エジプト新王国 古代エジプト

ツタンカーメンの生涯『若くして即位し亡くなった少年王』

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

名前ツタンカーメン
別名トゥトアンクアメン、ツタンカーテン
在位前1336年頃ー前1327年頃
時代エジプト新王国
王朝エジプト第18王朝
一族父:アクエンアテン 配偶者:アンケセナーメン
コメント黄金のマスクで有名

ツタンカーメンはエジプト第18王朝のファラオです。

日本で最も有名なファラオと言えば、ツタンカーメンではないでしょうか。

その王墓は未盗掘で発見されており、話題になりました。

当然ながら財宝(副葬品)もそのまま残っていたわけです。

ただし、ツタンカーメンの名前を知っていても、どの様な生涯を辿ったファラオだったのかは意外と知られていない様に感じています。

今回はツタンカーメンの生涯と共に王墓の埋葬品の話を致します。

尚、ツタンカーメンの本当の名前は「トゥトアンクアメン」であり、これを日本語で繋げるとツタンカーメンとなります。

ここで注意する必要があり、ツタンカーメンの名前で通じるのは日本だけで、海外では「トゥトアンクアメン」が主流で、「トゥト」と呼ばれたりもしています。

因みに、ツタンカーメンの王墓には未知の空間があるともされていましたが、日本、アメリカ、イタリヤの研究チームによって電磁波で調査をしてみましたが、現在の所は未知の空間は見つかっていません。

ツタンカーメンは誰の子なのか

ツタンカーメンの母親は誰だったのか

一般的にはツタンカーメンはアクエンアテンの子だとされています。

そうなると、ツタンカーメンの母親は誰なのか?となりますが、これがはっきりとしない部分でもあります。

アクエンアテンの墓には2つの部屋があり、両方の部屋には悲しむ様子のアクエンアテンとネフェルティティが描かれています。

片方の部屋にはマケトアテンの名が記録されていますが、もう片方の部屋には被葬者の名前が入っていません。

しかし、赤子を抱いた乳母が描かれており、難産によりツタンカーメンの第二夫人のキヤの死を現わしているのではないかとも考えられています。

この赤子こそがツタンカーメンではないかとも考えられる様になりました。

ツタンカーメンが誕生した頃から、キヤの記録がなくなっており、支持されている説でもあります。

ただし、あくまでも絵画から読み取っただけであり、想像上の産物の可能性も指摘されており、本当にツタンカーメンがキヤの子だったのかは分からない状態です。

ツタンカーメンの父親がアメンホテプ3世説

ツタンカーメンの父親がアメンホテプ3世という説があります。

アメンホテプ3世はアクエンアテンの父親であり、この説を採用するとツタンカーメンとアクエンアテンは兄弟という事になります。

アメンホテプ3世はヌビアにソレブ神殿を建造しており、ライオン像があります。

このライオン像にツタンカーメンがアメンホテプ3世は「我が父」と呼ぶ碑文が刻まれているわけです。

ツタンカーメン自身がアメンホテプ3世を「父親」と呼んでいるわけであり、アメンホテプ3世の子だとする説が誕生したのでしょう。

ただし、「我が父」と呼ぶのは「先祖」を指す言葉だとも考えられています。

ツタンカーメンの墓にはアメンホテプ3世とティイの遺物が多く入っており、これもツタンカーメンがアメンホテプ3世の子だとする説を後押ししました。

しかし、先祖の遺物を大切にするのは当たり前とする考えもあり、さらに言えば、ツタンカーメンは8歳頃にファラオとなっており、誕生したのはアクエンアテンの時代とするのが打倒で、既にアメンホテプ3世は亡くなっていたと考える事ができます。

