陳嬰は秦末期に東陽で旗揚げした人物です。
陳嬰の配下の者達は、陳嬰が王になる様に要請しますが、陳嬰は母親の意見により王になろうとはしませんでした。
後に陳嬰は、項梁の軍に属し、楚の懐王が擁立された時は、楚の上柱国にもなっています。
しかし、ここから先の記録は少なく、陳嬰の行動の分かりにくさでもあります。
陳嬰は楚漢戦争の終了後には、劉邦に仕えて反乱を鎮圧した功績もあり、堂邑侯に封じられました。
陳嬰を見ると、出処進退に関してはかなり上手だったとも感じています。
今回は秦末期に旗揚げしながらも、先頭に立たずに天寿を全うした陳嬰を解説します。
東陽県の人
史記の項羽本紀の中に、陳嬰の出身地などの記録があります。
項羽本紀によれば、陳嬰は東陽県の令史だったとあります。
陳嬰が東陽獄史だった話もありますが、秦の始皇帝が存命中は、東陽県にいる秦の役人だったのでしょう。
陳嬰は人間性などが評価され、多くの若者に評価されるなど人望があったようです。
陳嬰は長者だと人々から言われる様になります。
賢母の教え
陳嬰は若者たちに、頭目になる様に要請されます。
しかし、陳嬰は母の教えにより、先頭に立つ事はしませんでした。
大将になる様に要請
始皇帝が崩御し、胡亥や宦官の趙高の政治が始まると、世の中は混乱に向かいます。
陳勝呉広の乱を皮切りに、中華のあちこちで反乱が勃発する様になります。
こうした中で、陳嬰がいる東陽県の若者たちは、秦の中央から送られてきた県令を殺害しました。
青年たちは徒党を組み、頭目を決めようとしますが、適任者がいなかったわけです。
そこで若者たちは、陳嬰に大将になって貰う様に願いました。
若者たちが陳嬰に大将になって貰いたかった事を見る限り、陳嬰には若者たちからも絶大なる支持があったのでしょう。
要請を受ける
陳嬰は「自分は期待に答える事が出来ない。」と要請を断りますが、東陽県の青年たちは、何とかして陳嬰に大将になってくれる様に願います。
若者たちが熱心に説得した為か、陳嬰は若者たちの頭目になるのを引き受ける事にしました。
歴史的に見ると王莽や曹丕は禅譲の時に、形だけとはいえ、何度も断った話があります。
さらに、名士達が仕官する時も「何回か断る」のが普通です。
この時の陳嬰が頭目のなるのが本当に嫌で断ったのか、儒教的な価値観で何度か断ったのかは定かではありません。
王になる様に要請
陳嬰は頭目になったわけですが、この時に東陽県で陳嬰に従った者が2万もいたと史記に記述されています。
陳嬰も余りにも人々が集まってきた事から、かなり驚いた様に思います。
こうした中で、東陽県の青年たちは、陳嬰を王にしようと考える様になります。
東陽県の若者たちは、青い帽子を身に着ける様にして、他軍と違った特殊な軍だと言う事をアピールしようとしました。
若者たちは、多くの人が集まってきた事で、テンションが上がってしまい、この時には陳嬰の命令が聞けない状態だったのかも知れません。
東陽県の若者にしてみれば、自分達の地元から「王」を出したかったのかも知れません。
賢母の言葉
東陽では陳嬰が大将となり、盛り上がりを見せていましたが、この時に危機感を抱いたのが陳嬰の母親です。
陳嬰の母親は、次の様に述べています。
「お前(陳嬰)の家に嫁いで来てから、先祖で尊い身分になった者がいたと聞いた事がない。
それなのに、お前が貴い身分になろうとするのは、極めて不吉です。
それを考えれば、先頭に立つのではなく、誰かの部下になった方がマシです。
部下として成功すれば、封邑を授けられて侯にもなれますし、失敗しても逃げやすく、世間から目星を付けられない。」
母親は陳嬰が王になる事に猛反対したのでしょう。
陳嬰も母親の言葉の意味を理解し、王になろうとはしませんでした。
項梁に属する
陳嬰は配下の者に王にはならない事を告げると、軍吏には次の様に述べています。
陳嬰「項氏は代々に渡って、楚の将軍の家系であり有名である。
