室町時代 鎌倉時代

島津貞久は95歳まで生き戦い続けた

2024年12月29日

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宮下悠史

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名前島津貞久
生没年1269年ー1363年
時代鎌倉時代ー南北朝時代
一族川上頼久、島津宗久、師久、氏久など
コメント95歳まで生きた

島津貞久は薩摩・大隅の守護になった人物でもあり、一時は日向守護も兼ねていました。

鎌倉幕府が滅亡する時は鎮西探題を滅ぼす方向に舵を切っています。

足利尊氏が建武政権を離脱すると日向守護を解任されてしまいますが、足利尊氏に帰参しました。

九州の薩摩や大隅では苦しい戦いが続きますが、幕府にも協力的であり、南北朝時代に入っても島津家を存続させています。

島津貞久は95歳まで生きた記録があり、当時としては圧倒的に長寿だったと言えるでしょう。

ただし、薩摩守護を島津師久に譲り総州家となり、大隅守護を島津氏久に譲り奥州家となっています。

後に総州家と奥州家は対立する事になり、後の争いの遠因を作ってしまったもみる事も出来るはずです。

島津貞久の動画も作成してあり、この記事の最下部から視聴する事が出来ます。

島津貞久の登場

島津氏は島津忠久から始まるとされており、源頼朝の乳母比企尼の縁者だった事も幸いし、薩摩・日向・大隅の三カ国の守護となります。

しかし、比企能員の乱で所領を失い薩摩守護と島津荘薩摩方地頭職のみを与えられました。

こうした事情もあり、島津氏としては薩摩・日向・大隅を支配下に加える事は悲願でもあったはずです。

島津忠久から数えて五代目に島津貞久が登場する事になります。

島津貞久の名前を考えれば北条貞時から偏諱を受けたと考えるのが自然でしょう。

島津貞久の幕末の活動

楠木正成との戦い

後醍醐天皇による元弘の変が勃発すると、楠木正成が赤坂城に籠り幕府軍と対峙する事になります。

赤坂城の戦いで幕府軍は大仏貞直を総大将とし宇治から大和に向かって4つの軍に分けて進軍させていますが、この中に島津貞久もいました。

光明寺残篇に「島津上総入道」の名前があり、これが島津貞久である事は間違いないでしょう。

尚、元弘の乱の最中に島津貞久は嫡子の島津宗久に対し、薩摩国薩摩郡や複数の地頭職などを譲与しました。

赤坂城に籠る楠木正成を幕府軍は手こずり、幕府軍は大軍とは言え決して楽勝ムードでも無かったのでしょう。

島津貞久は万が一の事を考え島津宗久に財産譲与を行ったと考える事が出来ます。

最終的に後醍醐天皇が笠置山城の戦いで宗良親王らと共に捕虜となり、楠木正成も行方を晦まし幕府軍の勝利が決まりました。

島津貞久は恩賞として周防国の楊井荘を与えられています。

ただし、後醍醐天皇は捕虜となり隠岐に流されますが、護良親王が中心となり鎌倉幕府打倒を目指す事になります。

鎮西探題の滅亡

護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成が千早城で奮戦し再び近畿は乱れました。

幕府軍は護良親王の吉野は陥落させますが、千早城の戦いでは苦戦が続く事になります。

こうした状況の中で後醍醐天皇が隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎え入れられました。

名和長年は船上山の戦いで隠岐の軍勢を破る事になります。

中国地方や九州でも反幕府活動の動きが活発となり、護良親王の令旨が発行され鎮西探題の北条英時や桜田師頼を討てと各地の御家人に届けられました。

鎮西探題北条英時も倒幕の動きを察知しており、各地の御家人に博多に集結する様に命じています。

菊池武時は早々と倒幕を決断し、少弐貞経や大友貞宗らを誘いますが、少弐貞経らは鎮西探題の北条英時に味方し、菊池武時の計画は失敗におわりました。

この戦いに島津貞久が参加していたのかは不明ですが、博多日記に薩摩国の野辺八郎や渋谷太郎左衛門尉らが博多から行方を晦ましており、島津貞久の家来が博多にいて、何かしらの事をしていたとも考えられています。

