秦頡は後漢書の朱儁伝や資治通鑑に登場する人物であり、南陽太守となった人物でもあります。
しかし、黄巾賊の頭目である韓忠を斬ってしまった事で、再び黄巾賊が反旗を翻す事態にもなっています。
秦頡ですが、不思議な最後を迎えた話があり、合わせて紹介します。
黄巾の乱
南陽太守となる
張角が184年に黄巾の乱を起こすと、張曼成が南陽太守の褚貢を殺害しました。
南陽は洛陽の南にあり、褚貢の死は朝廷にも衝撃を与えた事でしょう。
こうした中で、秦頡が後任の南陽太守となります。
秦頡が南陽太守になった経緯は不明ですが、南陽は洛陽の南にある重要な地域であり、秦頡の能力が評価されていたのではないか?とも考えられるはずです。
張曼成は神上使を名乗り、宛に100日ほど駐屯した話があります。
南陽太守となった秦頡の最初の課題は、張曼成を討つ事だったはずです。
張曼成を斬る
184年の5月になると、黄巾賊の波才を皇甫嵩や曹操が長社の戦いで破りました。
さらに、一度は波才に敗れた朱儁が南陽を目指し進軍する事となります。
ここで秦頡に勢いがついたのか、184年の6月に張曼成を斬る事に成功しました。
張曼成は朱儁が来る前に、秦頡を片付けようと思って討って出たら、秦頡の反撃を受けたのかも知れません。
秦頡は黄巾党の頭目である張曼成は切りましたが、ここで乱は終結せず趙弘を立てて宛城に籠りました。
趙弘の元には10万を超える黄巾賊が集結し、秦頡だけでは落とせる様な数ではなかったはずです。
韓忠を斬る
秦頡は朱儁と共に、趙弘が籠る宛を包囲しました。
朝廷で朱儁の更迭論が出ると、朱儁は趙弘を強襲し斬る事に成功しています。
しかし、黄巾賊は韓忠を頭目とし官軍と戦い続けました。
韓忠は降伏を願い出ますが、この時に秦頡、張超、徐璆らは降伏を許す様に進言しますが、朱儁は許さず戦いは継続される事となります。
後に朱儁は黄巾賊を撃破し、韓忠は正式に降伏しました。
しかし、ここで何故か秦頡が独断で韓忠を斬り捨ててしまったわけです。
降伏を許す様に勧めた秦頡が、なぜ韓忠を殺害してしまったのかは分かっていません。
鬱憤が積もっていた可能性もありますし、最初から韓忠が降伏したら斬り捨てようと考えていた可能性もあるでしょう。
それか、秦頡は気性が荒い性格であり、自分を抑える事が出来ずに、韓忠を処刑してしまったのかも知れません。
尚、韓忠が殺害された事を知った黄巾賊たちは、孫夏を大将とし再び宛城に籠りました。
これを考えると、黄巾賊に参加した者たちが完全に降伏するまでの間に、秦頡は韓忠を斬ってしまった可能性もあるはずです。
孫夏が頭目となりますが、朱儁は一気に攻撃を仕掛け黄巾賊を壊滅させました。
これにより南陽の黄巾賊は平定された事になるでしょう。
秦頡の最後
後漢の孝霊帝紀や資治通鑑に、次の記述が存在します。
春2月に江夏の趙慈が反旗を翻し、南陽太守の秦頡を殺害した。
これを考えると、186年の2月に秦頡は殺害された事が分かります。
秦頡に死に関する過去の話があり、秦頡は南陽郡に向かう最中に、宜城県で東を向いている一軒家を発見しました。
秦頡はここで「この場所は墓を作るのに最適だ」と述べた話があります。
秦頡が趙慈の乱で命を落すと、遺体は故郷に帰される事になり、宜城県まで来ると例の場所で車が動かなくなりました。
役人は家を買い取り、そこに秦頡を葬った話があります。
秦頡の最後は説話と見る事も出来ますが、不思議な最後を迎えたと言えるでしょう。