大事を起こそうとする時は、将軍は人心を得る事が出来る人でなければ必ず失敗する。
我等は名族の名声を頼り立ち上がれば、きっと秦を滅ぼす事が出来るであろう。」
陳嬰は部下達を納得させると、全兵力を挙げて項梁に従ったとあります。
陳嬰は母親の言葉に従い、先頭には立たずに項梁の配下となったわけです。
尚、陳嬰は項梁の配下となりますが、同じころに英布や蒲将軍なども、項梁の配下となりました。
楚の上柱国となる
陳嬰が加わった項梁の勢力は拡大し、7,8万の軍勢になった話があります。
陳嬰が東陽で長になった時に、2万人が集まった話もあり、陳嬰の軍は項梁軍の中でも、規模が大きかったはずです。
こうした中で、陳勝が亡くなったとする情報が項梁の元に入って来ました。
薛で会議が行われ、項梁は范増の言に従い、楚王家の血筋である「心」を楚の懐王として擁立しています。
これにより楚の懐王を頂点とした、楚が誕生しました。
新たに出来た楚では、盱眙を首都に置き、陳嬰が楚の最高位とも呼べる上柱国となっています。
普通であれば、項梁が上柱国になっても良さそうな気がしますが、項梁が盱眙にいれば軍事の停滞に繋がる恐れがあったのでしょう。
陳嬰は勢力的に大きかった事や、王になるような野望も無かった事から、項梁は陳嬰を上柱国とした様に思います。
陳嬰が楚の上柱国に就任したのは、項梁の思惑が少なからず入っていたはずです。
しかし、ここから先の陳嬰は一気に歴史から消える事になります。
義帝の死
項梁が章邯に討ち取られると、楚の懐王は都を盱眙から彭城に移しました。
楚の懐王は劉邦には秦の首都である咸陽に向かわせ、宋義、項羽、范増らには趙の救援に向かわせた上で、咸陽を目指す様に命令しています。
さらに、楚の懐王は「関中に一番乗りした者を関中王にする。」と宣言しました。
この時に、陳嬰の名前が出ては来ませんが、将軍となって関中に入った記録もなく、懐王と共に彭城にいた様に思います。
後に、劉邦と項羽が関中に入り、秦を滅ぼす事になります。
劉邦が関中に一番乗りしましたが、鴻門之会で項羽が主導権を握り、18の諸侯を定めています。
項羽は懐王を義帝とし尊びますが、項羽は義帝との対立もあり英布、呉芮、共敖らに命じ、義帝を長沙に移した上で殺害しました。
陳嬰は義帝の近くにいた人物ではありましたが、義帝と運命を共にしてはいません。
どこかのタイミングで陳嬰は義帝に離れた事になるはずです。
劉邦の配下となる
秦滅亡後の楚漢戦争で、陳嬰がどの様な行動を取ったのかは不明です。
しかし、史記の「高祖功臣侯者年表」に次の記述が存在します。
「項羽死して、漢に属す」
これを考えると垓下の戦い位で、項羽の元を離れ劉邦に投降したのかも知れません。
それか魯にいて、最後まで漢に抵抗しましたが、項羽の首を見せられて降伏した可能性もあるでしょう。
しかし、陳嬰が漢に帰順した事は間違いなさそうです。
侯になる
陳嬰が劉邦に降伏した後で、豫章、浙江で、反乱が勃発します。
陳嬰は反乱の鎮圧に功績があった様で、劉邦から千八百戸の侯に任命されました。
高祖功臣侯者年表に堂邑侯の項目に陳嬰が記載されている事から、ここで堂邑侯になった様に思います。
高祖功臣侯者年表の年表には、『高祖の6年・安侯陳嬰の元年』とする記述があります。
それを考えると、陳嬰が封じられたのは西暦201年になるはずです。
この頃は、韓王信が匈奴に投降するなど、匈奴との対立が深まっており、翌年の紀元前200年には劉邦と冒頓単于の間で白登山の戦いが勃発しています。
北方が不穏になっている時期に、南方で反乱が起き、陳嬰が平定に活躍したのでしょう。
さらに、高祖功臣侯者年表には、次の一文が存在します。
「楚の元王の相たること、11年」
これを見ると、陳嬰は劉邦の弟でまる劉交(楚の元王)の宰相だった事が分かるはずです。
諸侯の大臣ではありますが、陳嬰は漢朝でもある程度の信任は得ていた事が分かります。
陳嬰の最後