ただし、アメンホテプ3世とアクエンアテンには共同統治の時代があったとする説があり、ツタンカーメンはアメンホテプ3世の子でも問題ないとする専門家もいる状態です。

実際のところは、ツタンカーメンの父親も母親も、諸説があり正確な部分は分かりません。

ファラオとなる

ツタンカーメンはアクエンアテンの後継者であり、王位継承は決まっていたとされています。

しかし、即位したのはアクエンアテンと共同統治を行っていたネフェルネフェルウアテンが亡くなってからです。

一般的にはツタンカーメンが即位したのは、8歳くらいだと考えられています。

ツタンカーメンのミイラを調べたところ、亡くなったのが18歳くらいだと考えられ、治世10年で亡くなったとされており、逆算すると8歳くらいで即位した事になります。

8歳ほどのツタンカーメンが政治を行うのは不可能であり、神の父の称号を持つアイと将軍のホルエムヘブが政治を行う事になります。

財務長官にはマヤが就任しました。

尚、ツタンカーメンは即位した時には、ツタンカーテンを名乗っています。

父親と同じ様にアテン信仰があり、名前にアテン神の名前が入っていました。

因みに、ツタンカーメンの遺物として筆箱のようなものが見つかっており、読み書きが出来たのではないかともされています。

ツタンカーメンの誕生

ツタンカーメンが即位すると、治世の4年目くらいで名前をツタンカーメンとしました。

ここでは紛らわしさを避けるためにツタンカーメンの名で最初から呼んでいましたが、ツタンカーメンを名乗ったのは治世の4年目くらいだという事です。

尚、ツタンカーテンからツタンカーメンに改名したとする説もありますが、ツタンカーメンの黄金の玉座やチャリオットには、両方の名前が書かれており、ツタンカーテンとツタンカーメンの両方の名を使っていたとも考えられています。

