春秋戦国時代

秦の穆公は西戎の覇となった名君

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宮下悠史

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名前秦の穆公
本名嬴任好
生没年生年不明ー紀元前621年
在位期間紀元前659年ー紀元前621年
一族父:徳公 配偶者:穆姫 兄弟:宣公成公
子:康公、公子弘、簡璧、文嬴、懐嬴、弄玉など
コメント子供が40人いたと記録されている。

秦の穆公は春秋時代のの君主であり、春秋五覇の一人に数えられる事もあります。

当時の秦では兄弟相続をしており、兄の成公が亡くなると秦公となっています。

秦の穆公は晋の恵公と文公の君主に擁立し、由余の策で西戎に覇を唱えました。

内政面でも百里奚や蹇叔を重用し、政治を任せています。

秦の穆公は名君とされ国内外に強い影響力を及ぼしますが、殉死した者が177人もおり、問題視された君主でもあります。

茅津を討つ

秦の穆公の元年(紀元前659年)に自ら大将となり、茅津を討ちました。

が中原に進出する為には、茅津を制圧する必要があり、秦の穆公は中原への道を開く為に、茅津を討ったのでしょう。

この時の秦は梁や芮を従属化しており、中原進出を目指しましたが、晋も中原への進出を考えており、必然とライバル関係となりました。

晋から妃を迎える

紀元前656年に、晋の献公の娘を秦の穆公は妻として迎えました。

これが穆姫であり、史記の秦世家ではの太子申生の姉だと記録されています。

当時のと晋の間には梁がありましたが、晋の献公としては秦と戦いたくなかったはずであり、懐柔策として娘を秦の穆公に嫁がせたのでしょう。

尚、史記の秦本紀には同年の出来事として、斉の桓公がを攻撃し召陵まで行った話が掲載されています。

河曲の戦い

紀元前655年に晋の献公はと虢を滅ぼしました。

この時に秦の穆公は紆余曲折はありましたが、百里奚と蹇叔を臣下として招く事に成功しています。

晋が虞と虢を滅ぼしたのは、両国が茅津の南北の位置する場所にあり、茅津の渡河ポイントを支配する為でしょう。

こうした中での間で、河曲の戦いが勃発しました。

晋は虞と虢を滅ぼし、秦を河曲よりも西に封じ込めたいと考えたわけですが、秦が反発した為に起きたのでしょう。

史記の秦本紀には河曲の戦いで、どちらが勝ったとは書かれていませんが、秦の穆公が自ら将となり出陣した事が記録されています。

秦の穆公と晋の恵公

秦の穆公が夷吾を秦に入れる

では驪姫の陰謀により、太子の申生が亡くなり、公子の重耳と夷吾が出奔しました。

晋の献公が紀元前651年に亡くなると、驪姫の子の奚斉が立ちますが、里克が殺害しています。

宰相の荀息が卓子を立てますが、里克は再び殺害しました。

晋の献公の子である夷吾は、に近い梁におり、晋に入る後押しになってくれる様に、秦の穆公に依頼しています。

秦の穆公は百里奚に兵士をつけて、夷吾を晋に送らせました。

この時に、夷吾は晋の穆公に河西の八城を割譲する事を約束しています。

秦の穆公は河西の八城を手に入れれば、洛陽への交通路の確保が可能になり、中原進出を目指す秦にとっては願ったり叶ったりの状況だったはずです。

晋の内部でも里克ら大臣が、夷吾を迎え入れた事で、夷吾は晋の恵公として即位しました。

秦の穆公と丕鄭

晋の恵公は無事にの君主となりましたが、秦の穆公との約束であった河西の八城の割譲を反故にしました。

この時の使者になったのが丕鄭でしたが、この間に晋の恵公は里克を殺害しています。

丕鄭は恐れ秦の穆公に「晋の恵公の側近の郤芮、呂省が害になっており、約束が果たされない」と告げました。

秦の穆公は丕鄭を使者として、晋に派遣し郤芮、呂省をに呼び寄せ殺害する策を実行しました。

しかし、丕鄭は郤芮、呂省に怪しまれ、晋の恵公により命を落とす事になります。

この時に、丕鄭の子の丕豹は秦に亡命し、秦の穆公に晋を討つ様に進言しました。

秦の穆公は丕豹の策を却下しましたが、丕豹を重用しています。

韓原の戦い

史記によると紀元前646年にに旱魃があり、に食糧援助を願いました。

丕豹は「与えてはならない」としましたが、公孫支は「与えるべき」としました。

百里渓も公孫支の意見を支持した事で、秦の穆公は晋への食糧援助を行っています。

翌年である紀元前645年になると、秦で飢饉が起き晋に食料の援助を願いました。

晋では慶鄭が「秦を助けるべき」としましたが、虢射は「これに乗じて秦を討つべき」とし、晋の恵公は虢射の意見に従いました。

これにより秦と晋の間で、韓原の戦いが勃発する事になります。

韓原の戦いでは秦の穆公と晋の恵公が共に総大将となっており、大規模な戦いでもあったのでしょう。

秦の穆公は負傷し危機に落ちりますが、三百の野人が助太刀に現れ窮地を脱し、逆に晋の恵公を捕虜とし戦いに勝利しています。

尚、秦の穆公を助けた野人は馬酒兵として、漫画キングダムでも紹介されました。

韓原の戦いでは秦と晋に互いに飢饉があり、晋の恵公の不徳さが際立っていますが、実際には土地の割譲の約束を守らない晋に対し、怒った秦が攻撃を仕掛けただけとする説もあります。

話が出来過ぎているとも感じており、飢饉の話は創作なのかも知れません。

韓原の戦いで勝利した秦の穆公は、643年まで河東の地を占拠しました。

晋の恵公を許す

史記によると、秦の穆公は晋の恵公を捕虜とし「晋君を犠牲に上帝を祀ろう」と豪語していました。

しかし、周の襄王は周とは同姓の国だとし、処刑しない様にと願いました。

秦の穆公の夫人である穆姫は晋の恵公の姉でもあり、穆姫は助命嘆願を行っています。

秦の穆公は晋の恵公を許し上級の宿舎に泊め、七牢の馳走を出し国許に返しました。

晋の恵公は河西の地をに割譲し、太子の圉(晋の懐公)を人質として、秦に送っています。

太子圉に対し、秦の穆公は娘の懐嬴を娶せました。

秦の穆公が晋の恵公を許した理由ですが、周の襄王や穆姫の言葉に動かされたという事になっていますが、実際には中原進出を目指すにあたり、晋との協調が無ければ難しいと判断し、晋の恵公を国に返したともされています。

尚、秦の穆公と晋の恵公は敵対している様に見えるかも知れませんが、韓原の戦いの前の紀元前649年の王子帯の乱では共闘し周王室を助けており、紀元前638年にも秦と晋は協力し、陸渾の戎を伊川に遷しました。

