名前 | 張範(ちょうはん) 字:公儀 |
生没年 | 生年不明-212年 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 曹操 |
一族 | 祖父:張歆 父:張延 兄弟:張承、張昭 子:張陵 |
コメント | 無欲の賢人 |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
張範は陳寿が書いた正史三国志に張範伝が立てられており、記録が残っています。
張範は司隸河内郡修武県の人だとあります。
張範の祖父の張歆は司徒、父の張延は大尉になっており、袁紹や袁術の汝南袁氏ほどではないにしても、名士と呼ぶに相応しい家柄の人物です。
張範の弟に張承や張昭(呉の張昭とは別人)がいますが、弟達と違い張範は仕官しようとはしませんでした。
張範は老荘思想を好んだ話もあり道家の思想が強く、言ってみれば「無欲の賢人」とも呼べる人物です。
しかし、最後は曹操に仕えると邴原と共に重用され、信頼された話があります。
尚、張範は正史三国志の袁張涼國田王邴管伝に記述があります。
下記が袁張涼國田王邴管伝に収録されている人物の一覧となります。
仕官しようとせず
正史三国志によると張範は老荘思想を好んだせいか、栄利に無関心で朝廷から召し出されても仕官しなかった話があります。
普段の張範は落ち着いた性格で無欲の人だった様です。
名門汝南袁氏の袁隗が娘を張範に娶せようとした話がありますが、張範は固辞して受け入れませんでした。
張範は老荘思考を好む無欲な人であり、権力に対しても興味がなく袁隗の娘との縁談を断わったのでしょう。
尚、袁隗に関してもはっきりとしない部分もありますが、一つの説として袁紹や袁術の父親説もある人物です。
揚州に避難
董卓が実権を握った頃に、張範の弟である張承が挙兵しようとしますが、さらに下の弟の張昭に諫められ故郷の司隸河内郡修武に戻ってきました。
ここで張範と張承は合流する事となります。
しかし、故郷の修武にいても兵乱に巻き込まれると思ったのか、張範は張承と共に揚州を目指しました。
当時は揚州の寿春には袁術がおり、強勢を誇っていたわけです。
袁術は張範に対し、十分な礼をとり招こうとします。
しかし、張範は病気と称して行かず、弟の張承を袁術の元に派遣し挨拶をさせました。
因みに、張承と袁術の会談では、袁術は野心を見せますが、張承は迎合せず袁術を諫めた話があります。
後に張範と張承は揚州から彭城に移りました。
曹操からの招聘
張範が彭城にいた頃に、曹操が張範を招こうとした話があります。
この時に張範は病気であり、弟の張承を曹操の元に向かわせた話があります。
曹操は張承を諫議大夫とし、任官出来る様に取り計らった話があります。
弟の張承は曹操に仕えますが、張範は曹操に仕えなかったわけです。
因みに、この頃に曹操は冀州を平定したとあり、曹操が張範を招こうとしたのは、袁譚を殺害したか、審配が守備する鄴を陥落させた頃だと感じます。
西暦で言えば204年か205年頃となるのでしょう。
尚、この頃に張範の子・張陵と張承の子の張戩が賊に捕まった話があります。
ここでの張範は思いやりの心を見せた事で、張陵と張戩は無事に釈放された逸話があります。
曹操に仕える
曹操は赤壁の戦いで敗れると、江陵を曹仁に任せるなどし、荊州から撤退しました。
こうした中で、陣中で張範が曹操に目通りした話があります。
この時は張範が自ら、曹操に会いに行ったのでしょう。
曹操と張範は会談をする事になったのですが、曹操は張範に対し尊敬され重んじられる事となります。
張範伝には次の記述が存在します。
※正史三国志 張範伝の記述
太祖(曹操)は出征をする時は、いつも都の事は張範と邴原を留め置き、世嗣の曹丕と共に留守を任せた。
太祖は文帝(曹丕)に向かい『行動を起こす時は必ずこの二人と相談せよ』と述べていた。
上記の記述から張範と邴原が、如何に曹操から信頼されたかが分かるはずです。
文帝(曹丕)も邴原と張範に対しては、子や孫としての礼を行い尊重した話があります。
崔琰も張範の才能と人柄を認め、高く評価した話が正史三国志に見る事が出来ます。
邴原と張範
邴原と張範は非常に考え方が似ており、共に信愛していた話があります。
張範は邴原の事を尊敬していましたが、曹操は張範に関して懸念もあった様で、次の様に張範に対して述べています。
曹操「邴原の名は高く徳はとても大きい。清らかな規範は社会を超越しているし、どっしりとそびえ立っている。
儂も思い通りにはならない。
張子(張範)は邴原に学ぼうと努力している様ではあるが、私は邴原まで到達した者は富むが、邴原に追従した者は貧しくなるのではないかと思う。
私はそれを懸念している」
曹操は張範に対し、危惧も抱いていたのでしょう。
邴原に関しては徳は高いが一般人が真似をしようとしても難しく、逆に貧しくなってしまうのではないか?と述べた事になります。
この話は邴原伝の記述にありますが、張範が曹操の言葉に対し、どの様に返答したかの記載がなく不明です。
無欲の賢人
張範は家には余財を残す事はなく、窮乏した者を助け恩恵を与えていた話があります。
こうした事から都では、孤児や未亡人などが張範を頼ったとあります。
張範は贈り物が届くと受け取りはしましたが、贈り物を使う事はせず、離れる時になると全て返却したとあります。
それを考えると無欲の賢人とも呼べる人物だったのでしょう。
張範は思いやりがあり誠実な人物だと感じました。
尚、張範伝の記述によれば建安17年に張範は亡くなったとあります。
それを考えると張範が亡くなったのは西暦212年だったはずです。
この頃の曹操は潼関の戦いで馬超や韓遂を破りますが、濡須口の戦いでは孫権に敗れており、この頃に張範は亡くなってしまったのでしょう。
張範が曹操に仕えたのは、5年にも満たなかったはずです。
尚、張範の死に関しては亡くなった事しか書かれていませんが、多くの人に惜しまれての死だった様に感じます。
張範の能力値
三国志14 | 統率10 | 武力7 | 知力64 | 政治72 | 魅力78 |