他にも、表向きはツタンカーメンを名乗ってはいましたが、アテン神への信仰は忘れおらず、実際にはアテン信仰を行っていたのではないかともされています。

ツタンカーメンのミイラが被っていた帽子もアテンの名が入っていました。

因みに、ツタンカーメンと名乗った時には、王妃のアンクエスエンパーアテンもアンケセナーメンと名乗る様になりました。

ツタンカーメンと家族

ツタンカーメンの妻はアンケセナーメンですが、アクエンアテンの娘でもあります。

つまり、ツタンカーメンは異母姉と結婚した事になります。

それと同時に、ツタンカーメンには家族と呼べるのが、アンケセナーメンだけになっていたと考えられています。

この時点でエジプト第18王朝の滅亡が見えて来たのではないでしょうか。

ツタンカーメンとアンケセナーメンは壁画にも描かれており、夫婦仲はよかったのではないかと考えられています。

二人の間に子も誕生したとする話もありますが、流産だったとも伝わっています。

ツタンカーメンの遷都

ツタンカーメンはアテン神を唯一神とする信仰を取りやめて、アメン信仰を復活させたりもしました。

首都もアケトアテン(現在のアマルナ)から、メンフィスに遷しています。

ただし、別説としては本拠地を元のテーベに戻し、メンフィスとの間を行き来していたとも考えられています。

それでも、メンフィスにはツタンカーメンの家があった話もあり、ツタンカーメンとは下エジプトを活動の拠点としていた説も根強くあります。

尚、ツタンカーメンの遺物として折り畳み式のベッドが見つかっており、アケトアテンから新しい都に移動した時に使われたのではないかともされている状態です。

さらに、遺物としてベス神の高枕も見つかっており、一緒に使っていた可能性が指摘されています。

神々の復興

テーベを宗教の中心地として、カルナクのアメン大神殿やルクソールの神殿を復興させました。

ツタンカーメンがカルナクアメン神殿に捧げた碑文には、次の様に書かれていました。

※エジプトうんちく図鑑より引用

余は神殿が廃墟になっているのを見た。

その聖なる場所は打ち壊され、庭は雑草が生いしげっていた。

余は祭壇を再建し、神殿に再び財源を与え、全ての貴重な品々を贈り物として神殿におくった。

余は諸神の像を金とエレクトラムで鋳造し、ラピスラズリおよび全ての美しい石で飾った。

さらに、アメン神への忠誠の証として、アメン神最大の祝祭である「オペト祭」を行う様になります。

エジプト文明は再び多神教国家となりました。

アクエンアテンが破壊した神々の神殿や神像を修復するだけではなく、新たに神々の神殿や神像を制作する様になります。

ツタンカーメンの時代にアクエンアテンのアマルナ革命を取りやめ、元に戻そうとした事が分かるはずです。

アメン信仰は再び復活しましたが、ラー神やエジプトの様々な神々が復活し、アクエンアテンの時代に唯一神だったアテン神も崇拝されました。

アメンホテプ3世の時代はアメン神が圧倒的に強かったわけですが、ツタンカーメンの時代になるとアメン神の力もある程度は弱まっていたと考えられています。

ツタンカーメンは多神教復興のシンボルとなっています。

尚、信仰の復活には莫大な費用が掛かった様であり、ツタンカーメンの治世8年目には、各地の神殿を復興する為に租税を取り立てた話しもあります。

ただし、これらはツタンカーメンではなく、重臣たちが主導して行ったのでしょう。

ツタンカーメンの最後

ツタンカーメンの時代にエジプトの宗教は元に戻って行きましたが、ツタンカーメンは在位10年ほどで世を去る事になります。

ミイラが見つかっており、先にも述べた様に死亡年齢は18歳ほどだと考えられています。

マラリヤで死亡したなどの説もありますが、真相は定かではありません。

ツタンカーメンのミイラの左足の皿の下を骨折しており、何らかの事故により死亡したのではないかとも考えられています。

傷ついた部分は壊死しており、杖なしでは歩けなかったとも見られています。

ツタンカーメンのお墓からは、杖が130本以上も見つかっており、足が悪かったのは確実でしょう。

戦争を行った時に、チャリオットから落馬した説もありますが、正確な理由は不明です。

それでも、亡くなる時までには不自由な体になってしまった事は間違いないでしょう。

尚、ツタンカーメンが亡くなると、妻のアンケセナーメンはヒッタイトのシュッピルリウマ1世に書簡を送り、息子の一人をファラオにするから送って欲しいと連絡した話があります。

ヒッタイトに手紙を出したのは、ネフェルティティだったとする説もありますが、これがザナンザ事件に繋がり、エジプト新王国とヒッタイトの関係が悪化する原因にもなっています。

因みに、ツタンカーメンは次のファラオであるアイに暗殺されたとする説も残っています。

ツタンカーメンのお墓

ツタンカーメンの第二の棺

ツタンカーメンの墓はカーナヴォン卿の援助を受けたハワード・カーターにより発見されています。

多くの財宝が発見されており、墓の規模は大きいと思われがちですが、実際には、最大規模のエジプト第19王朝のセティ1世と比べてみても小さく、それほど大きなものではありません。

ツタンカーメンの棺はミイラに至るまで8重になっていました。

しかし、第二の棺の顔がツタンカーメンの顔と明らかに違っており、内臓が入っていた小型の棺に近い形状だったわけです。

さらに、アクエンアテンの時代に共同統治王だったスメンクカーラーの即位名であるアンクケペルウラーをツタンカーメンに修正した痕跡がありました。

こうした事情から、スメンクカーラーの為に用意していた棺をツタンカーメンに、変更してしまったとみる事が出来ます。

他にも、ネフェルティティの為のものを、ツタンカーメンに代えてしまったと見られる遺物も存在しています。

ツタンカーメンの遺物

ツタンカーメンの遺物として、服や杖、ベッド、チャリオットやボードゲームなど身の回りの代物が発見されました。

他にも、チャリオットやボードゲーム、トランペットの様な楽器も発見されました。

尚、黄金の玉座も発見されており、これを見たカーナヴォン卿は「ツタンカーメンの遺物の中で最も素晴らしい」と述べた話があります。

珍しいものとしては、マネキンが見つかっており、ファラオはマネキンを使って服装などをチェックしたのではないかとされています。

さらに、145枚ほどのパンツが見つかっています。

大量の下着が埋葬された理由については、ツタンカーメンは足の怪我により壊死していたとも考えられており、清潔感を保つ為に大量の下着を必要としたのではないかと考えられています。

頭巾など全身を覆う様々な遺物があり、杖に関しては130本以上も見つかっています。

先にも述べた様に、ツタンカーメンは足を負傷しており、多くの杖を副葬品としたのでしょう。

尚、ツタンカーメンの遺物が盗掘されなかったのは、ツタンカーメンはアクエンアテンやアイらと共に王名表から外されており、実在を否定され忘れ去られたからだとも考えられています。

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