話は前後しますが、紀元前640年に秦の穆公は梁と芮を滅ぼしており、勢力を拡大させています。

秦の穆公と晋の懐公

紀元前637年にでは恵公が没しました。

晋の太子圉は、への人質になっていましたが、逃亡し晋の懐公として即位しています。

秦の穆公は数年前に梁を滅ぼしており、晋の懐公の母親が梁の出身であった事から、不安が大きく逃亡したのでしょう。

晋の懐公は無断帰国したのであり、当然ながら秦と晋の関係は険悪となりました。

しかし、秦の穆公はにいた重耳に目を付け、秦に招く事になります。

秦の穆公は重耳に5人の女性を娶せましたが、この中に晋の懐公の夫人であった懐嬴もいました。

重耳は最初は嫌がりましたが、懐嬴を受け入れる事になります。

秦の穆公は重耳を擁立し兵を出し、晋の懐公を倒しました。

重耳が晋の文公です。

晋の穆公と晋の文公

紀元前635年に東周王朝では、第二次王子帯の乱が発生し、秦の穆公も王室の乱を平らげようとしました。

しかし、では狐偃の進言もあり、単独で王子帯の乱を平定しています。

秦の穆公は晋の文公には協力的であり、共に鄀を攻撃し、紀元前632年の城濮の戦いにも兵を出し、楚の子玉を破りました。

晋の文公は必ず春秋五覇に数えられる人物でもあり、文公の存命中は晋の後塵を拝す事になります。

紀元前630年に秦の穆公は晋の文公と共に、鄭を囲みました。

鄭の文公は燭之武を使者として派遣し、秦の穆公に鄭が滅びてもにメリットはないと諭しました。

秦の穆公は燭之武の言葉を受け入れ単独で講和し、兵を引き挙げています。

秦軍が撤退した事で、晋軍は兵を引きますが、この頃から秦と晋の関係に亀裂が入ったと言えそうです。

秦晋の対立

紀元前628年に晋では文公が亡くなり、襄公が即位しました。

この時に鄭にいた紀子は自分が内側から内応する事を述べ、鄭に攻める様に秦の穆公に進言しています。

百里奚と蹇叔は遠方である事などを理由に反対しますが、秦の穆公は孟明視、西乞術、白乙兵の三将を大将として鄭を攻めさせました。

三将の軍はや周を通り鄭を目指しますが、周の王孫満は秦軍の敗北を予見しています。

孟明視らは商人の弦高に会うと、鄭が既に防備を固めたとする情報を入手し、晋の辺邑である滑を滅ぼしました。

これに激怒したのが、晋の襄公であり、先軫の策もあり殽で秦軍を襲撃しています。

殽の戦いでは晋軍が大勝し、孟明視、西乞術、白乙兵ら三将は捕虜となりますが、晋の襄公の母親である文嬴(秦の穆公の娘)の言葉で釈放されています。

孟明視らは敗者としてに戻りますが、秦の穆公は「自らの過ち」として、三将を許しました。

紀元前626年に孟明視らを大将として、晋を討ちますが、彭衙の戦いでは、秦に利が無く引き上げています。

これ以後の秦と晋は連年の様に戦う事になります。

秦の穆公と由余

史記の秦本紀に紀元前626年の話として、秦の穆公の賢明さを聞いた戎王が使者として由余を派遣して来た話があります。

秦の穆公は由余の有能さに気が付き、内史の廖と共に戎王と由余の離間策を考案しました。

戎王は由余の諫言に耳を貸さなくなり、由余は遂にに降る事になります。

秦の穆公は由余を厚遇し、戎を討つ態勢を整えました。

殽山に墓標を立てる