後醍醐天皇は綸旨により島津貞久を大隅守護に任じ味方につけようとし、足利尊氏も朝廷軍に寝返り島津貞久も倒幕に舵を切る様に要請しました。

さらに、大友貞宗や阿蘇惟時らも倒幕に舵を切り足利尊氏が六波羅探題を陥落させ、新田義貞が鎌倉を落し北条高時は自害しています。

九州でも島津貞久や大友貞宗らが北条英時を攻撃し鎮西探題は滅亡しました。

ここにおいて鎌倉幕府は滅亡したわけです。

三カ国の守護

島津貞久は鎮西探題を滅ぼすのに協力したわけですが、この直後に日向国の守護にも任じられています。

これで島津貞久は薩摩、大隅、日向と三カ国の守護を任され、島津家の悲願を成就させました。

尚、この時の島津貞久は65歳だった事も分かっており、思わぬ幸運に恵まれたと言えるでしょう。

ただし、大隅国は北条氏の勢力が代々に渡り守護をしており、北条氏の勢力が強く反乱が起きています。

建武の新政が始まっても北条氏の残党が各地で蜂起しました。

大隅だけではなく日向でも反乱がおきますが、この頃に島津貞久が中宮職領となり、島津荘大隅方の預所職に任ぜられています。

預所職は下級荘官の任命権を持っており、北条氏残党を鎮圧した後に、建武政権では島津貞久に下級荘官の任命権を与える事で、荘園内の掌握を期待したのでしょう。

尚、預所職が島津氏の大隅支配の大義名分となっています。

日向守護の解任

1335年に北条時行による中先代の乱が勃発しており、足利尊氏が鎮圧し、そのまま鎌倉に居残り直義と共に論功行賞を始めました。

後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し新田義貞を総大将とする討伐軍を派遣しています。

島津貞久も尊氏追討軍に参加しており、東山道軍の侍大将として出陣しますが、貞久の弟の時久は足利兄弟と共に鎌倉にいたわけです。

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破り京都に進撃しました。

箱根竹ノ下の戦いで島津時久は功績を挙げており、足利尊氏から下文により日向国新納院を貰い受けています。

これにより新納時久と呼ばれる事になります。

島津貞久は東山道を進軍していましたが、足利尊氏により日向守護を解任され、大友氏泰が日向守護となります。

足利尊氏に鞍替え

島津貞久は足利尊氏により日向守護を解任されていますが、この後に足利方に転じました。

足利尊氏と新田義貞楠木正成らは近畿で戦いを繰り広げますが、奥州の北畠顕家が到着すると足利尊氏は九州に逃れる事になります。

島津貞久も足利尊氏らと共に九州に向かいました。

足利尊氏は菊池武敏と多々良浜の戦いで激突しますが、島津貞久も足利軍の武将として勝利に貢献しています。

足利尊氏は島津貞久への功績として、薩摩国川辺郡、大隅国本庄を恩賞として与えています。

大隅加瀬田城を攻略

足利尊氏は九州で勢力を盛り返すと上洛軍を起こし島津貞久も加わりました。

しかし、日向国の足利家領を狙っている肝付兼重を鎮圧する為に、島津貞久は上洛軍から離脱する事になります。

島津貞久は日向の畠山直顕と共に肝付兼重討伐に向かいました。

この戦いで島津貞久や畠山直顕は肝付兼重の拠点である大隅国加瀬田城を陥落させています。

尚、この時期に室町幕府から軍勢催促があったのか、島津貞久の庶長子の川上頼久や伊作宗久らが上洛し新田義貞が籠る越前金ヶ崎城を攻撃した記録があります。

苦境

1337年に南朝の公家である三条泰季が薩摩に下向しました。

南朝の三条泰季に呼応したのが大隅の肝付兼重や薩摩の伊集院忠国です。

肝付兼重や伊集院忠国の動きが活性化した事で、島津貞久は苦しい立場となっていきます。

こうした中で室町幕府の中央にいる足利直義は南朝討伐の為に、島津氏に出兵要請をしました。

島津貞久は嫡男の島津宗久と共に近畿に向かい本田久兼らと共に石橋和義や高師直の配下の武将として各地で戦っています。

島津氏にとってこうした時期での上洛戦争は苦しいものであり、本拠地にいる川上頼久、酒匂久景、森三郎行重らは苦しい戦いを強いられました。

薩摩は南朝方が優勢になり、一時は島津貞久の本拠地である碇山城が包囲されるなどもありました。

島津貞久や島津宗久が遠征中に薩摩では南朝の勢力が大きくなっていったわけです。

この様な状況の中で近畿では島津宗久が若くして亡くなり、足利直義の許可を得て島津貞久は本国に戻りました。

島津貞久が本国の危機を足利直義に伝え、肝付兼重らの討伐が許されたのでしょう。

鹿児島を制圧

九州に戻った島津貞久は市来城、伊集院一宇治城、東福寺城、催馬楽城を陥落させ肝付兼重や矢上高純を相手に有利に戦いを進めました。

これにより鹿児島を制圧する事になります。

後に鹿児島は島津奥州家の守護所となります。

島津貞久の奮闘により南朝の勢力は弱まりました。

懐良親王の薩摩上陸

1342年になると後醍醐天皇の皇子である懐良親王が九州に上陸しました。

懐良親王が征西将軍府を開く事になります。

懐良親王の上陸により南朝の勢力は息を吹き返す事になります。

南朝の九州征西府の勢力が勢いを盛り返し、薩摩山の南は南朝方の手に落ち、一歩間違えれば島津氏の本拠地である碇山城も落城かという状態になりました。