陳嬰の最後ですが、史記の高祖功臣侯者年表には下記の記述があります。
「高后の五年が共侯祿の元年」
ここでいう高后は呂后の事であり、高后の5年(西暦183年)に、陳嬰はこの世を去り息子の陳祿が、堂邑侯を継いだと読み取る事が出来ます。
陳嬰の母親は首謀者となって危険を犯すよりも、誰かの配下となり、陳嬰が天寿を全うする事を願ったはずです。
それを考えれば、陳嬰は見事に天寿を全うした様に思います。
陳嬰は楚の上柱国になった頃から、歴史の舞台から消えた様に思うかも知れません。
しかし、最終的に千八百戸の領主と言うのは、立場的に安全だと言える部分もある様に感じました。
劉邦の元で大功臣となった韓信は処刑され、蕭何も獄に下された事がありますし、張良も仙人の修業を始めるなど、明らかに劉邦ら権力者を意識した行動を取る様になっています。
さらに、劉邦は樊噲であっても、斬首しようとした事があったわけです。
陳嬰の堂邑侯位では、劉邦が警戒する対象にもならず、比較的権力にも遠く安全だった様に思いました。
勿論、何かしらをやらかせば別ですが、君主が危機を感じる様な身分でもなかったのでしょう。
陳嬰は母親の言葉を全うした様に感じています。
陳嬰の子孫
陳嬰の子孫ですが、陳祿が後継者となります。
陳祿は漢の文帝(劉恒)の時代に亡くなった記録があります。
陳祿は呂后の粛清の対象にはならなかったのでしょう。
呂后の時代は中央は政争に明け暮れていたかも知れませんが、陳祿は中央にいなかった様に思います。
陳祿が亡くなると、陳午が後継者となります。
陳午は景帝の姉に当たる劉嫖(館陶公主)を娶りました。
陳午は権力にかなり近づいたと言えるでしょう。
陳午と劉嫖の間に娘が生まれ、武帝に嫁ぐ事になります。
これが陳皇后です。
陳皇后は武帝の寵愛を受けますが、10年以上も子が出来ませんでした。
そうしているうちに、武帝の寵愛は衛夫人に移っていき、陳皇后は嫉妬に狂う事になります。
陳皇后の嫉妬は凄まじく衛夫人の一族の衛青を拉致したり、衛夫人を呪い殺そうとした話まであるほどです。
これらの行為が明るみとなり、陳皇后は皇后の位を廃されて長門宮に幽閉されています。
陳皇后が武帝に寵愛された事から、陳家も裕福になりましたが、陳午の死後に子の陳須と陳融が財産を争う事になります。
さらに、罪を犯し陳須と陳融は自殺し、陳嬰が封じられた堂邑侯は国を除かれました。
陳嬰の母親や陳嬰の頃の陳家は危機管理が良く出来ていた様に思いますが、子孫はそうはいかなかったのでしょう。
陳嬰が謙虚な人物であったとしても、子孫には通じなかった様です。
尚、陳家は漢の宣帝の時代に、陳尊が復活させた話もあります。
陳嬰の評価
陳嬰を見ると、史記では母親の言葉で「王」にならなかった事が、最大の記録となるでしょう。
史記を書いた司馬遷は出処進退に関して、多くの文章を割く傾向にあります。
そうした司馬遷も特性もあり、司馬遷は陳嬰と母親の話を乗せたのでしょう。
尚、陳嬰が反乱軍の主導者にならなかったのは、劉邦配下の蕭何や曹参にも通じる所があります。
蕭何や曹参は指導者になる事のデメリットを知っており、劉邦が沛公になる様に要請しました。
それを考えれば、蕭何や曹参などの沛の人々も、陳嬰の母親と同じ考えを持っていたのでしょう。
因みに、陳嬰は東陽県の若者たちに支持されて、指導者となりますが、戦いで言えば将軍としては、それほど向かなかったのかな?と感じる部分があります。
楚漢戦争で項羽の背後でゲリラ戦を展開した彭越なども、皆に支持されて長となったわけです。
この時に、彭越は時間に遅れて来た、最後の者を斬り捨てた話があります。
こうした軍規を引き締める行動が陳嬰にはなく、掛け声ばかりで纏まりがない様子を見て、母親は陳嬰を諭した様にも思いました。
それでも、陳嬰は楚漢戦争も潜り抜けて、呂后の時代まで生き抜いたのは見事だったと言うべきでしょう。
ただし、陳嬰の子孫は残念に思いました。