春秋左氏伝の紀元前624年の記述に、秦の穆公がに侵攻した話があります。

この時の秦軍には決死の覚悟があり、渡船を焼き払い王官と郊を占拠しました。

晋の軍が出撃して来なかった事から、秦の穆公は茅津を渡河し殽山に行き、殽の戦いで戦死した者たちの墓標を立てて引き上げた話があります。

春秋左氏伝は、秦の穆公が西戎の覇者になれたのは、孟明視を用いたからだと記録しました。

ただし、晋の襄公は翌年に新城を攻めるなど、報復行為を行っています。

西戎の覇

史記によると、紀元前623年に秦の穆公は由余の策を採用し、戎王を討ち十二ヵ国をあわせ、領地を開くこと千里に達し西戎の覇になったとあります。

周の襄王は召公過に命じ、秦の穆公に慶賀の意を表し金鼓を送りました。

秦の穆公が諸侯同盟を構築した話は聞きませんが、春秋五覇の一人に数えられる場合があるのは、異民族を多く討ち中華を守ったからだと評価されたからでしょう。

ただし、同年にの攻勢があり、と周王朝の関係は短期間で破綻したと考えられています。

鄀への侵攻

紀元前622年には鄀に侵攻しました。

ただし、翌年に秦の穆公は亡くなっており、既に体調が悪くなっていた可能性も考えられ、穆公が企画したのかは不明です。

春秋時代では銅を獲得する為に、淮域への進出が試し見られました。

関中から淮域に行くには後の武関を経由し、丹水に沿って南下するルートがあったわけです。

秦は淮域方面に進出する為に、鄀を攻撃したのでしょう。

尚、春秋左氏伝の紀元前623年の記述に、が江を滅ぼした話が掲載されています。

江が滅ぼされた時に、秦の穆公は同盟国である江に対し、哀悼の礼を行いました。

この話から分かるのは、秦は淮水の上流域にある江と同盟関係にあったという事です。

秦としては江と共に鄀を挟み撃ちにしたかったのかも知れませんが、計画は頓挫しました。

当然ながら、この時期の秦と楚の関係は悪化しています。

秦の穆公と殉死

秦の穆公は紀元前621年に没しました。

殉死する者は177人もいた事が記録されています。

秦の穆公に殉じた者の中には、の良臣とされていた庵息、仲行、鍼虎もいました。

秦人は憐れみ「黄鳥を歌う」の詩を作り、次の様に噂したと言います。

※史記本紀(ちくま学芸文庫より)

秦の穆公が地を広め国を強くし、東は強晋を服し、西は戎夷の覇となりながら、ついに諸侯の盟主になれなかったのも、もっとものことだ。

死んで民を見棄て、その良臣をみな殉死させた。

先王は崩するときに、世に恩徳を施し、子孫のために法を垂れこそすれ、百姓が惜しみ哀しむ善人・良臣の命を奪うようなことをするのであろうか。

だから穆公は東征できなかったのである。

秦の穆公は名君と呼ばれながらも、諡が過ちをおかしたとされる「穆」にされてしまったのは、大量の殉死者を出したからだと言われています。

ただし、殉死に関しては秦の穆公の意向であったのか、本人が進んで殉死したのかは分かっていません。

尚、穆公が亡くなると子の秦の康公が立ちますが、との戦いは継続される事になります。

先代:成公穆公次代:康公

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