島津貞久の守護所「千台」も危機という状況となります。

観応の擾乱

島津貞久は苦しい戦いとなりますが、室町幕府の中央では観応の擾乱が勃発しました。

高師直が御所巻を行い足利直義が出家する事態となります。

足利直義の失脚もあり、長門探題の足利直冬が九州に逃れてきました。

足利直冬は肥後の河尻氏に迎え入れられています。

足利直冬は九州では足利尊氏や直義の命令と称し味方を増やしていったわけです。

中央にいる足利尊氏は「直冬に味方してはならない」と通達しますが、全く効果が無く九州の諸将は直冬派が増大する事になります。

島津貞久は尊氏への支持を崩しませんでしたが、薩摩の入来院氏や伊作宗久が足利直冬を支持し、日向国の守護になっていた畠山直顕までもが直冬支持に回りました。

島津貞久と畠山直顕は長年に渡り協力関係にありましたが、観応の擾乱により敵対関係に変わったわけです。

九州では尊氏派、直義派、南朝の三つ巴の戦いを繰り広げる事になります。

島津貞久は鎮西管領の一色道猷と共に戦っていきますが、島津氏の中でも直冬に靡く者もおり苦しい立場となります。

正平一統

観応の擾乱により高師直が亡くなりますが、今度は足利尊氏直義の戦いとなり、直義は関東に向かいました。

足利義詮が南朝に降伏し続いて足利尊氏までもが南朝に降伏する事になります。

室町幕府の南朝への降伏により北朝が消滅しますが、これを正平一統と呼びます。

主君である足利尊氏が南朝に降伏した事で、島津貞久も南朝の武将となりました。

西国を担当した足利義詮は島津貞久に直義派の畠山直顕を討つ様に命じています。

日向には将軍家御台所領があり、足利義詮にしては易々と直義派に渡したくはなかったのでしょう。

懐良親王は令旨(肥後宮令旨)を発行し、島津貞久は南朝の武将として大隅などに出陣しました。

尚、足利尊氏も島津貞久の忠義を認めていた様であり、大隅国島津床寄郡を安堵するなどしています。

島津貞久の隠居

1352年になると、島津貞久は老体と病気を理由に隠居を申し出ています。

この時点で島津貞久は84歳だったと伝わっています。

島津貞久は次男の島津師久には薩摩を任せ、三男の島津氏久には大隅を任せました。

足利義詮の時代である1361年に斯波氏経が鎮西管領になります。

島津貞久の激怒

斯波氏経が鎮西管領として下向しますが、幕府では年貢の半分を配下の武士に給付する権限である寺社本所領半済給付権と敵の所領を没収し配下に部下に預ける権限である闕所地預置権を与えていました。

ただし、室町幕府では少弐頼尚や大友氏時、畠山直顕の領地は除外したわけです。

寺社本所領半済給付権と闕所地預置権は薩摩、大隅、肥前、筑後、壱岐、対馬の四カ国と二島が適応国となりました。

これに激怒したのが隠居の身である島津貞久です。

島津貞久はこの時に90歳を超えて体は老弱となっていましたが、気力はまだまだ衰えなかったのかも知れません。

島津貞久は足利尊氏に忠誠を誓い一貫して忠義を示してきたのに対し、畠山直顕は足利直冬に味方し直義派に与するなどしており、対応の差に激怒しました。

島津貞久は幕府に対し二度の抗議を行っている事が分かっています。

この時に島津貞久は源頼朝の下文などを証拠書類として提出し、少弐、大友、島津の三家は源頼朝から守護職を三カ国ずつ与えられた対等な家であり、その後は北条氏により二カ国ずつ召し上げられたとしました。

少弐、大友と島津で差をつけるのは用捨之御沙汰(差別的な措置)だとしています。

島津貞久としては先の戦いで直冬に味方した畠山直顕が自分よりも待遇がよかった事に納得が出来なかったのでしょう。

さらに、島津貞久は薩摩、大隅、日向は島津荘内に含まれるとし、薩摩、大隅、日向の三カ国は島津の本領であり、安堵されるべきだと主張しました。

島津荘が三カ国の全域に及んだというのは歴史的な事実はありませんが、島津貞久は薩摩、大隅、日向支配の正統性を訴えたわけです。

足利義詮は遠国の九州の事を京都では判断できないとして、斯波氏経に一任しますが、それから間もなくの1362年に斯波氏経は九州を去る事になります。

島津貞久の最後

1363年に島津貞久は没する事になります。

島津貞久の享年は95歳だとされており、当時としては圧倒的に長生きだったと言えるでしょう。

島津家の惣領と薩摩守護は島津師久が継承し、島津師久の系譜を総州家と呼び、大隅国守護は島津氏久に譲られました。

島津氏久の系譜を奥州家と呼ぶ事になります。

尚、島津師久の系統を総州家と呼ぶのは代々に渡り上総介を名乗るからであり、島津氏久の系統を奥州家と呼ぶのは陸奥守を名乗るからです。

察しがついた方もいるのかも知れませんが、後に総州家と奥州家は対立する事になります。

島津貞久の動画

島津貞久のゆっくり解説動画です。

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝及び図説・中世島津氏をベースに作成してあります。

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