益を求めない様に、忠告したわけです。
丕鄭も里克の言葉に同意しました。
この後に、里克は奚斉を殺害する事に成功します。
この後に、荀息が驪姫の妹の子である卓子を即位させますが、里克は卓子や驪姫までも殺害してしまったわけです。
ここにおいて荀息もまた自害しました。
里克と丕鄭は、前漢の呂后の死後に、行動を起こした陳平や周勃の様な、活躍を見せた事になるでしょう。
ただし、新君が即位した後は、陳平や周勃の様には行きませんでした。
夷吾を晋君に迎える
驪姫の一族を滅ぼした里克と丕鄭は、重耳を晋君とするべく、屠岸夷を重耳がいる翟に派遣しました。
しかし、重耳は狐偃の意向もあり、晋君になるのを辞退しています。
里克は重耳に断られた事で、梁にいる夷吾に晋君になる様に要請しました。
この時に、夷吾は側近である呂省と郤芮の進言を取り入れ、秦に賄賂を贈る約束をした上で、秦の後援を受け晋に入る事にしたわけです。
里克には汾陽の土地を与える約束しました。
秦でも公子縶に重耳と夷吾の様子を観察させ、百里奚に命じて夷吾を晋に入れています。
これにより夷吾が晋の君主となり、後に晋の恵公と呼ばれる事となります。
しかし、夷吾が晋君になってしまった事で、里克の人生が暗転に向かいました。
里克の最期
晋の恵公は即位しますが、約束だったはずの汾陽の土地を里克に与えませんでした。
さらに、里克の権限を奪うなど冷遇したわけです。
晋の恵公は冷遇するだけではなく、重耳が国外におり、里克と手を握る事を恐れました。
結果として、晋の恵公は里克に自害を命じますが、この時に次の様に述べています。
晋の恵公「其方(里克)がいなかったら、私は晋の君主になれなかったであろう。
しかし、其方は二人の君主と宰相の命を奪ったのも、また事実である。
其方の君主になるのは、難しい事ではなかろうか」
晋の恵公は里克が奚斉と卓子、荀息を死に追いやった事を問題視し、反逆者の主君になる事は出来ないと述べたわけです。
里克は次の様に答えました。
里克「私がそれらの者たちを廃さなかったら、貴方は君主として立つ事が出来なかったはずです。
貴方が私を誅しようと考えるなら、幾らでも口実を作る事が出来ます。
貴方が私に言ったのは、そういう事でしょう。
私はご命令に従います」
里克は自害しました。
驪姫の乱を終結させた里克は、自分が立てた晋の恵公により冷遇され、死を賜わったわけです。
前漢の陳平や周勃は徳がある漢の文帝を即位させた事で、重用されましたが、里克は徳が薄い夷吾を即位させてしまった為に、禍を被ったとも言えます。
尚、里克の相棒とも言える丕鄭は、使者として秦にいた事で難を逃れました。
因みに、里国、丕鄭、秦の穆公、晋の恵公に関しては、次の歌が存在します。
偽善者が偽善者に騙されて、土地を失った。
奸策は奸策に騙されて、賄賂を得る事が出来なかった。
貪欲に国を得た者達は、咎めを受けた。
土地を失ったが教訓を得られず、乱が起こる。
偽善者は里克と丕鄭を指し、もう一人の偽善者が晋の恵公を指すと考えられています。
秦の穆公は晋の恵公に奸策を巡らし土地の割譲を約束していましたが、晋の恵公の奸策により土地(賄賂)を得る事が出来ませんでした。
尚、晋の恵公も韓原の戦いで秦の捕虜となり帰国しますが、恵公の子である晋の懐公は重耳に敗れ命を落としています。
上記の歌は巧みに世の中を諷刺していると言えるでしょう。