射堅は正史三国志の注釈「三輔決録注」登場する人物であり、司隷扶風郡の出身です。
射堅の先祖の射服は将軍だった記録があり、射堅の弟の射援は皇甫嵩に高く評価され娘婿としました。
射氏は北地郡の謝氏と同族だと書かれており、射堅もまた名士だったのでしょう。
射堅は後漢王朝の三公の府に招聘されるなど、重用された話があります。
後に、射堅は混乱を避け益州に逃れ劉璋に仕えますが、劉備が益州を奪うと劉備に仕えた事が分かっています。
因みに、射堅は三国志演義には登場しません。
射堅は実在はしましたが、派手な献策をしたわけでもなく、三国志演義では登場させなかったのでしょう。
朝廷に仕える
射堅は後漢末期の人物であり、若くして名声があり三公の府に招聘される事になります。
射堅は黄門侍郎に任命されました。
後の事を考えれば、霊帝の時代に、射堅が何進に招かれ、後漢王朝の朝廷に仕える事になったのかも知れません。
しかし、後漢王朝では何進が宦官に殺害され、袁紹が宦官を皆殺しにしてしまい董卓が政治を牛耳るなど混乱が続きました。
霊帝の後継者となった少帝も、李儒に何皇后と共に毒殺され、董卓は献帝を皇帝に擁立しています。
こうした中で、射堅は弟の射援と共に益州に向かう事になります。
ちくま学芸文庫の正史三国志蜀書先主伝の注釈・三輔決録注には「献帝の初年に三輔が飢饉により混乱したので、射堅は弟の射援と共に南方の蜀に入り劉璋に身を寄せた」とあります。
ただし、献帝が即位したのは189年であり、この時代に益州を治めていたのは劉璋の父親である劉焉です。
それを考えると、射堅や射援が頼ったのは劉璋ではなく、劉焉の方だったのかも知れません。
ただし、同じく扶風郡出身の法正と孟達が建安の初年に飢饉により益州に移った記録があり、建安の初年であれば、196年に射堅と射援も益州に移り劉璋に仕えた事になるでしょう。
益州での生活
劉璋は射堅がやってくると長史に任命したとあります。
劉璋も射堅の名声の高さから重用したのでしょう。
射堅は劉璋に10年以上も仕える事になります。
しかし、この間に射堅にどの様な実績があったのかは不明です。
益州は隔絶された地でもあり、中原に比べると争いが少なかった事もあり、特に記述される様な事柄も無かったのかも知れません。
劉備が益州を治める様になると、射堅は広漢・蜀郡太守にしました。
それを考えると、劉備もまた射堅を重用したと言うべきでしょう。
ただし、これが射堅の最後の記録であり、どの様にして亡くなったのかも不明です。
劉禅の時代まで生きたのかも分かっていません。
ただし、劉備が漢中王に即位した時に、推挙した人材の中に射援の名前はありますが、射堅の名前がない状態です。
それを考えると、射堅は劉備が漢中王となる219年よりも前に亡くなっていたのかも知れません。