春秋戦国時代

秦の敬公は史記に記録されなかった秦君

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宮下悠史

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名前秦の敬公
生没年生年不明ー紀元前393年
在位紀元前405ー紀元前393
一族父:簡公 子:恵公
コメント史記の秦本紀に記録されなかった。

秦の敬公は春秋戦国時代の君主です。

理由は不明ですが、史記の秦本紀には、秦の敬公の記述が飛ばされており、記録されませんでした。

しかし、竹書紀年には秦の敬公の記録があり、実在したと考えられています。

司馬遷がうっかり記録し忘れてしまったのか、故意に記録しなかったのかは不明です。

秦の敬公の時代である紀元前403年に、は諸侯に任命されました。

秦の敬公の時代に魏と戦った記録がありますが、形成は不利だったとも考えられています。

秦の敬公の即位

史記の秦本紀を見ると、次の様な記述があります。

※史記秦本紀より

簡公が亡くなると、子の恵公が立った。

上記の記述を見ると、簡公と恵公が親子だったかの様な記述が存在している事が分かるはずです。

しかし、竹書紀年には、秦の簡公と恵公の間に、敬公がいた事が記録されています。

一般的には史記が間違えであり、簡公が亡くなると敬公が君として即位した説が有力となっています。

秦の敬公のは紀元前405年に秦公となり、紀元前393年に亡くなったと考えられています。

史記索隠でも竹書紀年の記録を優先し、簡公の次に敬公が即位した事になっています。

尚、秦の敬公の在位年数に関しては、12年説と13年説があります。

秦の敬公の最後

秦の敬公は紀元前393年に亡くなったと考えられています。

史記には秦の敬公に関する記録がなく、どの様な最後だったのかは不明です。

この頃になるとライバル国であるでは、文侯が亡くなり武侯の時代となっていました。

史記の魏世家を見ると、敬公が亡くなった年に、魏に侵攻し注で戦った記録があります。

と魏の戦いは継続されていたのでしょう。

尚、魏の武侯の時代にも呉起は健在であり、秦軍を悩ませる存在だったのではないでしょうか。

魏は河西を制圧するまで、秦への侵攻をやめませんでした。

秦の敬公と魏との注の戦いは同年に行われましたが、秦の敬公が亡くなったのが先か、魏と注で戦ったのが先かは分からない状態です。

それでも、戦争を行うには命令する必要があり、秦の敬公は魏への侵攻命令を出した後に亡くなった様に感じています。

先代:簡公敬公次代:恵公

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