鄧義は正史三国志の劉表伝などに記録がある人物です。
正史三国志には鄧義が荊州章陵郡の出身だと記載されています。
鄧義は曹操を高く評価しており、袁紹と結ぶ劉表を諫めた話があります。
鄧義は劉表が自分の意見を聴き入れない事が分かると、劉表の配下を辞職しました。
鄧義に関する記述は少ないですが、自分を貫いたと見る事も出来るはずです
劉表を諫める
董卓死後に、李傕と郭汜が長安を抑え、劉表を味方としたいと考えました。
李傕らは劉表を鎮南将軍、荊州牧に任命しました。
しかし、李傕と郭汜は長安で争い政権は長続きせず、西暦196年頃に後漢の献帝は曹操が保護しています。
劉表は許昌に献帝がいる事を知ると貢物の献上はしましたが、北方の雄である袁紹とも同盟を結んだわけです。
この時に、鄧義は劉表を諫めた話があります。
鄧義が何と言って劉表を諫めたかは不明ですが、鄧義に諫められた劉表の回答が『漢晋春秋』にあります。
劉表「内なる朝廷に対しては貢物の献上を怠るべきではない。
また、外にいる盟主である袁紹も裏切るべきではない。
これが最も筋が通った天下の道義となるであろう。
治中(鄧義)の一人がなぜ、おかしいと言うのであろうか。」
劉表の言葉を考えると、鄧義は「袁紹と曹操の両方に近づくのは得策ではない」と進言したのでしょう。
後に鄧義が曹操に仕官し、重用された事を考えると、鄧義は曹操に味方する様に強く発言したと思われます。
しかし、劉表の言葉を見ると分かる様に、劉表は両面外交を展開し鄧義の言葉を聴き入れませんでした。
曹操に仕える
鄧義は自分の言葉を劉表が聞き入れない事を知ると、病気を理由に職を辞する事になります。
さらに、鄧義は劉表が生きている間は、二度と仕官しなかったとも記録されています。
鄧義にとってみれば、劉表は仕えるのに値しない人物だと考えたのでしょう。
隠遁生活を送っている間の鄧義が、どの様な動きをしていたのかは記録がなく分かっていません。
西暦207年に劉表が亡くなると蔡瑁や張允の強い意向により、劉琮が後継者となります。
この時の曹操は北方の大部分を制圧しており、荊州に向かって進撃してきました。
劉琮は王粲、蒯越などの進言もあり、曹操への降伏を決断しています。
曹操は劉琮の降伏を受け入れ、劉琮は本人の希望通り青洲刺史に任命し、荊州の劉先、韓嵩、蒯越、文聘らも重用しました。
この時に、鄧義も侍中になった話があります。
劉表が亡くなったタイミングで劉琮に仕官したのか、劉琮が曹操に降伏したタイミングで、曹操に仕官したのかは不明ですが、鄧義が再び仕官した事は間違いないのでしょう。
ただし、侍中になってからの鄧義が何をしたのかは不明であり、どこで亡くなったのかの記録もありません。
鄧義の最後も不明だとも言えます。
鄧義の評価
鄧義は劉表から去った事を考えれば、頑固な部分もあったのでしょう。
それでいて荊州からは鄧義は動かなかった様であり、荊州の名門である名士だった可能性が高い様に思います。
鄧義は自分を貫いた部分も多々あり、劉表には仕えなかったと思いました。
因みに、三国志演義だと鄧義は蔡瑁に命じられ劉先と共に荊州を守備しますが、曹操が攻めて来ると直ぐに降伏するなど、史実にはない役柄を与えられています。
さらに、コーエーテクモゲームスの三国志では能力値のパラメーターに「小心」が加わっているなど、史実を考えると気の毒な役割でもあると感じました。
鄧義の能力値
三国志14 | 統率42 | 武力22 | 知力61 | 政治72 | 魅力56 |